第三話「魔界のシッターは誘惑の夢を見るか」
その日の朝、私の執務室の扉は、断罪の雷でも落ちたかのような勢いで跳ね飛ばされた。
「――ザルガス様。正気ですか」
現れたのは、私の腹心であり、隠密部隊を率いるサキュバスのリリスだ。 普段は男を惑わす残忍な笑みを絶やさぬ女が、今は般若のような形相で私を……いや、私の膝の上で、私の「魔族の象徴」にピンク色のリボンを結ぼうと奮闘しているネルを指差した。
「戦場から生餌を連れ帰り、あまつさえ己の私室で飼い慣らすとは。……これは魔王様への反逆、あるいは貴方の脳が腐り落ちた証左ですか?」
「反逆ではない。戦利品の検分だと言ったはずだ」 「言い訳が苦しすぎます! この生物は脆弱な人間。魔界の瘴気に当てられれば、数日で内臓から腐って死ぬわ。……いいでしょう、これ以上貴方が無能を晒す前に、私が『処理』してあげます」
リリスはネルの襟足を、まるで汚物でも摘むように持ち上げた。 「いい、人間の仔。私は貴方の味方ではないわ。その耳障りな声で泣くようなら、私の魔力で一生冷めない悪夢を見せてあげる」
氷のような言葉。ネルは怯えるかと思ったが、あろうことかリリスの尖った耳に興味津々で手を伸ばしている。私は一抹の不安を覚えたが、山積した軍事会議を優先せざるを得なかった。
……数刻後。 会議を終え、最悪の事態(冷たくなったネル)を覚悟して部屋に戻った私の目に飛び込んできたのは、理解を絶する光景だった。
「ほら……しっかり掴まって。落ちたら、お姉様が食べちゃうんだからね……っ」
そこには、床に四つん這いになり、ネルを背に乗せて這いずり回るリリスの姿があった。 あのお高くとまったサキュバスの女王が、頬をだらしなく染め、あられもない声を漏らしている。
「お馬さーん! はやいー!」 「ふふ、そうよ、もっと速く? ……あら、羽を引っ張るのは反則……あぁっ、そこは、ダメ……っ」
「おい、リリス。永遠の眠りに落とすのではなかったのか」
私が声をかけた瞬間、リリスは雷に打たれたように跳ね起き、ネルを抱いたまま後退りした。
「こ、これは違います、ザルガス様! この人間が私の移動速度を計測したいと申し出たので、重力の実験を……! そう、これは高度な軍事演習です!」
「軍事演習で、そんなふやけた顔をするのか?」
「……っ! 仕方ないでしょう! この子、お腹が空くと私の指を吸うのですよ!? サキュバスである私の魔力を逆搾取しようなんて、なんて恐ろしい子……。ふふ、将来が楽しみな毒婦になるわ」
もはや隠しきれない愛情が、その言葉の端々から溢れ出している。 リリスは、ネルが彼女の胸元に顔を埋めると、戦場では決して見せない慈愛の表情で、その細い髪を梳いた。
「ザルガス様。……この子は、私が管理します。貴方のような岩石巨兵並みの無骨者に、この繊細な『宝物』を扱わせるわけにはいきません」
どうやら、ネルはこの城で最も残酷な隠密の心すら、一瞬で暗殺してしまったらしい。 魔王城が、私の知らない「未知の領域」へと変貌していく。私は深いため息とともに、角に結ばれたリボンにそっと触れるのだった。
第三話あとがき
あのね、きょうは「リリスおねえちゃん」とあそんだんだよ。
おねえちゃん、最初はすっごくこわいお顔をしてたの。 「めっ」てされるのかなって、ネル、ちょっとドキドキしたんだ。
でもね、おねえちゃんの背中に乗せてもらったら、羽がふわふわで、すっごく気持ちよかったんだよ。
ネルがおねえちゃんの指をちゅーちゅーしたら、おねえちゃん、お顔を真っ赤にして「もう、しょうがないわね」って笑ってくれたの。 おねえちゃん、とってもいいにおいがするんだよ。
おじちゃんと、おねえちゃん。 ネル、ふたりとも大好き。




