第十三話「忘却の淵、刻まれた名」
ネルがこの城に来てから数ヶ月。彼女の笑い声が日常に溶け込むほどに、私にはずっと喉の奥に刺さった棘のように、気にかかっていることがあった。
あの日。死臭と腐肉の匂いが漂う泥濘の中で、なぜ彼女は、石のように硬くなった一切れのパンを、あんなにも必死に握りしめていたのか。
魔軍の情報部から届けられた報告書には、血で書かれたような残酷な記録が綴られていた。 ネルの故郷は、魔国との国境に近い開拓村。だが、そこを焼き払ったのは魔族ではない。信仰と正義を掲げる、同じ人間たちの軍閥による略奪だった。
ネルの母は村の教会の「聖女」として慕われ、最期は兵士たちの刃から娘を逃がすため、唯一の食料であるパンをネルに持たせ、自ら血の盾となって散ったという。 魔族よりも残酷な同族に裏切られ、暗闇に取り残された幼子。それが彼女の真実だった。
「……おじちゃん? その紙、なあに?」
背後からネルの声がした。反射的に報告書を隠したが、彼女は私の手元など見ていなかった。ただ、痛々しいものを見るような眼で、私の貌を覗き込んでいた。
「おじちゃん、また悲しいお顔してる。……ネル、知ってるよ。ネルのおうちは、もう燃えちゃったんでしょ?」
私は、言葉を失った。幼い彼女が、自分の境遇を――そして母がもういないことを、これほどまで静かに、深く受け止めているとは思わなかったのだ。
「あの日、ママがね、お外はとっても暗いけど、いつか『一番あたたかい光』が助けに来てくれるって言ったの。だからネル、ずっと待ってたんだよ」
ネルは私の大きな、数多の命を奪ってきた無骨な掌を、両手で包み込んだ。
「おじちゃんが来てくれたとき、ネル、あたたかくてびっくりしたの。おじちゃんは魔族さんだけど、ママが言ってた『光』だったんだよ。……だって、誰よりもネルのこと、大切そうに見てくれたから」
胸の奥が、焼けるように熱くなった。 彼女が私を怖がらなかったのは、無知だったからではない。人間という「光」に絶望し、絶望という「闇」の中で、誰よりも必死に本物の「温もり」を探していたからなのだ。
私は、震える腕で彼女を強く、壊さぬように抱きしめた。 魔剣よりも、魔王の権能よりも、今はこの小さな体温が、何倍も重く、尊く感じられた。
「……ネル。過去を忘れる必要はない。だが、これからは私の名がお前の盾となる」
私は彼女の耳元で、自分自身に言い聞かせるように、低く誓った。
「お前を泣かせる者は、たとえ神であろうと、聖職者であろうと、私がこの世から消し去る。お前の『光』でいるためなら、私はいくらでも、真の怪物になってやろう」
私の胸の中で、ネルは「うん」と小さく頷き、静かに、初めての安らかな涙をこぼした。 月光の差し込む窓の外を見つめながら、私は己の魂を、彼女の未来という名の戦場に捧げることを改めて誓った。
あのね、ネルね、ずっと言えなかったことがあるの。
ネルのおうちはね、とっても暗いところで、悪いおじさんたちが怖かったの。 ママが最後にくれたパン、すっごく硬かったけど、ママの匂いがしたんだよ。
でもね、いまはもう寂しくないの。 おじちゃんがネルを見つけてくれたとき、おじちゃんのお手々から、ママの言ってた「光」がぴかーって見えたんだもん。
おじちゃん、ネルのために悲しいお顔をしてくれてありがとう。 ネルね、おじちゃんの盾に、いーっぱいお花を飾りたいな。
おじちゃん、これからもずっと、ネルの「光」でいてね。




