俺と少女の生存戦略(三十と一夜の短篇第85回)
虫が出ます。
とくに動きの描写はしていませんが、苦手な方は回避してください。
ひとり暮らしのアパートで寝返りをうち、目を覚ましたのは十時半過ぎのころ。
丈の足りないカーテンの下から明るい陽射しが射しこむ平日の真昼間に、惰眠を貪れるのは大学生の特権だろう。
そんな優雅な時間にむくりと起き上がったのは、玄関チャイムが俺を呼んだから。
(こんな時間に遊びに来るやつはいないからな……なんか荷物たのんでたっけ?)
のそのそと玄関へ向かい、相手も確かめずに扉を開けた。
「はいはい、どちらさん……?」
扉の向こう、虫の死骸が転がる殺風景な廊下にいたのは、小柄な女性。
ふんわりやわらかそうなワンピースとややほつれ気味なショートヘア。年齢は、俺よりすこし上か、同じくらいか。
判断ができなかったのは、女性が深く頭を下げていたから。
「あの、お隣に越してきた宿利木です。その、子どもと赤ん坊がいるので、うるさくしてしまったら、申し訳ありません」
頭を下げたまま、唐突な謝罪。
見れば、なるほどその華奢な腕にはちいさな布にくるまれた、ちいさなちいさな赤ん坊がいた。そして、細い身体の後ろには、小さな頭がちらりとのぞいている。
「え、赤ちゃん」
「あっ、はい。その、本当に、できるだけ静かにするようには気を付けますので、本当に、すみませ、」
「うわあ、ちっちゃいなあ! こんなちっちゃいのに足の形してる!」
赤ちゃんの足が布のはしっこからちょっこり突き出て、そのあまりの小ささに驚いた。
(ちいさすぎない? いやでもちゃんと足の形してるんだ。そりゃそうか。いや、でもすごいな!)
なにがすごいのかわからないが、謎の感動に襲われるまま俺はうれしくなっていた。こんなにちいさな赤ん坊を間近に見るのがはじめてだというのもあるんだろうけど。
あんまりにもちいさくて、やわらかそうな足に、感動してしまったのだ。
なんてかわいいのか、としげしげ眺めていた俺は、あっけにとられた女性と目が合って、ハッとした。
「あっ、おめでとうございます!」
「えっ」
驚かれた。唐突過ぎたのだ、と思って「いやいやいや」と弁明の機会を求める。
「赤ちゃん生まれたんですよね、おめでとうございます。そんで俺、寝つき良いしたぶん泣いてても気にならないと思うんで、気にしないでください。いや、でも泣いてたらかわいい、とか思っちゃうかも!」
一度寝た俺が起きないことは、家族と学友の間では有名なこと。俺自身、ちょっと誇れるところだと思っている。安心して泣いてほしい。
そう思って言ったのに、女性の目から涙がぼろりとこぼれて落ちた。
「えっ」
落ちた雫がむき出しのコンクリートに暗い染みを作る。うっかり目で追った俺は、廊下の端にころがる何かの蛹を視界のすみにかすめさせながら、顔をあげた。
ぼたぼたぼた、涙はますます溢れて落ちる。
「えっ、えっ」
ハンカチ、タオル、手ぬぐい。
気の利いた布など持っているはずがない。こちとら風呂にも入らず布団に潜り込み、昼を迎えようとしていた自堕落な人間なのだ。
「お母さん、顔ふいて」
慌てるばかりで役立たずな俺をよそに、にゅっと突き出されたのはちいさな手。女性の背後から伸びる幼い手には、七色の蝶がプリントされた華やかなハンカチ。
隠れていた少女は、小学校の低学年くらいだろうか。
腕に抱えた『昆虫』図鑑がずいぶんと大きく見える少女は、女性とおそろいのワンピースに身を包み、きれいに結われた二つ結びの髪をくるんと揺らす。
「あ、ありがと、ナチちゃん……」
片手で赤子を抱き、もう片方の手で受け取ったハンカチに顔をうずめ、女性はすん、すんと鼻を鳴らしている。
(気まずい。俺、なにをやらかしたんだ。発言がキモかった? 初対面で赤ん坊を見過ぎてた!?)
『男子大学生、隣のアパートに住む親子を付け狙い、逮捕。警察の調べに対し「赤ん坊に興味があって」と証言をしているとのことです』
ニュースキャスターの淡々とした読み上げが脳内で再生され、学友たちによる「いつかやると……」「まあ、不思議はないですね」といった声を潜めたコメントまで聞こえてくる気がした。
(終わった……社会的に、終わった……)
大学三年まで品行方正とまではいかないが、人さまの迷惑になる行為はつつしみほどほどに謙虚に生活をしてきたというのに。
(四年で入りたいゼミも決めたし、卒論のテーマにしたいものも考えてるのに……)
せめて大学を卒業したかった、と悲しみに瞳がうるんだとき。
俺の服のすそがぐん、と下に引っ張られた。
「お母さん、うれしかっただけだから。気にしないでよ」
「うれし……?」
どういうことだろう、と女性に目をやれば、ハンカチで顔を覆ったままこくこくと頷いている。
「ぐすっ。あの、この子が生まれたこと、祝ってくれた人は初めてで、ぐす」
「えっ」
そういえば父親の姿が無いのだ、とそのときになってようやく気が付いた。
気が付いたら、思わず言っていた。
「俺で力になれることがあれば、いつでも言ってください。大学生なんで、けっこう昼間時間あったりするんで」
***
そんなこんなである日の昼下がり。
俺は宿利木家の住まいのなか、エプロンで手をぬぐう。
「ほら、ナチ。ドーナツ揚がったぞ」
差し出したのは山盛りの揚げたてドーナツ。
ほこほこ湯気をあげる魅惑の環っかに、ナチの大きな目はにっこりと……あれ、ちがうな。じっとりと俺を見ている気がするのは、なぜだろう。
「お兄ちゃん、おやつ食べすぎ」
「えっ。だって、でもいっぱいあったほうがうれしくない?」
「限度ってものがあるの。こんなに食べたら晩ご飯が入らなくなるでしょ。栄養が偏って背が伸びなかったら、どうしてくれるの」
すぱすぱと切れ味鋭く返してくる佐藤ナチ、七歳。これでなんと小学一年生なのだという。
ずいぶんと大人びているけれど、でもそこは小学一年生。ひとりでお留守番はまだちょっと心配だ。
けれども小学校は昼過ぎに下校して、だけど学童にはあぶれて入れなくて、なおかつお母さんが下の子の検診に行かなくてはならないというそんな日には、時間に自由のきくお隣の大学生の出番なのである。
「たしかに、栄養の偏りはいけないなあ。俺くらい育ちきってしまえばもうどうでもいいような気もするけど、ナチはまだまだちっこいもんな」
すくすくと育ち、平均身長を十数センチほど通り越した俺。
対するナチは一メートルとちょっと。本人に聞いてもむくれるばかりで答えてくれないが、たぶんクラスでも小柄なほうだろう。
そんなナチの成長を妨げるわけにはいかないと、皿のうえのドーナツをそっと戻していく。
ついでにひとつ腹に収めておこう、とぱくり。すると。
「ねえ」
不意に、ナチの硬い声が俺を呼んだ。
「どした?」
先に食べたから怒られるのかと思えば、ナチの目はこっちを向いていない。
幼い横顔がじっと見つめているのは、窓の外。空を横切る蝶の金色の羽根をとらえるナチは、まるで睨んでいるよう。
「あれ、何色に見える?」
「金じゃないのか? はじめて見るな」
答えたとき、部屋の壁に備えられた付けっぱなしのテレビがニュース番組をはじめた。
映し出されたのは、どこかの国の農場だろうか。
剥がれかけた舗装道路に点々と転がっているのは、何かのさなぎの殻。
(あれ、俺どこかであれを)
見たような、見ないような。
パッと切り替わった映像のなか、金の羽根をひらめかせる蝶が飛び交っていた。ひらひらと舞うたび、ほろほろとこぼれる金の粉は鱗粉だろうか。
見覚えのない蝶は、ついさっき目にした羽根とよく似ているような気もする。
金粉きらめく画面のなかに立つ人々はぼうっと空を見上げ、しだいにその場に頽れていく。
倒れた人のうえにも、地面のうえにも金粉は舞い積もり、やがて金にまみれた画像がぐらりと横転したかと思えば暗転して。
『ただいま御覧いただいたのは、一般の方から提供された動画の映像でした。金の羽根を持つこちらの蝶。発生した地域では集団幻覚の症状が確認されており、現地で診察を行っている呪術師によると鱗粉に幻覚作用があるのではないかと考えられているようです。現地では黄金蝶と呼ばれ新種の蝶の蛹が、荷物に付着して日本に入ってきている可能性があり』
ニュースキャスターが淡々と読み上げる声が響く。
次いで、切り替わった画面には船から降ろされたコンテナの下に、ぼろぼろとこぼれている蛹の群れが。
やっぱり、俺はあの蛹を見たことがある。
「あの蝶、まだ絶えてなかったか」
「な、ナチさん?」
今にも舌打ちしそうな少女に驚く俺をよそに、ナチはてきぱきと服を脱ぎ始めた。
(え、なんで脱ぐの? 密室で裸の女児とふたり、男子大学生逮捕の幕開け!?)
再び社会的な死を覚悟しかけた俺は、けれどそんなことは頭から消し飛んだ。
「ナチ、その背中の……羽根……?」
ほっそりとした背中からすんなりと伸びているのは、薄茶色に透けた一対の羽根。鳥のようなそれではなく、色の濃い脈がいく筋も走る昆虫のそれだ。
肩越しに振り返り、ナチが笑う。
「お兄ちゃん、蝶の天敵ってなんだと思う?」
「え、カマキリ? いや、鳥かな。あと、なんだろう。トンボも肉食か」
「うん、当たってる。けど不正解」
笑みを消したナチの肌をパキパキと這うように、硬質な黒い殻が覆っていく。
瞬く間に少女の柔い肉体は姿を消し、そこに居たのは一匹の巨大な黒いハチ。
「寄生蜂はね、蝶の卵に自分の卵を産みつけるんだよ。そして、蝶の幼虫が羽化する前に内側から食い殺すの」
ぱたた、と薄い羽根が部屋の空気を震わせる。
いつの間にか開いた窓に向かって、ハチの体が浮き上がる。
「あの蝶は人類の敵。種が紡がれる前に狩り尽くしたはずだったけど、生き残りがいたみたい」
「狩ったって……ナチのお母さんが?」
半信半疑。だけどここ数ヶ月をともに過ごして、ナチのお母さんの収入源は謎だった。
働きに出ているようすはなく、けれど親子が困窮しているようすもなく。
ただただ、静かに暮らしていた姿を俺は知っている。
「今、人の暮らしに混ざってる寄生蜂は私たち家族しかいない。でもお母さんはあの国じゅうに散らばった蝶の卵を狩るために力を使い過ぎたから」
だから、行かなくちゃ。
自分の半分もないちいさな女の子が、そう言うのを聞いてさ。黙って見送れるだろうか。
(いや、無理だろ)
たとえ自分とは似ても似つかない姿をしていたとしても、俺は黙っていられない。
「ナチは、卵を産みつけにいくつもりなのか?」
俺が声をかけるとは思ってなかったのか、ナチのびくりと肩を震える。振り向いた顔は昆虫のそれで、表情がわからないのがもどかしい。
「ううん、卵を産みつけられるのは大人のメスだけ。それでも、私たちにあの鱗粉は効かないから、私が動かなきゃ」
テレビに映る蛹は集めて、密閉容器に封じられている。侵入を防ぐために警戒を強めていく、と専門家が語っている。
でも、ついさっき蝶が外を飛んでいた。
それはつまり、侵入はすでに果たされているということ。
人の目で見て集めて、手に負えるだろうか。たぶん、簡単なことではないだろう。
だからって、できることをやらないで過ごすのは、あまりにも怠慢ってものだ。
「……俺で力になれることなら、手伝うよ。大学生って、けっこう時間に自由がきくんだよ」
言えば、ナチがハッと振り向く。
相変わらず表情はわからないけど、でもいま驚いたのは俺にもわかる。
「なんなら人数も集められるぞ? 隣のお兄さんは案外、頼りになるんだぜ」
冗談めかして笑ってみせた俺に、ナチが頷いた。
「数は強さになる。いっしょに来て、お兄ちゃん」
「いいよ、行こう。車も出すよ。飛ぶより速いし、疲れないぞ」
大人の特権、原動機付きの乗り物を提示すれば、ナチの身体が昆虫のそれからひとの肌へと変わっていく。
剥き出しの肌にさっと背を向けて、服を整えているのだろう衣擦れの音を聞きながら、俺は手が空いてそうな連中に片っ端からメールする。
履歴書に『人類を守るために奮闘した』と書けたら、就職に有利になったりするだろうか、なんて考えながら、入り用な道具を思い浮かべるのであった。
おにロリが書きたかった。ただそれだけです。