第十話「玉座の前の小さな聖女」
魔王城最深部。開かれた扉の先には、光さえも飲み込む「虚無」が鎮座していた。 謁見の間。そこは魔王の魔圧により、常人ならば足を踏み入れた瞬間に心臓が止まる死の領域だ。
私はネルを抱き、赤い絨毯を一歩ずつ踏みしめる。左右を固めるリリス、モルテ、ゼオラ。魔界を震え上がらせる最強の幹部たちが、今は一様に冷や汗を流し、ネル一人のために己の全魔力を盾として展開していた。
「……ザルガスよ。面白い『火種』を拾い上げたものだな」
玉座に深く腰掛けた魔王が、緩慢な動作で視線を向ける。その一瞥だけで、私の甲冑にピキリと亀裂が入った。
「魔王様。この娘は――」 「よせ。管理だの戦利品だの、反吐が出るような嘘は聞き飽きた」 魔王が立ち上がる。その瞬間、謁見の間の大気が物理的な質量を持って私たちを押し潰した。 「貴様らは狂ったのだ。たった一人の人間の仔のために、この私の前に立ち塞がるとはな」
魔王が階段を下りてくる。その一歩ごとに世界が鳴動する。 だが、その絶望的な威圧の中、私の背中で震えていたはずのネルが、不意に私の手をすり抜けた。
「待て、ネル!」 私の静止も聞かず、ネルは魔界の神とも呼べる存在の元へ駆け寄り、あろうことか、その漆黒の衣の裾をぎゅっと掴んだ。
「……おじちゃん。一番、寂しいお顔してる」
時間が、止まった。 リリスが絶望に顔を白くし、ゼオラが死を覚悟して剣を抜く。 だが、魔王は動かなかった。数千年間、恐怖と畏怖しか向けられなかった破壊の化身が、初めて向けられた「同情」に、石像のごとく硬直していた。
「……ほう。この私を見て、初めに『寂しい』と言ったか。……ハ、ハハハハ!」 魔王の乾いた笑い声が、ステンドグラスを粉砕する。 「数千年生きてきて、人間の子供に憐れまれる日が来るとはな。……愉快だ。あまりに滑稽すぎて、殺す気が失せた」
魔王は静かにネルの頭を撫でた。その手から溢れる凶悪な魔力が、ネルに触れた瞬間、嘘のように凪いでいく。
「ザルガスよ。この娘を生かすことを認めよう。だが、これは福音ではない。呪いだ」 魔王は、残酷なまでに美しい貌に愉悦を浮かべた。 「この娘は、魔界を塗り替える『光』か、我らを滅ぼす『凶刃』か。……私はそれを特等席で見届けさせてもらう。もし、この娘が我らの脅威になると判断したその時は……」
魔王の眼が、紅く燃え上がる。 「私自身がこの娘を、そして彼女を選んだ貴様ら全員を、地獄の底まで叩き落としてやる。……異論はないな?」
「……承知いたしました。そのような絶望、決して見せはしません」
私はネルを再び抱き上げた。 提示されたのは、執行猶予付きの死刑宣告。だが、城の主は認めたのだ。 守るべきものは、魔界そのものを敵に回すよりも重い。 だが、腕の中で「おじちゃん、いい子いい子してくれたよ!」とはしゃぐネルの重みを感じながら、私はただ、不敵に口角を上げるのだった。
あのね、ネルね、きょう一番えらい「まおうおじちゃん」に会ってきたの!
お部屋に入ったときは、すっごく寒くて、ちょっと怖かったんだけど。 でも、おじちゃんのお顔を見たら、なんだかネル、悲しくなっちゃった。 あんなに強そうなのに、独りぼっちで、すっごく寂しそうだったんだもん。
だからね、裾をぎゅってして「寂しいの?」って聞いたら、おじちゃん、びっくりして笑ってたよ! それから、頭を撫でてくれたの。おじちゃんの手、大きくてちょっとドキドキした!
おじちゃん(ザルガス)たちは、みんなお顔が真っ白だったけど、最後はまおうおじちゃんと仲良くなれたのかな?
ネル、このお城がもっともっと大好きになったよ! 明日も、みんなで笑っていられるよね?




