【エッセイ】この世が地獄だとして
たとえば、だけど。
この世界が地獄だったとして、何か困ることがあるだろうか?
僕は仏教徒ではないからうまく例えられないかもしれないけれど、例えばお釈迦様が天上からこちらを眺めていて、僕ら人間は餓鬼のように見えるのだとしたら。病気や自然災害、それから理由もなく襲ってくる不安。そういうものに囲まれて、ぎりぎりの生活をしている。ときには、深夜のコンビニの明かりすら救いに感じる。この現世が地獄だとしよう。
でもね。
そんな中で、たとえば、何かしら確かなものを見つけて、それを誰かにそっと手渡すことができたとしたら、そこはもう地獄じゃない。少なくとも、僕はそう思いたい。
階段を作る人がいる。
天上へと続いている(かもしれない)階段を、コツコツと作っては、黙々と登っていく。
その後ろを、懸命に追いかける人もいる。
「意味なんてないよ」と冷笑する人もいる。まるで電車の中でイヤホンから漏れた音楽に眉をひそめるような、あの感じだ。
彼らは言う。「どうせ天上になんか、つながっちゃいないさ」
それはそれで正しい見方かもしれない。だけど、だからといって、階段を作る行為そのものが無意味だとは思えない。
問題は、その階段を登ったあとだ。
他人の作った階段を見下し、笑い、壊してしまう。
あるいは、他人の階段と自分の階段を比べて、嫉妬して、自分の作ったものを壊してしまう。まるで誰かのSNS投稿を見て、無性に部屋を片付けたくなる夜みたいに。
ああ、そうじゃない。そうじゃないんだ。
重要なのは、地獄から抜け出そうとする「意志」そのものだ。
その意志が、美しい。少なくとも、僕はそう信じている。
人は、自分で階段を作れる。
きっとそれは、天上へと続いている。そう信じていれば、少なくとも登っていくことはできる。
かつての偉人たちも、みんな自分の階段を作って登っていった。彼らの名前はいまも語り継がれている。
もちろん、誰だって永遠には生きられない。でも、彼らが残した階段は、どこかで誰かが使っている。そう考えると、少し救われる。
でも、階段を作るのをやめてしまったら?
登るのもやめてしまったら?
その人は、風景の一部になる。群衆という名前の大きな絵画の、小さな絵の具の一滴になる。
悪いことじゃない。悪いことではないけれど、少しだけさみしい。
階段を一人で登れば、それは塔になる。
塔は見える。てっぺんまで。誰にでも。
でも階段は違う。
天上に続いているかもしれない。見えない。けれど、見えないからこそ、そこには「可能性」がある。
可能性こそが、僕らを動かす。
そういうことだと思う。
たとえこの世界が地獄だったとしても、そこから抜け出そうとする気持ちは、どこまでも静かで、どこまでも強い。
階段を作ること。登ること。
誰かの手を引くこと。
そういうふうにして、世界は少しだけマシになっていく。
僕はそう信じたい。少なくとも、今日のところは。
あとがき
このエッセイを最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
日常の中で感じたこと、ふと思い浮かんだ思い、誰かに伝えたいけれど言葉にならなかった感情。そんな断片を言葉に紡ぎ、このエッセイにまとめました。書き進めるうちに、私自身も新たな視点を得たり、過去の自分と向き合ったりする時間を過ごすことができました。
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