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4話

 メアリーが部屋を辞してひとりきりになると、シャーロットは涙を零した。この世で最も愛しい人の愛を失い、嫌われてしまったことを嘆いた。夢ではないかと何度も頬をつねり、心変わりした婚約者を恨んだ。


 そうして泣いて泣いて泣き続けて、分厚いカーテンの隙間から朝の光が射し入る頃、現実を受け入れた。


「そもそも、あんなに素敵な人が一時でも婚約者になってくれただけでもありがたいことだったもの」


 婚約を結んだこの二年、シャーロットは幸せだった。物心ついた頃から常に自分の振る舞いや評判に気をつけなければならず、息苦しさしかなかった世界が、彼の隣にいる時だけは優しいものに変わった。


「それだけで、十分……十分よ」


 頬を伝い落ちた涙を拭うと、シャーロットはベッドから起き上がり、彼へ手紙を書くために机に向かった。



 翌日、玄関へと向かったシャーロットは階段まで差し掛かったところで足を止めた。階下から、刺すような空気を察知したのだ。


「旦那様……ご帰宅されたのですね」

「そうみたい。よりによって、お母様が外出しようとする時になんて」


 ため息を吐きながら、険悪な雰囲気を放っている玄関扉前の両親を見やる。


 物心ついた頃からふたりは仲が悪く、親族の集まりや客を迎え入れる時以外は同じ空間にいるのも嫌がった。今のように偶然顔を合わせれば、一触即発の空気になる。


 真っ青な顔で控えている執事や侍女が気の毒だ。シャーロットはメアリーを伴い、階段を降りる。


「おはようございます、お父様、お母様」


 優雅に礼をする。お辞儀の角度もドレスのつまみ方も他の貴族令嬢と比べても遜色はないはずだ。僅かな粗でもすかさず攻撃されるお茶会がそれを証明してくれたので自信がある。


 父はジロリと値踏みをするようにシャーロットに視線をやったあと、ああ、と小さく返答してそのまま自室へと立ち去った。


 場の緊張感が解け、母の侍女が安堵の表情を浮かべる。母は手袋を着けたシャーロットを見て、目を瞬かせた。


「シャーロット、あなたどこかへ出かけるの?」

「はい。レオナルド様と約束をしておりまして」

「……そう。彼のところ」


 母の瞳と声が冷ややかになる。母はレオナルドがシャーロットの婚約者になることを今でも認めていないのだ。


「シャーロット、利点のない契約を交わす者ほど信じてはいけないわ。金銭的に困窮していないのに、元平民のグレイス家に婿入りするなんて、何か企みがない限りありえないもの」

「お母様。レオナルド様はそういう方ではありません」

「ああ。確か、あなたを愛しているのだったわね?」


 嘲る母をシャーロットは睨んだ。いくら母といえど、レオナルドを侮辱するのは許せない。


「やっぱりまだまだ教育が足りないわね。社交界でそんな態度取ってみなさい、すぐに取って食われるわよ」 


 呆れたように言い放つと、母は眉尻を下げた。


「私には彼があなたを愛してるようには到底思えないけれど、あなたが彼を愛してるのはわかるわ。……シャーロット、愛などに溺れてはダメよ。どんなに愛しても心を許さないで。でないと、ひどく傷つくことになるわ。あなたは私によく似ているのだから」


 憂いを帯びた母の言葉はシャーロットにとって呪詛だった。


「あなたには私と同じ苦しみを味わってほしくないの」


 最近母から聞いたばかりの話だが、父と母は恋愛結婚だったらしい。舞踏会で知り合い、父に恋した子爵令嬢だった母は周囲の忠告も聞かずに、グレイス家に嫁いだ。


 昔は父も母を愛していたらしい。結婚して二年ほどは仲睦まじかったが、些細なことからすれ違い、溝がどんどん深まっていった。


 三年目、シャーロットが生まれる頃にはふたりの仲は冷え切ってしまったのだ。


 母は自分を疎んじるようになった父の愛を取り戻そうと必死になったこともあったが、やがて疲弊してすべてを諦めた。もう父への愛は欠片もないという。


 同じ屋敷に住んでいながら、ほぼ別居のような生活になった。そのため、グレイス家の子どもはシャーロットしかいない。


 政略結婚の多い貴族ではさして珍しくもない夫婦関係だが、反対を押し切ってまで結ばれた愛の果てだと思うと寂しいものがあった。


「ポーレット卿は対外的には紳士的だけど、結婚したらどうなるかはわからないわ。彼とは一歩引いた距離を保ちなさい。それがあなたのためよ」


 我が子を心配する母の眼差しを見て、シャーロットは理解する。母がレオナルドとの結婚に難色を示したのは彼のシャーロットへの愛を疑ったからではない。シャーロットが彼を心底愛しているからだ。


 恋に溺れる娘にかつての自分を見て、危惧したのだろう。長年隠していた父との関係を伝えてまで、シャーロットを踏みとどまらせようとした。


 シャーロットが、母と同じ道を辿るのだとわかっていたから。


「安心して、お母様。お母様が不安になるようなことには決してならないから」


 確信を持った言い方をするシャーロットに母は目を瞠った。いつもは困った様子で嗜める娘の変化がわからず、眉をひそめる。


「ポーレット卿と何かあったの?」

「いいえ。……お待たせしたら申し訳ないから、そろそろ行ってきます」


 母の返事を待たず、シャーロットは屋敷を後にした。



 ポーレット邸を訪れ、応接室に案内されたシャーロットは、彼女の元に現れたその姿を見て、危うく持っていたカップを落としそうになった。


「レオナルド様……」


 驚愕するシャーロットに気まずそうな笑みを浮かべるレオナルドは、憔悴しきっていた。健康的だった頬はげっそりとこけ、目の下には濃い隈がくっきりと浮かんでいる。瞳もどんよりと曇り、覇気がない。


「こんな状態で申し訳ない。ここ数日ろくに眠れてなくてな」


 声すらも弱々しく、シャーロットは彼の変わりように胸が痛んだ。


 二日前の彼は少し疲れていたようだったが、健康に障りはない程度のものだった。それからこうなってしまったのなら、原因はシャーロットだ。


 彼は真面目で優しいから、自分の変化を受け入れられなかったのだろう。シャーロットへの罪悪感と自己への嫌悪感に苦しみ、睡眠をとれなくなるほど悩んだのだ。


 要因となるシャーロットと縁を切れば少しは楽になれるだろうが、婚約を交わした以上それはできないと思ったのかもしれない。


「こちらこそ、大変な状況なのに押しかけてしまって申し訳ございません。……そこまで具合が悪いのでしたら、すぐに終わらせますね」

「いや、ゆっくりしていってくれ。……ひとりになっても休めないだろうから」


 レオナルドは力なく笑い、ポーレット家の侍女が用意したお茶に口をつける。弱ってしまってもその振る舞いには品があり、彼は根っからの貴族なのだと改めて思い知る。


 懸命に取り繕って令嬢の仮面をかぶるシャーロットはレオナルドのような完璧な貴族の隣には相応しくないのかもしれない。先日劇場で遭遇した子爵令嬢と彼の並んだ姿は実に様になっていた。客観的に見て、彼には生粋の貴族令嬢の方がいいのかもしれない。


 愛があったからシャーロットの手を取ってくれたが、それが失われた今、のうのうと彼の婚約者の座に収まったままで許されるのだろうか。


「ここでのんびりと茶を飲みながら話したいところだが……しばらく部屋に籠もってばかりだったから気分転換がしたい。少し庭を散策しないか」


 壁際には給仕のために控えている侍女がいる。シャーロットの背後にはメアリーもいる。ここで話をするのを躊躇していたシャーロットにはありがたい誘いだった。



 小鳥の澄んだ鳴き声が響き渡る。昨晩降った雨の名残か、葉には雨粒がきらめき、地には点々と泥濘ができている。


「シャーロット」


 レオナルドがシャーロットに手を差し出し、シャーロットが微笑んでその手を取る。庭を散策する時に行われるふたりの恒例のやり取り。レオナルドの顔に浮かぶ嫌悪と、いつもと違い触れるのをためらうような弱々しい手の力に目を瞑れば、シャーロットにとって好きな人との幸せなデートだ。


 心を鈍らせ、穏やかな笑顔を浮かべることに、シャーロットは慣れている。お茶会で散々鍛えられたから。


 ドレスを汚さないよう道を選んでくれるレオナルドに手を引かれながら、シャーロットはゆっくりと庭を歩く。満開を迎えた花々の彩りが彼女の目を楽しませ、木々に止まる鳥のさえずりが彼女の心を和ませる。


 柔らかな風に乗り、甘く気品のある香りが鼻をくすぐった。弾かれたようにシャーロットは匂いのする方角に目を向ける。


 そこには陽の光を浴びて燦然と咲き誇る淡いピンクのバラの花があった。


「まあ……!」


 バラはシャーロットの好きな花だ。気高い佇まいも上品な香りも幼い頃からシャーロットを魅了する。バラのような美しい淑女になりたいと願っていた。


「そろそろ咲くと聞いていたが、もう咲いていたのか」

「綺麗……」

「あとで庭師に切り取らせるから、良かったら持って帰ってくれ。……花も愛でる人の手元にあったほうが良いだろうから」

「……ありがとうございます」


 レオナルドの優しさが今はひどくつらい。好きだと、ずっと一緒にいたいと、想いが強くなってしまう。


 それでも、シャーロットは今日来た目的を果たさなければならない。


 さり気なく、周囲に目を走らせる。離れた場所でメアリーが待機している。婚姻前の令嬢を異性とふたりきりにすることはできないが、こうして見えるところにいるのならメアリーはふたりの邪魔をしないようにと距離を置いてくれるのだ。


 あの位置ならば、こちらの会話は聞こえないだろう。


 小さくひとつ息を吐いて、シャーロットはレオナルドを見上げる。


 シャーロットの様子にただならぬものを感じたのか、レオナルドの顔に緊張が強張る。


「レオナルド様。今日、おうかがいしたのは私達の今後のことについてお話したかったからです」


 口の中が乾いて話しにくい。これで終わりかと思うと口を閉ざしたくなる。


 空いている手でドレスを掴む。行儀の悪さは自覚していたが、そうでもしなければ耐えられなった。


「来年結婚の予定でしたが……私達の婚約は解消しましょう」


 レオナルドは大きく目を見開いた。まさか、シャーロットから婚約解消を提案されるとは思ってもいなかったのだろう。


 だが、レオナルドにとっては渡りに船だろう。シャーロットを気遣って彼から申し出ることはできなくても、本人の希望なら後腐れなく関係を切ることができる。


 了承を返す彼の顔を見るのが恐くて、シャーロットは目を伏せる。もう婚約者ではなくなるのだからと繋いでいた手を離した。


 しかし、すぐにその手が強く握られる。


「え……」


 驚いて顔を上げると、レオナルドの強い視線とぶつかった。その瞳には怒りとも悲しみともつかない光が宿っている。


「レオナルド様……?」


 困惑しきったシャーロットに、レオナルドは顔を歪ませる。


 シャーロットから婚約解消を申し出たのが駄目だったのだろうか。家格が低いからか、女だからかと考えを巡らせるが、レオナルドはそんなことを気にする人間ではない。


「ーーだ」


 震えた声だった。気持ちを落ち着けるように、彼は一度深呼吸をする。


 レオナルドはシャーロットをまっすぐ見ると、はっきりと告げた。


「嫌だ。俺は、君との婚約を解消するつもりはない」

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