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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

僕の遺書

作者: もち。

発行者序文


私はこの本を、再び世に出すことを決断した。

そこでこの本は、大元の本の表紙のデザインを殆どそのまま使っている。とはいえ、これが一度出版されたものなのかはわからない。誰が書いたのか、いつ書かれたのか、空想上のものか、かつての誰かの経験なのか。私には知る由もない。然し、私がこれを復刻しようと考えたのは、この本に興味を示す人間がいるかもしれない、ならばどんな人間だろうか、と言う単純で個人的な興味からである。この本を読んで、もし共感を抱いたり、面白いと感じた人は、この本の最後に付した郵便番号に連絡をよこしてもらいたい。


___________________________



失敗した。私の最大の失敗は生まれたことにある。価値を消費するしか能のない僕は、一体なんのために生きるのか。僕は昔から人間が嫌いだった。彼らは世界のもつ正当性より社会上の常識を当たり前にしていた。私はそれが嫌いだった。そして、彼らに馴染もうとしなかったのである。ある程度までは周りと大差なく育った。しかし3歳くらいから私はその”嫌い”という自己意識を持ち始め、その時から私は周りとずれ始めた。意識しなければ自然とその通りに成長できていたであろうものを思考し始めた段階で、私の社会性と周りの社会性とに差ができ始めてしまった。それは成長するにつれ次第に広がり、私にはどうにも修復不可能になった。私は人間のコミュニケーション、行動を感覚の面で理解しようとせず、理屈で理解しようとしてしまったのである。だから実験した。私が自我を持つきっかけになった”不快感”それについてはいくら考えても結論が出なかった。私はこの不快感が、周りよりも人一倍強かったと思う。実際それは私が周りに合わせようとせず、自己中心的であったからであろうが、この自己において、前述の通りずれていたからそもそも不満が多かったのである。私はあの不快と言う感覚についてはどうも理解できなかった、と言うより、受け入れられない何か、だった。つまり、表面上は理解しようとしていたのに、私はそれを本質で拒否し続けていたのだろう。私のこのズレ、嫌いと言うのは思考の自己意識を感じた時に起きたもので、私が感覚的なものを自覚した時は、所謂可愛いものや、キラキラしたもの、など、女児らしいものに興味を持ちだした。3歳から少し遅れて4歳の頃だった。私は店に行っては装飾の施された所謂パッチン留めと言われるものや、またそれの所属する髪留めの類、服においてはワンピースやドレスなどのフリルのついたようなまさに男らしくないものに興味を示しだした。親もそれに危機感を持ったのか、かっこいいもの、を私に見せた。しかしその段階で私は既に少しくらいの思考は働いたから、親が何を求めているかは裕に想像できた。私の親は、私に男であれ、男らしくあれといったのだ。一生。そして5歳になって、私はこの人間の行動などに対する嫌悪感が絶対的になる事象が起きた。私はこの時まで、家では全てに鍵がかけられていて殆ど監禁状態だったので、その分私は保育園ではやはりかなり暴れて結構な問題児だったのだが、その時に柵を乗り越えて少しスペースのある草藪の中に何人か連れて入って行ったことがあった。その時に小さな栗の木があって、その栗の木に毛虫が葉の側面に大量についていた。今思えば灰色の胴体に白い毛が生えていたからアメリカシロヒトリの子供であったのだろうが、知識不足の私はその並びからチャドクガだと思った。夢に見たチャドクガを見つけられて私は思った。これは世界のもつ価値なんだ。栗の木も価値、地面の土も価値、この栗の木の葉を持つ自分の指も価値、この友達も価値、草も空も雲も空気も全て世界の決めた法則、価値なんだ、と。私はその毛虫のつく葉を一枚とって振り向き、みんなに言った。「チャドクガだよ!チャドクガ!!近づかないで!危ないから!こっちは風上で持ってるけどみんなの方は風下だから少しでも毒針を分散させないといけない!」その途端、一瞬の隙もなく左からいきなり影が現れた。振り向いた時には目の前に手が伸びており、私の、葉を掴んだ右手を力強くはたいた。その拍子に私は葉を地面に落としてしまった。手を伸ばすより先に隣から足が伸び、その毛虫たちは潰された。しかもただ踏み潰すだけでなく、ぐりぐりとしっかり踏みちぎられた。足がどいた頃には大半原型をとどめていない蛾の幼虫だった液体と、半分体がちぎれてもがいている幼虫がいた。私は泣いた。世界の価値が世界の価値に破壊された。命は極めて高等な価値であり、それが同等以下の価値に損害される、破壊されるのなどと言うのは絶対にあってはならない。しかし人間はするんだ。そう思った。そこで「自分」ができたのである。結果、それをしたのは保育士だった。想像がつくのは自己防衛のためだろう。我々を傷つけないためではなく、保護者からの、または社会的な非難を恐れたのだろうと思った。この段階で私は異常になった。そこで人間は価値の生産の阻害、価値の破壊者であると小さいながらに思ったものである。6歳になって、「かっこいいねー、これ欲しいねー。」そう母親に、黒色と白色の生地に青と白の模様のある電車のデザインのはいったトートバッグをさして言われた。これは小学校に入る前トートバッグの様なものを購入するときのことだが、私は不快だった。極めて不快だった。しかしここでその意向、私を男の子にしたいと言う彼女の意向を全面的に否定することは、私の道徳が否定した。だからせめてもう少しマシなのと言って、全部水色に電車がいくつか描かれたトートバッグを指差していった。「かっこいいけどこっちがいい。」彼女は満面の笑みで、「そっか!じゃあこれにしようね!」と言った。勿論その選択も不快だった。それは自己否定の他なんでもなかったからである。もし買うとすれば本当は少し離れたところにあったピンク色のトートバッグが欲しかったのだが、そもそも私はそんなものの必要性がわからず、あまり執着できなかったからこそ少し理性的に判断できたのである。続いて私たちはランドセルのところに向かった。その時彼女はこう言った。「別に好きなもの選んで良いからね。色もなんでも良いよ。」その言葉を聞いて私は不快感が減った。私の頭は単純であったから、その言葉を聞いた途端に世界がキラキラして見えた。まあしかし、そんなことはあり得なかった。私が最初に指したランドセルは水色に赤の刺繍のあるランドセルと、ピンクの刺繍のあるランドセル。刺繍の色とは刺繍糸の事で、共に幾つかに蛾か蝶か見分けのつかない形が縫われていた。それはテレビのCMでも、店舗に入る前のポスターまた入った後のポスターでも見て、私に結構な好印象を与えたものだった。私は欲しいと思っていた。しかし彼女は言った。「はは…その辺女の子用だよ、男の子用のはこっち。」そう言って見てみると、全て黒一色だった。芸術性のかけらもなく、デザイン性のカケラもなく、単調でつまらなく、どれも大した差もなく、まず夜道危なくてあまり実用的でもない。そもそも私は黒が嫌いだった。私は昔から目がよく、光がとてもよく見えた。見えすぎた。なので薄暗いところに逃げる様になった。しかし私は黒という色は嫌いだったのだ。まるで全てを見透かされているようで、ただ光のある黒は美しいと思っていたのだがしかし、輝きのない黒については極めて嫌いだった。私は既に「男用のは…」と言われた段階で光を失った。故に目の前にあるのは単純な色だった。黒か、赤か、ピンクか、青か、水色か、どれかだ。何故だろう。何故女には4種類の選択肢があるのに男は一種類なのだろうか。男は統制に慣れなきゃいけないから?それとも心の鮮やかさを失わせたいのか。そう思った。私は彼女に全面的に否定を食らったのだ。なら私も相応の価値の侵害をしたとて同等、もしくは私の方が価値に侵害を食らっているに違いない。私は拒否した。「黒嫌。あれがいい。」私は水色のランドセルを指す。「だめ。こっちにしなさい。」また言われる。「黒じゃないのがいい!」「水色に赤色かわいいからこれ!」私は叫んだ。そして私は彼女にこう言われた。「じゃあ隣の赤でいい?」勝ったと思った。実際水色でも赤でもピンクでも何でもよかった。赤色のランドセルは水色、青色の隣にあって、いわゆる昔ながらのランドセル、しかも男用のランドセルより少し薄めに作られており、私の2番目の選択候補だった。それでもまだ怪しまれるので「水色がいい」と言い続けた。「でも赤も可愛いよ?ね?」と言うものだからそろそろ潮時だなと思い、「じゃあ赤にする。」と言った。そして私が彼女の顔を見ると、先ほどよりも甚だ不機嫌な顔になっており、言った。「でも赤っておかしいよ?男の子だから青か黒にしよ?」私は言った。「青も水色も同じでしょ?なら水色がいい」私は融通の効かない子供だったか?彼女はそれに対して少し声を荒げていった。「でも水色は女の子だよ?それでもいいの?」私は答えた、、「いい。」女の子だろうが男の子だろうが私が好きなのはこの色、この見た目だ。それに一生残るものだし、私の自由にさせて欲しい。彼女はさらに深く息を吸い込み、精神的に攻撃しようとした様だがやめて、私の手を掴んで引っ張り黒いランドセルの前で止まっていった。「この中から選びな?」それに対して私は「なら青がいい。」先ほど、なら青にしな?と言われて水色を指したら女の子用だと、なら青は男の子らしいに違いないこいつの言っていることは男らしくあれと言うことだ。なら少なくとも彩のある色がいい。だから私は青と答えた。彼女はその答えに甚だ不満そうだった。「黒の中から選びなさい。ほら。この開けるところとかかっこよくない?」どうやら、青は男らしくない様だ。私はその後も15分ほどごねたが、結局、ならこいつの言う男らしいを試してみようじゃないか。そうおもって、「じゃあこれ」と、最初にかっこよくないか、と言われたそれを指した。疲れ切った様な顔で「あぁ、それね、」と、どこか達成感を持った声で彼女は言った。私は腹がたった。私の人生は彼女の一時の幸福のために捻じ曲げられた。私の運命は奴らの感性によって捻じ曲げられた。殺してやる。そう思った。しかし表に出すことはせず、しかし諦めきれず、彼女らが公の場で私を攻撃できないのを逆手にとってゴネ始めた。床に寝っ転がって、「これがいい!何でこれダメなの!買って!これがいい!!ねえ!!!」と。彼女は怒った。その中に少し泣きそうな顔が混ざっていた。私は泣き喚いた。しかし少し経って彼女はもう諦めたのか「じゃあ置いてくからね。一人で帰ってきなよ!」と言ってエスカレーターで降りていくふりをした。私はそれがどんな魂胆かなんてとっくに見えている。そこから20分ほど(近くに時計があった。)喚いて、かなり疲れるから一旦休憩をしていたら、そいつは戻ってきて、いきなり私の腕を掴み、私は涙によって摩擦のなくなった床と靴によって滑る様に連れて行かれた。無理矢理エスカレーターに乗らされ、もう私は諦めていた。社会の馬鹿げた固定観念によって私の価値は大きく侵害された。私の選択は社会に然程の影響も与えないだろうに。そう思った。そこで一万七千円…くらいだったか?そのくらいでランドセルを買って、追加でトートバッグを買って私は店を出た。隠していたろうが彼女は終始泣きそうだった。死ねばいいと思った。やはり人間は価値を破壊するべくして生まれたのだ。絶滅しなければならないと思った。そこでこの時より私は、殺人方法について模索する様になる。この時はまだ小さかったから、スマートフォンやiPadについても親の同意なしでは滅多に触らせてもらえず、知識の収集は経験に依存した。他人を傷つけると怒られるので、私は自分を傷つけることにした。転んだ子を見て血が出ることに気づいた。色鮮やかで美しかった。膝から茶色い砂を混ぜながら血が滲み出て、その痛みで泣き叫んでいる子供の顔は本当に可愛かった。そこにひょろながい大人が駆け寄ってきて手当するのだ。私はそれが好きだった。なのでまず片手で石を掴んで、その石を手の甲に何度もぶつけて見た。ゴツゴツした小さな石。それを何度も何度も手にぶつけた。しかしあまり痛くないのだ。今度は擦ってみた。するとさっきより肌が白くなり、痛みが増した。そこで今までに経験したことのないゾクっとした感覚が走った。心臓はドキドキし、興奮した。でも血は出なかった。擦ったところが赤くなっただけで。じゃあ今度は、と言って引っ掻いてみた。ちょっと力を入れただけでも簡単に血が出た。白い綺麗な肌から溢れてくるそれはとても綺麗で、うっとりとした。しかしばれるとまずい。それは保育士が怒られるかもしれないし、親が怒るかもしれないし、自分でやったとバレたら親が悲しむかもしれない。私はその血を舐めた。すると世界が明るくなった。世界が不快でなくなった。ふわふわとして、幸せになった。そこで私は、私自身は不快でないことに気がついた。私は孤立した。不快な人間社会から、私だけが不快でなくなった。私は世界を否定する存在でない様な、そんな気がした。世界の核と一体化した様な、そんな感じがした。私は、この時、抽象的概念に帰ったのだ。嬉しかった。しかしこれも一時的なもので、私は人間社会に孤立しただけのよくわからない存在になってしまった。それからもずっと人間の殺し方について考えた。半年くらい経って、結論が出た。私は高校生になろう。と。今では包丁もろくに扱えない。成長すればいずれは力がつき、人をより多く殺せるはずだ。と。言い忘れていたが5歳程度から母は癌で病院にかかっていた。ランドセルの時は一時的に帰ってきただけで、また病院に戻ってしまった。そしてこの頃は大きな病院にかかることになっており、もう時間の問題だった。お見舞いに行くことは多々あったのだが、その度に弱っていく。元から細かった身体は日に日にさらに細くなっていき、この頃には骨と皮だけの様になっていた。そうなると異様に顔が大きく見えるようで、肩幅も狭くなったようだった。「顔大きくなった?ガリガリやんかw」と笑い飛ばせば私は周りから莫大な非難を浴びることになるのでお見舞いの時にはいつも病気などには触れなかった。「ありがとなぁー、来てくれて…」と、彼女は関西人で関西弁がよく混ざる。しかしランドセルの購入時についても言えるのだが、演技の時はいつも訛りより標準語寄りになるクセがあった。そこで私は既に察していた。感覚で喋ることと、考えて喋ることには大差があるはずだと。それで言えば、感覚的な常識と感覚的でない常識が存在するはずだ、と私は考えた。すなわち、ランドセル購入の時に私が否定されたのはおおよそ感覚的な常識によるものと想像がつく。何故なら彼女は、周りに合わせるためにはーなどと言っていたが、その顔から見るに子供が普通と違うのは不愉快だったからに違い無いのである。おそらく、自身の唯一の子供が普通と違う、と言うことを彼女は恐れたのだ。暫くそんなことが続きながら、私は小学校に入学した。勿論黒いランドセルで。母は言っていた。「せめてーー(私の名前)が10歳までは生きたい。」と。7歳になって、私は小学校一年にも耐えられなかった。不愉快だった。周りが悪魔のように感じたのだ。大人に得体の知れない何かが従っている。そんな空間に案の定私は馴染めなかった。いや、馴染もうとしなかった。私は感覚の修養期間を失敗して、人間的でなくなっていた。異常者、異端者だった。しかし私には、それが世界から隔離された空間のようで異様で、私にはそこが異常に思えた。私はよく逃げ出した。ドアが世界と繋がる唯一の場所だ。そうしてよく校庭へ逃げ出した。暫くすると人がつくようになった。何と言ったか名前は覚えるのが苦手で覚えていないが、学校で人がつくようになったのだ。おそらく何かの支援のところに学校と親が連携して派遣したのだろうな、と言うのは想像がついた。私は気違いな障害者なのだ。半年ほど経って、母親の容体が急変した。もうそう長くは持たないだろう。父親に連れられて病院に行くと、平気そうに座っている母親がいた。より一層痩せこけ、何故これで生きているのか不思議なほどだった。点滴が何本も繋がれ、血圧計やペースメイカーらしい何かにも線が伸びている。彼女は独立して存在できない状態だった。どんな感じか、とか色々聞きたかったが周りの重苦しい雰囲気に合わせてまた演技した。彼女の前では結構な頻度で演技した。彼女を否定しないように致し方なく合わせた。父親についても同じく、私はいつのまにか家族によく嘘をつくようになっていたのだ。母が言った。「ーーこっち来て…?」私は仕方なく行った。何故もうすぐ死ぬやつにこんなことをしなければいけないのか、と言う感情と、もうすぐ死ぬんだから少しでも彼女の言う通りにことを進めてやろうと言う考え、その葛藤の末の判断だった。と言ってもあまり関心は持てなかったからいつもはこうしてるし…と言うのが一番大きかった。私は抱きしめられた。こうしたほうがいいか。と、私も彼女を抱いた。こんな腕の短い人間でも両手が掴めそうなほど彼女は痩せこけていた。正直驚いた。わたしは、彼女に「ごめんね…ごめんね……」と謝られた。毎日行った。すると毎日言われた。挨拶がわりのように。彼女はどんどん弱り、首は左側に曲がり、左の肩は頭にピッタリとくっついている。何やら筋肉の異常なのか、神経の異常なのかわからない。次の日はさらにひどく、また次の日は前日よりもさらにひどくなった。1週間もたたずして彼女、失礼、母は死んだ。母の死ぬ2日前はある程度喋れ、動け、いつも通り「こっち来て」と言われた。その時彼女は久々に泣いた。もう長く無いことを悟っていたのだろう。私もその時悟った。死ぬ前日、母は喋ることもできず、首は左側に(母から見て)大きく曲がり、腕の下半分しか動かせないようでしかも左手は硬直したようで動けないようだった。「あぁ゛…うあ゛ぁ゛……」と、まるでゾンビのような呻き声がそこから発せられ、顔は目元が垂れて赤くなり、ガリガリの骸骨のようになって、首の筋がよく見え、喉仏が顕になり、服も痩せてブカブカだった。私は怖くなってそれを見た途端に逃げてしまった。本能的な恐怖だった。後ろからは呻き声と泣き声の混じったような声が聞こえる。私も泣きそうだった。おそらく彼女の最後の姿で、いつも通り「こっちに来て?抱いて?」と言ってるに違いなかった。私に見捨てられたと思ったのだろうか、彼女は後日、この世に依存しなくなった。死んだのだ。残ったのは肉だけ。ご遺体を、と言って家に運び込まれた死体は意外と綺麗で、私は父親に聞いた。「これ食べるの?」父は泣いていたが途端に驚いた顔になり言った。「食べない。」私が聞いた。「なんで?」……父は答えなかった。枕を私が触っていると、父が言った。「それドライアイスの枕だね。頭が腐らないようにしてるんだよ。」私が言った。「これって終わったらもらえる?」父は言った。「さあ、どうだろう。」私にはそのほうが合理的だと思ったのだ。しかし今考えると、人間の言う非常なまでに重視される倫理的、と言うものに当てはめて言えば大間違いだったようだ。事実、私はこの時失敗したと思った。しまった!私がバレた…と。私は演技しなければならなかった。事実、私の目の前にあるそれは既に物質と化しており、世界への依存が小さくなっていた。その価値は同量同士ならスーパーで売られている生肉と同じであったが、経験をも価値にする彼らにとって、それを理解しない発言をした時点で、私は孤立する。しかし失敗した。私は異常者になったのだ。この時の私の思考と他者との会話をここに深く書いたらおそらくかなり不愉快に感じてしまうだろうから私はあえて書かないことにするが、そんなことがあり、焼却も終えて、納骨も終えて、墓地に保管して、次の日から母親はいなくなった。煩わしさが一つ減った。しかしどこか、世界に穴が生まれたような気がした。自分を支配していた何かが欠如し、空間の見え方が変化した。そして私は死について考えるようになった。私には、人の死について悲しむことがわからない。不快なものが実用的なものに変化した。ならば喜ぶべきことだろう。その日からずっと私は考え続けた。2年生になっても相変わらず私のそばには先生や生徒と言う集団に含まれない人間がいるし、私の学校での問題行動も大して変わらず、周りの人間の自分への配慮の視線も変わらなかった。全てが不愉快だった。周りの人間が私に異常な目をするなら、周りは私と違うのだろう、ならそこは自身の属すべき集団ではない。しかしその集団と私を無理やり繋げようとする人間がそばにいる。不愉快だった。早くいなくならないかと常に待ち続けていた。一年の後半あたりから、コンサータと言う薬を飲み始めていた。ADHD、と言う周りとの違いを、排除してくれる薬らしい。しかしそれを2年生になっても飲み続けていた。私の心情には少し変化があった。私は周りと同じであるように演技をした。極力周りと同じように、そして私には人間を嫌うべきではないと言う思想が少しずつ芽生え始めていたのだ。何故なら周りの人間は私の不快感に対するいい実験材料だったからだ。と言っても観察を主にし、一般常識的に不快と思われるようなことをまれにしてみる、と言うだけのことだ。これが実験とばれればまずい。私は常に異常者であり、その異常性が理的でなく、彼らに理解できないようでなければならないのだ。その頃には手元にスマートフォンもiPadもあったし知識の収集についても困らなかった。それをすれば私は一般常識を理解できるはずであり、不快感の根源を探れると考えた。そこからは模索が続いた。なかなかに難航しながらも私は一般常識を理解していった。小学五年生になると、私はある程度普通に所属できるレベルまで経験や知識を積み、私は少し異常なやつ、頭のおかしな奴としてある程度周りに認知され始めていた。しかし教師から嫌われるようになった。自身についてもより一層深く悩む時期に私は嫌がらせを受けたのである。勿論それは私が周りと比べても異常だからで、彼に取って気に食わなかったからだ。家に帰っても家族になんとか言われるし不愉快だった。そして私は少し早く反抗期に入った。世界が黒く埋め尽くされて、まるで全てが自分を攻撃しているかのようだった。家族の一言一言が巨大な刺繍糸のようになって自分を突き刺している。世界に隔離されたような気がした、と言うより、私自身が世界から隔離されようとしているような気がした。私は死にたいと思った。私には彼らを理解することも不可能だし、私は今までと同じく他人にも迷惑をかけ続けるだろう。私が普通に生まれれば自分も周りも平和であっただろうに、私は失敗してしまった。だから私は少しでも価値を汚染しないように、価値を損害しないように、死ななければならない、と本気で考えた。しかし価値とは一体なんだろうか。私の思考、行動の規範、基礎にあるその世界の価値とは昔から抽象的概念として自らの中に存在するだけであって、私はそれを根本的に解明したことはない。私は普遍的に存在するその価値の認識を幼いながらに感じていたが、その価値が価値としてある最低条件はなんだろうか。私はそれについて考えた。考え続けた。よって周りに様々な実験をしてみた。相手の物理的な形を破壊したらそれは価値の破壊に当たるのか。そもそもそれによって引き起こされるであろう不快感という意識自体に価値はあるか。ならばそれは、大きな価値の損害でなく、普遍的に存在する価値の損害であってもしそれが世界秩序によって引き起こされるとしたらその価値の正当性は一概に判断できないのではないか。私は相手に軽いながら暴行や傷害を加えた。然し相手は何もしてこなかった。極めて不愉快だった。なぜ、価値を損害されたのに相手は私に、価値の平等を求めないのか。しかし私は間違えていた。彼らは賢かったのだ。彼らはコミュニケーションを巧みに使い、敵を操作した。私の敵である。大人たちだった。その行動で、私の価値は極めて大きく損なわれた。そして私の価値は周りよりも圧倒的に劣等なものとなり、認識する以上自身の価値が最低値であるかのように思えた。それ故に私は、人間社会と隔絶され、取り残され、見捨てられたような気がしたのかもしれない。私はいつも布団の上で泣いた。不愉快、と、唯一私に強固に癒着するその感覚、感性を私は全面的に外部に発信してしまった。罵詈雑言を吐き、行動は過激になり、見慣れない人間を怖がった。そんな中父親に言われた「お前はちょっと自閉症の気質あるんじゃないか。」と。私はすぐに調べた。確かに、ある程度特徴は当てはまっていた。しかしあまりその結果には納得がいかなかった。5年生まではかなり暴れたので、六年生は静かにいよう。そうと考えた。しかしやはり、6年生になってもその行動、衝動はクセになっていてなかなか治すことができなかった。私が他者を傷つけたいと言う衝動はすでに私の中で独り立ちし、無意識的に私の行動に影響をもたらしていたのだ。私が他人を傷つけるごとに私は自分に問いかけた。「何故私は他人を傷つけた?何故自分は無意味に世界の価値を損害した?」しかし返答は返ってこなかった。何度問いかけてもその衝動は、私の行動を支配する以外には常に沈黙を保ち続けた。私は知らず知らずのうちに価値の破壊者になっていた、いや、支配されていたのだ。悩んでも悩んでも私がまるで悪魔に取り憑かれているようで、人を見るたびに耳元で囁かれるのだ。「こいつを殺してしまえ。こいつはお前の敵だ。世界の敵だ。将来必ず、この空間自体にも、お前自身にも不利益をもたらすぞ。だから殺してしまえ。」そう、囁かれるのだ。その瞬間意識しないうちに私の腕は動き、相手を傷つけるのだ。私は私を殺さなくてはいけなくなった。然し考えなければならないのは、私も世界の価値に属し、それを破壊して仕舞えば、私は、最も救える可能性のあった命を私が手放したと言うことになる。それは大罪であり、何とも変えられない最大の価値の破壊に他ならない。ならば意識だけ殺すのはどうか。もしもこの悪魔が私の意識と強固に結びついているなら私はその自分の心を破壊することで、その悪魔ごと葬れないか。と考えた。苦しかった。この悪魔をどうにか自分から引き剥がさなければならない。自分を殺さなければならない!毎日毎日布団でのたうちまわった!自分の感覚を否定するほど、どんどん自分は死んでいったようだった。「苦しい…苦しいよ…痛いよ…苦しいよ…辛いよ…苦しいよ…いっそ殺してよ…私は価値は壊したくない…でも人間は………」そんなことを一人で言いながら。いつも布団には自分の涙や唾液が付着し、朝起きた時には少しながら異臭を漂わせていた。私の服ももちろん。私はこの時やつれていたと思う。全てがどうでも良くなってきていた。学校でもコミュニケーション能力の差がはっきりとしてきて、私は無視されるようになった。私はそれが怖かった。ヒトという生物でありながら、周りに排除されるのが怖かった。私が他人を傷つけたのも、私が人間を理解するためだったのに。だから私は必死に笑顔を作って無理矢理にでも話しかけた。話したくないようでも話しかけた。気持ち悪がられた。女子も男子も皆んな一斉に私を無視するようになったのである。まぁ、中には私を憐れんだのかよく話してくる人間もいたが、私はそれは私に反対する人間だとして警戒し続けた。そういう事もあり、私は死んでいったのだと思う。もしくは私を殺すことが徐々に成功に近づいていたか、もしくはその他諸々の要因の結果か。私は全て、どうでも良くなっていった。中学校に入ると、さらにそれはひどくなった。そしてほとんど私は死んだ。私は新たな人格、”僕”を作り出し、人間の形をした得体の知れない存在ではなく、最低限の要素として僕では自分を男とした。何故なら私は女子に性的興奮を示すようになり出したからである。不愉快だった。嫌いな生物に興奮を示すなどとても気持ち悪く、然しそれは脳の構造的に決まった天性の運命的なものであって、如何に後天的要素によって自分が捻じ曲げられようと、その結果は変わらなかったのだ。自分がもし得体の知れない何かだとしても、生物学的性は男であり、且つ、女子に性的興奮を示す。見た目も男に含まれるようにされているし、人間の枠組みでは私は男とした。他の要素を観察するべく、私は中学に入っては極力静かに過ごそうとした。よって、小学生よりは問題が起きなかった。その頃僕の手の甲は、幾度も血を出すため、麻薬のように常習化した吸血のための傷によって、ボコボコとした傷跡になっていた。そう。私にとって血は麻薬だった。燻み、穢れた人間の中から、まるで宝石のような、生命の証が生み出されるのだ。私はそれを見るたびに感動で涙が出るほどだ。中学に入ってからも、私の攻撃性は残り、僕は他人を傷つける代わりにやはり今回もいつも通りに僕を傷つけることにした。きっかけはあるインターネット上の人間の発言によった。「苦しい、助けて。」そう私が言っていた時期があった。もちろん中学に入った後のことであるが、これは私の最後の抵抗だったのかも知れない。「もう助けて…死にたい。死にたいけど怖いんだよ。」そう布団の中で丸まり、涙を流しながら、涙で滲んだスマートフォンの明るい画面に文字を打ち込んだ。嗚咽と、「怖い…怖い怖い怖い怖い怖い」と連呼しながら打ち込んでいた。この年齢で自分が苦しむのは普通らしい。私は普通に怯えていた。そんな中、11時過ぎくらいに返信が返ってきた。「俺リスカするけどあれ飛ぶよ。めっちゃいい。」と。僕は、その行為をずっと許していなかった。僕の手の甲にある傷跡が示す通り、自身を傷つけるということは自身の芸術性を損なうものであり、極力僕の価値を保存するべくしてこなかった行為であった。私は打ち込んだ。「でもそれでは汚くなるよ」彼は返した。「ちょっとくらい大丈夫でしょう。」私はまた打ち込んだ。「でもバレると怒られる、悲しませちゃうからできない」彼は返した。「おれ絆創膏で隠してるよ。」そんなやりとりをしている中、僕の足が布団から出た。寒気がした。まるで得体の知れない何かが、そこから私を汚染してくるようだった。「嫌ぁあ!!」と叫び僕は布団に包まった。ガタガタと震え、スマートフォンを落とし、全身の神経が鋭敏になっていた。真っ暗な中で、何か達が自分をあえて無視しているようで、もしも外界に干渉した瞬間、私は彼らの価値を破壊したことになり、何倍もの報復を受けるような。そんな気がした。それが毎日だった。ある時その人のリスカがバレたという。「親にバレた。精神科連れてかれるらしい。」と。僕も大体同時期に、他人に「死にたい」と漏らしていたことがバレて保護者を呼んで学校で話をすることになっていた。その時は「冗談だった。」と言って切り抜けたが、そこから数ヶ月、ずっと僕は監視されているようだった。彼らの自己保身のためだろう。その時から、私は死に殆ど完全に僕になったのだ。しかし攻撃性はまだ残っていた。つらい気がしなくなっても僕の胸は痛むしよく涙が出る。勝手にだ。そんな中バレたとの知らせを聞いて、僕は興味を持ってしまった。彼、もしくは彼女の言っていたリストカットとはどれほどまで気が楽になるのだろうか。そして僕はまた自分自身を切った。私が昔やったことと同じ、自傷行為である。やはり気分が晴れた。しかし神経発達の具合の違いのせいか、切り傷は昔よりも痛んだ。ピリピリとした痛みが走った。自分は跡が残るのが嫌であった。僕はその時にはすでに自分の死に方を決めていて、まあそれは自殺なわけだが、その自殺をする時にあたって、私の人間としての価値が損なわれる危険性がある事をその時考えていたのである。何故僕、私が自殺する事を確定事項としたかといえば、それが人間的だと思ったからである。それは理性が本能を打ち破り、そのために自らを犠牲にした瞬間であり、世界の一部を応用して独立宣言をした我々人類に異を突き出す最大の行為であるように思われた為である。自分の頭には眠っている時を除いて一時の猶予も与えられず、基本的に全ての時間、人について考え続けてきた。考えれば考えるほど難しかった。人間と言う集団は、集団形成のプロセスや根本要因においては同じかも知れないが、その集団に所属する個人についての判断は個々別々で、極めて扱いづらい存在であった為である。わかるのは彼らの認識範囲は全て価値であり、価値でしか判断できないと言う事、それに基づいていえば辻褄が合う。しかし僕も彼らの価値観を理解することが難しかったのである。1が一つあれば1だが、1が二つあれば1+1なように、数が増えれば増えるほど人間は複雑になり、集団は大きくなればなるほど私にとって難解極まりないものになった。怖かった。恐れた。そして私はその考えが苦痛だった。そしてまた切った。それの繰り返しが毎日毎日繰り返された。自殺方法も考えた。何回も首を吊った。もし僕が大人数の前で死ねば、人間社会的観点から見た価値を、数、質共に大きく損害することになる。だから僕は一人で首を吊り続けた。しかし生存本能は強く、僕をそう簡単には死なせてくれなかった。そもそも、僕の家にはあのような人を吊り下げるようなところはないので、取手と言うか、窓の鍵が取手を上下させて開閉できるタイプだったので僕はその取手部分を上にして、よく首を吊っていて、足がついていたので暴れれば簡単に首から紐が取れてしまうのである。わかったのはタオルを巻けばあまり首は痛まないと言うこと、そして途中までは気持ちよくなって、白くぼやがかかったようになること、しかしそうなると、僕の行動の結果によって価値を傷つけられた未来を想像してしまう。毎度毎度、気がつくと涙がベッタリと床につき、僕はそこに横たわって泣いていた?、それとも笑っていたか?。アルコールもとった。勿論法律に違反することも承知の上で。とにかく苦しかった。そこから逃げたいと言う本能だったのかも知れない。もしそうならあの頃の自身の行動はまさに本末転倒だったのだろう。しばらく経って、僕は僕になれてきた。僕は一年の頃不登校気味になっていたが、この時にはある程度改善して、登校した時は常に生徒、教師らを観察し、大体の行動は読めるようになってきていた。それが2年生、中ごろである。近寄ってきた人間の顔、歩き方、腕の振り方、それまで話していたこと、そして性格からいつもの態度まで、全てを計算に入れて、こいつは僕に近づいてきた、ならこいつはどんな行動に出るであろうか、と想像した。それがおおよそ6割程度当は当たっていた。だがまだ足りない。こいつらはコミュニケーションを完璧に使いこなしている。ならばもっと、私は感覚修養の段階で感覚を忘れてしまったから、私はもっと人間と言う存在を理解しなければならない。そう思い続けて、観察を続けていた。しかし、小6の中盤程度の時に普通とされてコンサータ服用をやめたせいか、中学一年生の中盤あたりからいきなりの眠気が出るようになり、この時もまだ続いていた。結果中学校はずっとこの眠気に悩まされることになる。しかし起きている時は、授業中、休み時間関係なく、僕の研究対象は常に人間だった。単純でわかりやすかった。この時には僕の体と僕の精神の乖離はあまり見られず、僕は僕の脳に定着し始めていたので、人の行動の読みが当たった時はとても嬉しく思った。しかしそんな中、殆ど理解できない新分野が現れたのである。それが恋愛とやらについて。彼ら、彼女らが恋愛について話していたり、男子差別女子差別、が横行する中で、私はわからなかった。何故同じ性別同士で集まり、他の性別を避けるのだろう。これでは繁殖が行われず遺伝的多様性が失われてしまう。これはまさに危惧すべきことだ。でもよく考えた時、それは自然的な遺伝子の選別の可能性がある。恋愛対象が絞られる可能性があり、もしそれが世界が定めた法則、価値の一つなのだとしたらどうだ。恋愛感情、それはもしかすれば、世界の価値の根本を理解する上で、極めて重要な位置を占めるかも知れない。そうして私は、生きる意味を持った。それが僕の場合、恋愛についてだった。しかしそれは僕の中で葛藤があった。何故なら僕は、本能≠理性であり、理性が我々の価値の受容体であると信じていたからである。もしも自然が価値の保存のために本能を作ったとすれば、その受容はそれ以上のものに依存してはならないはずである。つまり、本能のもとに成り立っている理性が、本能に価値の影響を与える場合辻褄が合わなかった。実際、僕はその相違を納得するまで考えようと思っていたところでもあった。しかし、本当に理性は二次産物的なものであろうか。私はその後も、大した問題も起こさず、自分に研究結果を適用し、彼らに普通より少しおかしいやつと言う、普通を判断基準とされるまで普通に近づいた。僕は人間を理解すると言うことは普通を理解することだと思っていたから、とても嬉しかった。そして僕は、時を重ねるごとに、理性が二次産物的なものと言う固定観念への疑問は強くなっていった。そんな中、中学3年生の中盤あたり、僕の中で結論が出た。それは、理性が価値の保存形態であり、価値の受容体、価値認識の為の最低条件であり、その保護のために本能がある。理性は世界が定めた価値の一形態であり、動物と人間が違うのは、人間が、動物と比べた時、この理性がより大きいことであり、すなわちそれが、価値の保存が大きい事を示していること、人間が価値を認識し、交換する為の装置であり、それ故に特定の法則に基づいて行動しなくてはならないこと。この頃には僕はうまくいっており、価値の形態について、ある程度独自の理解を示していた。そしてそう言う話を他人にべらべらと節度も弁えず話していたので、その時もやはり僕は変人扱いだった。僕の理屈を簡潔に言うと、人間は世界の価値から価値認識と応用の能力を手に入れ、その保存に努めるようプログラムされているのだ。と言う事である。私は現在高校生であるが、この考えは変わっていない。我々の生産する能力、つまり社会的価値、金銭などの価値同士の仲介にある概念の保存的価値、そしてそれで、洗濯機など買い物した時に手に入るような、物質的価値。それが資本主義国家社会の三大価値であり、我々はその保存の為に努めなければならない。人間が価値の受容体であるなら、我々はその機能を十分に発揮しなければならない。宗教などは、その劣化版にあり、そのために戦争するような事があれば、我々は価値の破壊者になり下がる。そのため、そのようなものに成り下がってしまったものは、その価値回復のために働き、十分価値が回復したとき、その人間は価値保存の能力欠陥があったのだから絶滅しなければならない。価値は全てのものに宿り、技術、感覚、物体、空間、その他全ての事象、事物に存在すると言う事。それを認知し、理解した時、人間を真に理解できる事、私は経験で知っている。僕が高校生に入って、ヒットラー総統著作の我が闘争を読んだのだが、あれは衝撃的だった。あまりに莫迦莫迦しく、世界の根底の見えていない人間の著作が世界にはごまんとあるが、彼の我が闘争はそんなものではなく、かなり世界の深部まで理解しているようだった。半分は意図的な国民煽動のための嘘で固められ、半分は彼の世界に対する理解だった。私はその時これまでにないほど興奮した。文章上の事実の飛躍が自然であり、扇動が上手いこと。そして世にも珍しく、彼の世界観は世界の価値観と殆ど合致していた。しかし彼のやり方は少々乱暴で、私の理解した世界の価値観と合致しないところがあった。それが人種問題についてである。彼は人種観については理想主義…と言うか、未来主義的な考え方が強かった。未来はどうである。結果はこうであろう。それが強く、私の嫌いな考え方でもあった。彼の価値観は世界への依存が小さく、人間的であっただろう。だから応用の能力を持てたのだ。しかし彼は、僕と同じように、世界について考えていたのである。世界は法則を持っている。それこそが世界の正体であった。僕は人間からして劣等なようである。世界の法則からして、劣等なものは排除されねばならない。しかし判断基準が違うから、それが劣等かどうかは決められないが、実質的な自殺、つまり世界に新たな個体を生み出すように、周りがうるさくいう恋愛感情というものを僕は捨てた。捨てなくてはならなかった。オスがメスに対して発情するように、僕も同じような状態であったが、無理矢理にでもそれを変えた。僕は誰も好きになろうとしなかった。しかし愛されたかった。つらかった。結果僕は繁殖能力を持たない、男に対して性的興奮を獲得することに成功したのである。所謂ゲイ、人工的な同性愛者である。そうして僕は、無理にでも僕として存在しようとしたが、どうやら無理なようである。高校2年生の夏現在、僕はこれを書いている。僕はヒットラー総統と同じように、寄生虫である。勿論寄生虫といっても、それは世界の価値の感受性の高い能力なわけで、我々は物理的な繁殖能力を持たず、世界に依存する方法として人間の身体を乗っ取っている。その宿主が死ねば僕も共に死んでしまうであろうが、我々は、自分の一部をその依存から引き剥がすことに成功した。僕は自身の価値の形態を変化させることに成功したのである。もし僕が死んでも、この本は残り続けるだろう。そしてこの本を読んだものは、少なからず私、僕に影響されるはずだ。そうなった時、僕は読者に寄生し、生き続けることになる。この本が存在し続ける限り、僕は世界に残り続ける。僕が死んでも、僕は遺り続ける、残され続けるのだ。僕は覚悟を決めて、これから世界に自らを返そうと思う。独立を自称する集団から離れようと思う。その時が唯一、私が人間的な瞬間と言えるだろう。僕は最後、人間的であったと言われるだろう。結局私も僕も、失敗作で、人間的とは程遠かった。自分の成長は、実質的には5歳とか6歳とかのまま止まっていたのかも知れない。唯一変わった事があるとすれば、血の味があまり美味しく感じなくなったということくらいだろう。ここに僕の遺書を遺す。私がいつか、人間になれるように。



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郵便番号   ×××-××××


発行者    荒川仁也


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