3話
「シャーロット……俺は……」
苦渋に顔を歪ませたレオナルドはぐっと唇を噛みしめると、シャーロットから手を放した。
「いや……なんでもない」
レオナルドは微笑んだ。本人はいつも通りに笑ったつもりなのだろうが、ひどく引きつった笑みだった。
シャーロットはそんなレオナルドを食い入るように見つめていた。
変わってしまった彼に胸を引き裂かれた想いがした。悲しくて仕方がない。けれど、その気持ちを必死に抑える。淑女は子どものように感情をあらわにしないのだから。
心は泣いても微笑みを保つ、それこそが求められる姿だ。
泣くのをこらえながら、シャーロットは記憶に焼き付ける。彼の自分に抱く気持ちと、己の胸に沸き起こる感情を。
「久しぶりの再会だったから、浮ついているのかもしれない」
「……そうですわね。私も、なんだかそわそわしてしまっていますもの」
「そうか……」
沈黙が落ちる。これまでならば考えられない程ぎこちない会話。いたたまれなさにシャーロットはうつむいた。
「向こうで君からの手紙を受け取った。……ありがとう。これも、大事にする」
レオナルドは服の下からペンダントを取り出した。シャーロットが手紙と一緒に送った、青い宝石がはめ込まれた鍵型のペンダントだ。
「本当はお戻りになった時に直接お渡ししたかったのですが、最近各地で天候の荒れがひどくて王都への往来が大変と聞きましたから、どうしても早くお守りを差し上げたかったんです。……つけてくださって、嬉しいですわ」
「君が、くれたものだからな、肌身放さず身につけるさ。……この宝石、不思議な色をしているんだな」
「綺麗でしょう? 偶然手に入れたのですけれど、あなたの瞳の色に似ているのが気に入ったんです」
ひと目で惹かれた。レオナルドに渡したら喜んでくれるのではないかと思った。だから、アクセサリーに加工して彼に渡したのだ。
「俺も……君に、渡したいものがあるんだ」
レオナルドは取り出した包をシャーロットに渡した。彼女の手のひらに収まる大きさのそれは意外と軽い。
レオナルドの許可を取って包みを開けると、中から出てきたのは繊細な装飾が施されたオペラグラスだった。
「まあ、素敵……。それにとても軽いですわ」
「君が使っていた物は重たそうだったからな。兄に王都の良い店を教えてもらったから買ってきたんだ。それと……」
ためらうように言葉を切った後、彼はこれから演劇を見に行かないかと提案した。
シャーロットは戸惑い、言葉に詰まる。
デートは主に公園や植物園を散歩か観劇だったから、この誘いは別段おかしなことではない。
これまでだったら、の話だが。
今、レオナルドはシャーロットを嫌っている。もう愛しておらず、約束もしていなかったのに、わざわざデートに誘うなどシャーロットには理解できなかった。
「既に席は抑えてあるんだ。早く君にそれを使ってほしくて……」
穏やかな口調で彼は言う。愛しい恋人を誘う婚約者を装っても隠しきれない嫌悪を滲ませて。
レオナルドは律儀な人間だ。予約した以上、デートに誘わなくてはならないと考えたのかもしれない。
彼が負の感情を抑えて誘ってくれているのだから、シャーロットもそれに応えるべきだろう。
「是非。……ふふ、楽しみですわ」
浮かべた笑みはとても淑女らしかったに違いなかっただろう。
『何故、あなたは私を信じてくださらないの』
舞台の上で、純白のドレスをまとった女が嘆く。不貞を疑われ、仲睦まじかったはずの夫に別れを告げられたその女はラナ教の主神、女神ラーラだ。
女神ラーラを題材にした演目は人気で、流行り廃りの激しい王都で定期的に公演されている。婚約したばかりの頃にも一度レオナルドと観劇したことがあった。
気高く美しい女神ラーラは冤罪を着せられても毅然と立ち向かい、その無実を証明する。夫とは和解したが、彼女は別離を選び、物語は幕を閉じる。
ラーラ役の女優が導き手である鳥を肩に乗せ、カーテンの向こうに消えていくのを、オペラグラス越しにシャーロットはじっと眺めている。
「シャーロット……? 具合でも悪いのか?」
観客席に明かりが灯されても動こうとしないシャーロットに、心配そうにレオナルドが声をかける。
「あ……申し訳ございません。このグラス、手が疲れない上によく見えるから感動してしまって……」
「気に入ってくれたなら良かった。……ほら、そろそろ行こう」
立ち上がったレオナルドがシャーロットに手を差し出す。彼は舞台が終わると毎回こうしてエスコートしてくれる。シャーロットもいつものように手を重ねて、立ち上がる。
けれど、いつもと違って彼の顔は見なかった。見れなかった。それでも、シャーロットが触れた瞬間、彼の手がわずかに強張ったことで、彼がどんな表情をしていたのか、嫌でも想像できた。
レオナルドの゙腕に手を置き、馬車へと向かう。その道中で、綺羅びやかなドレスを着た美しい令嬢がふたりを呼び止めた。
「お久しぶりですわ、ポーレット卿」
優雅に淑女の礼を取った令嬢には見覚えがある。一度、お茶会で同席した令嬢だ。
裕福な子爵令嬢で、見目も所作も綺麗だった。伯爵家の夫人や令嬢たちにも見劣りしないほど輝いていた。
けれど、彼女がシャーロットの記憶に残っているのは別の理由がある。
「あら……どなたかと思えば、オルコット伯爵夫人のお茶会にいらしていた……」
「シャーロット・グレイスです。先日はお世話になりました」
令嬢の口の端に嘲笑が上る。お茶会で味合わされた針のむしろがシャーロットの脳裏をよぎり、喉が引きつった。
「あなた、ポーレット卿の婚約者だったのね。ふふ。ポーレット卿はお優しい方だとよく知ってはおりましたけれど、まさかここまでの慈善家だとは思いませんでしたわ」
扇子を広げて口元を隠した令嬢の瞳には獲物をいたぶる猛禽のような鋭さが宿っている。
ここで怯めば彼女の思う壺だ。平静を装い、シャーロットは笑んだ。だが、情けないことに、この場を凌ぐ良い返しが思いつかなかった。
すると、レオナルドがとんでもない、と愛想笑いを貼り付けながら一歩前に出る。令嬢の刺すような視線が彼に遮られ、さり気なく庇ってもらったのだとシャーロットは気づく。
「俺が婚約を申し込んだんですよ。大聖堂で何度も会ううちに彼女に惚れ込んでしまって」
「……まあ。卿の方から?」
「ええ。……しかし、こうして自分の恋愛事をお話するのは恥ずかしいですものですね。……ああ、そうだ。弟君はお元気ですか?」
レオナルドと軽く雑談を交わしたあと、令嬢は去っていった。
令嬢の姿が人混みに消えると、レオナルドは大きく息をついた。
「相変わらず勝ち気なご令嬢だ。……大丈夫か? シャーロット」
シャーロットが頷くと、レオナルドは安堵に目元を緩めた。
「あの……ありがとうございます」
「いいや。君も災難だったな」
「……レオナルド様は先程のご令嬢とお知り合いなのですか?」
「彼女の弟が同じ部隊だったことがあるんだ。彼女とは舞踏会で何度か踊ったことがあるくらいか」
知り合い程度でお互いに特別な感情を抱いていないことは、ふたりの態度からうかがえた。だが、彼女のあの様子では来年社交界デビューを果たしたら、尽く絡まれそうな気がする。
いや、敵は彼女だけではない。平民上がりをいたぶりたいものなど社交界には五万といるだろう。
「そんな顔をするな。本当に彼女とは何も関係がないんだ」
「ああ、いえ、違いますの。来年、私もいよいよ舞踏会に参加するようになるのかと思いまして……」
「不安か? 安心してくれ、舞踏会では常に俺が隣にいるから」
シャーロットは優しい言葉をかけてくれるレオナルドの顔を見上げ、微笑んだ。
「頼りにしてますわ、私の騎士様」
社交界デビューする時に、レオナルドは婚約者のままでいてくれているのだろうかという疑問を飲み込んで。
満天の星が散りばめられた夜空を眺めていると、メアリーが就寝前の髪の手入れを呼びかけた。
もうそんな時間かとシャーロットは鏡台の前に座る。メアリーはブラシを取り出すと、シャーロットの髪を丁寧にといていく。
「ポーレット様は相変わらずでしたね」
「そうね、少しお疲れのようだったけれど、大きな怪我も病気もなくてほっとしたわ」
「違いますよ、お嬢様。相変わらずというのは、お嬢様にベタ惚れだってことです」
驚いて鏡越しにメアリーを見る。主を気遣ったのかと一瞬思ったが、おかしそうにクスクスと笑う彼女は嘘をついているようには見えない。
「移動中も観劇の時も頻繁にお嬢様に熱い視線を送っていらっしゃいましたし、贈り物もお嬢様の趣味をよく理解された物でしたし……それに、あのご令嬢の悪意からもお嬢様をお守りしていましたから」
贈り物や庇ってくれたことをメアリーが勘違いするのも無理はないが、彼の表情や眼差しはとても愛する相手に向けるものではなかった。
態度や言葉には出さないように注意を払っていたようだが、シャーロットには何の意味もなかった。彼は感情がわかりやすいのだ。
しかし、シャーロット以外の人間には効果があったようだ。今日、一番長く側にいたメアリーが気づかなかったのだ、他の人間もおそらく彼の心変わりに気づいてはいないだろう。
もともとレオナルドは感情が読みにくいと言われていた。愛想笑い以外ではめったに表情が動かず、腹の底が知れないと。
最初は婚約を反対していた母が破局させるためについた嘘かと思ったが、シスターを始めとする彼と共通の知人も同様のことを言っていたので、本当のことなのだろう。
「以前のデートでもお嬢様のお顔を見ていることは多かったのですが、今日は特に熱心に見つめられていて。ポーレット様は表情こそわかりにくいですけれど、行動にはお嬢様への愛がとてもよく現れていますね」
主の幸せを喜ぶメアリーに本当のことは言えず、シャーロットは鏡の中の己を見やる。
淡い金の髪に鮮やかな緑の瞳。母と瓜二つの外見を持つシャーロットはお転婆なところ以外、母とよく似ていると言われていた。
シャーロットも時々そう思うことがある。だから、自分も母と同じ道を辿るのではないかと強い不安と恐怖に襲われるのだ。
鏡の中の金髪の女がこちらを見つめている。お気に入りのブルーのナイトドレスに身を包み、多くの侍女に傅かれるよりひとりの信頼できる侍女だけを置きたがる、心から愛した男がいる女。
まだあどけなさの残るその顔はシャーロットでもあり、母でもあるように思えた。
「来年の結婚が楽しみですね、お嬢様」
弾んだ声のメアリーにシャーロットは曖昧な笑みを返すことしかできなかった。