5;タクシードライバーと天体観測者
アームストロングシティ/アークティック・ホテル前 同年紀
「お待たせしやした、ヴィンスラムさん。今日、案内させて貰うジョルダーノ・ブルーノという者で」
「よろしく、ブルーノ。こちらはご一緒するマーチンさんだ」
「よろしく、マーチンさん」
「よろしく、ブルーノさん」
「通信システムは大丈夫かね?よく聞こえ、よく見えてるかな」
「ああ、大丈夫だ」
「私も大丈夫です」
「注意事項は確認したね」
「ああ、した」
「しました」
「繰り返しになるが、マイクロタグやピーシーは使用禁止。通信障害や安全装置にトラブルが発生する可能性があるからね」
二人が頷くと、バイザー内側に投射された二次元画像の顔が笑みを浮かべ頷く。
「出発の前にもう一つ確認したいことがあるだがね、ヴィンスラムさん」
「何だね?ブルーノ」
「車のことだけんど」
ブルーノは右手でバギータイプの6輪車両を指し示す。
「指示通りオープンタイプでいいかね?密閉式の車でないと帰りまで宇宙服を外すことが出来ないよ」
「何か問題でも?」
「いや、別にお宅さんたちがよけりゃいいがね。二人とも宇宙は初めてって言うから、宇宙服に慣れてないだろうと思って。長時間それを被ってるとおかしくなっちまう人もいるんでね」
ブルーノは二人の出で立ちのことを言っている。ボディフィット型の軽装宇宙服ではあるものの重さは10キロ余り、重力が軽いため厚手の防寒服くらいにしか体感しないが問題はフルフェイスのヘルメット。バイザーは超クリアに精製した衝撃に強いナノカーボン製で、月面居住区の窓の素材と同じもの。外側に断熱と遮光剤が塗布してあるので、外から表情は伺えない。作業を伴わない観光客が使うものは視野の範囲内が全て透明素材で、慣れない人間にも閉所恐怖や息苦しさを出来るだけ軽減するような工夫がなされている。それでも馴染めない人間はいるものだ。
「いや、二人とも大丈夫だ。彼女も私も地球でスキューバを経験している」
「ああ、それじゃあね。済んませんね、この間も大丈夫と言ってたお客が途中でゲロしちまってさ、酸素の出口を塞いじまって一騒動でさ」
「そのようなご迷惑は掛けないとお約束いたしますわ、ブルーノさん」
ユンファが柔らかく笑むとブルーノは深々とお辞儀をして、
「ありがとう奥さん、助かるよ。じゃあ、そっちがよければ、ぼちぼち行くかね?」
口の利き方は良くないが腕は確かな案内人、とコンシェルジュのシェフチェンコ女史が太鼓判を押したブルーノは、確かにプロフェショナルを端々に漂わせる月面ガイドだった。月面散策一日コースのルートはアームストロングシティの郊外にあるマスドライバーの発着場遺跡の見学から始まった。ホテルから15分、硬化レゴリス舗装の道を慎重に運転するブルーノを見て、ウィンは無意識に身構えていた態度を改める。ドライブの腕をひけらかすためにスピードを上げたり蛇行運転をするような馬鹿者ではない。見える風景や建物をぶっきら棒に説明するときも、どうやら視線を逸らせたりはしていない様子。そこでウィンは最後に残った疑問を口にする。
「ところで、ブルーノ。何でオートドライブにしないのかな?」
すると彼は鼻で笑って、
「何でも機械任せにするとだね、いつかそのツケが回ってきますわな、ヴィンスラムさん」
「それは良く分かるが、ここは『街中』だろ?交通管制は地球並みとガイダンスで聞いたが」
ブルーノは突然後席のウィンを振り向くと、運転はそのまま、ゆっくりと話しかける。
「もう忘れちまうほど長い間降りてないから『下』じゃどうだか知りませんがね、旦那。ここでは法規なんてもんはどこ吹く風って奴が多くてね。国際協約機構は隠したいみたいだけどマニュアルでブッ飛ばして大破、なんてしょちゅうですよ。こっちはお客さん預かってんで、いざって時には何故かおかしな動きをするオートなんかにゃ頼ってられんのですよ。お分かりですかね?旦那」
その間もバギーは道を真っ直ぐに走って行く。前方から密閉型の4輪車がやって来てかなりなスピードですれ違うと、ウィンの隣に座るユンファが身動ぎした。ウィンは冷静に頭を下げると、
「済まなかった。あんたがプロだってことが良く分かったよ。もう何も言わないから、どうか私たちを無事に帰してくれ」
「そいつは請け負いますぜ、ヴィンスラムさん」
ブルーノは再び前を向くと何事もなかったかのように、この地に最初に建設された観測基地の遺跡について説明を始めた。ユンファが聞いてくる。
「ヴィン?」
秘話モードで音声が多少歪んでいても声に非難が含まれているのが分かる。
「あまりプロの方のプライドを験すのは、どうかしら。少しドキドキしましたわよ」
「申し訳なかった、謝ります。少々疑問だったのですよ。もうやりません」
ウィンは肩を竦めてブルーノの話に聞き入った。
街の周囲に広がる様々な遺跡やレジャー施設を6輪のバギーは辿って行く。マスドライバーは月面開発初期に大型資材や月の鉱物を送り出すために使われたリニアモーターカタパルトだった。現在ではウィンも良く知る時空ドライブと同じ原理を応用し、短距離発着可能な輸送機に取って代わられ、マスドライバーは殆ど使われなくなっていた。既にアームストロングシティのマスドライバー発着場は閉鎖されていたが、月面開発の初期に造られたこの機構は歴史的価値があり、実際全長2キロのカタパルトは壮観な眺めで史跡として保存されていた。最初は観測基地としてスタートしたこの街も、『アルテミス』には及ばないが8千の人口を誇る。滞在型ホテルや近郊にレジャー施設を抱える観光都市に成長したこの街では低重力状態で楽しむプールやゴルフに人気があり、例のムーンボールは毎晩試合が行なわれる。ウィンはジムで身体が鈍らないようにする程度でスポーツを験す気にはならなかったが、ブルーノが月で一番大きなプールだと示したドーム型のプールを眺めた時は、隣で興味深げに眺めるユンファを盗み見て、彼女が一緒なら泳いでもいいかな、などと邪なことを考えたりもした。
やがてバギーは新鮮な野菜を供給する生産工場を後にすると、人造物が途絶え、比較的平坦に広がる場所に出た。
「すごい」
思わずユンファが呟くほど、そこは見通しがよく、宇宙に輝く星は地球で見るそれとは比較にならないほど明るく数が多かった。二人とも、それまでも往還船や観光で星を見て感嘆の声を上げてはいたが、このように開けた場所で見るのは、小さな窓や人造物に囲まれて見るよりは数倍感動の度合いが違った。ブルーノは少し小高くなった場所にバギーを停めると、
「さあ、ここで暫く休憩しやしょう。おや、水をあまり飲んでないようですな、いけないね、ここで全部飲んでくださいよ奥さん。おしっこのことを気にするより水分補給を心がけて。こいつを着ていると思った以上に汗をかいてるんで簡単に脱水症状を起すんでね。飲んだらタンクに補給するから」
「分かりました、ブルーノさん」
水や流動口糧はヘルメットから口の横へ突き出しているチューブから採る。ユンファは素直に水を飲んでみせた。
「まあ、確かに慣れるまではいい大人が化学処理式のオムツをしてるってーのは気になりますわな、だが我慢してもらわなきゃなりませんよ。遠出の場合はこの状態で4、5日行動することもザラだからね。これが宇宙の現実ってやつですよ」
「確かに思っていた以上に不便で大変ね。ブルーノさんは何年月にいらっしゃるの?」
「は!忘れちまいましたよ。聞かれた時には20年って答えますけど、それ以上ですな」
「そんなに長い間。地球が恋しくならなくて?」
「さあ、どうなんでしょうね。もう地球がどんなだったのかあまり覚えていないからね」
「あそこに人がいる」
ウィンは目敏くそれを見つけた。所々に岩が転がる平坦な月面に、岩と紛う人影が小さく見えた。何かの機器を隣に、身を屈めている。
「ああ、あれ。天体観測をしてるんですよ」
「学者さん?」
「いいや、趣味ですな、奥さん」
「素敵な趣味ですこと」
「それはどうですかね」
「え?」
「口が滑った、聞き流してくれますかね、奥さん」
バイザーの内側に映るブルーノの顔は何か浮かない様子だ。それが気になったウィンが声を掛ける。
「ちょっとあの人と話してみたいが、邪魔かな?」
「ええ、邪魔ですな」
その反応の素早さが益々ウィンの興味を引いた。
「それは問題がある、ということかい?ブルーノ」
「そういうことだね、旦那」
どうやら気分を害したり触れて欲しくない事柄に及ぶと、名前から『旦那』と言い方を変えるブルーノにウィンは畳み掛ける。
「なあ、ブルーノ。それじゃ説明になっていないよ。あの人のことをあんたは知っている様子だが、我々が話してはいけない相手なのか、それともあんたが話して欲しくないのか、その辺をはっきりして貰えないか?話し掛けたらあの方の迷惑になるならそう言って貰わないと。そうなのかね?」
「ああ、話さない方がいいでしょうな」
「それはあんたがそう思うのかい?それとも何かあの方に問題があって私を止めようとしているのかい?」
「どっちでも同じでしょうが」
「違うよ、ブルーノ、同じじゃない」
ブルーノは思わず悪態を吐きそうになるのを舌打ちで我慢すると、
「分かったよ好きにしな、旦那。あの人はちょっと変わってるんだ、旦那が不快な思いをしてもこっちは責任取りませんぜ」
「結構だ。ああ、ブルーノ?」
「なんです?」
「最初にあんたがあの人に声を掛けてくれないか?」
「え?」
「こちらは名前も知らないし、知り合いなら話をする気分かどうか探れるだろう?あの人が話す気分じゃないのならこっちは退散するから」
「・・・へいへい、そうしやしょう」
ブルーノはぷいっとあちらを向くと、すたすたと歩いて行く。大股で歩くブルーノの足元から月の砂レゴリスがふわりと舞い上がりきらきらと輝いた。ウィンはユンファを促すと少し遅れて彼の後を追った。すると振り返りもせずにブルーノが言う。
「ライネケン」
「なんだい?」
「あの人の名前、ライネケンという。でもいいですか?先生と呼んで下さい。機嫌を損ねないでくださいよ、相当な気分屋だから」
「こんにちは、先生」
ブルーノはライネケンが何かの装置に屈み込んでいる場所のかなり手前から声を掛けた。しかし、相手は聞こえなかったのか装置を弄くり続けている。
「先生、お邪魔して済みません、ちょっと手を休めて頂けませんかね」
通信機を切っているのだろう、相手は全く反応しない。ブルーノはウィンの方に振り返ると、そら見たことか、と両掌を仰向ける。ウィンが仕方がないと一歩踏み出した時。
「勝手にそれ以上近付くんじゃない、コワッパどもが」
皺枯れて聞き取り難い声が響く。
「一体何の騒ぎだ」
「お邪魔して済みません、ブルーノですよ、先生」
「ふん、分かっとるよ、車屋。オイルの臭いがここまでぷんぷんしとるからな。で、何の用事かと聞いておる」
「申し訳ないです先生。ウチのお客さんが先生とお話したいのでアタリを付けてくれと言うんで・・・」
「ほう?で、お前を指名したおめでたい客に何を言ったんだ?頭のイカレた男が砂漠の真中で空ばかり見てる、面白いからからかってやれ、とでも?」
「と、とんでもねえ、先生、そんなこたぁ言っちゃいねえですよ」
「じゃあ何か?占星術の大家だから手相でも見て貰えとでも言ったのか?後からいくらふんだくるつもりだペテン師め」
「先生、あんまりだ、俺はそんな男じゃねえですよ」
「ブルーノ」
ウィンは笑い混じりに割り込む。
「この方はあんたをからかっているだけだ。そんなにマジになることもないだろうよ」
そしてこちらを見もしないライネケンに、
「本当に申し訳ありません。私はヴィンスラムと申します。この地へ観光に来た者です。あの丘から先生のお姿が拝見出来ましたのでブルーノさんに先生のことをお聞きしたのですよ。天体観測をなさっている、と聞き及んだので、少しお話を伺ってみたいと、無礼は承知で無理を言ったのです。お邪魔でしたらこれで」
「先を急ぐな、フランス人。さっさと用件を言えばよかったんだ」
「何故私をフランス人と?」
「とぼけるならそれでも構わん。そちらのご婦人は中国の方だがアメリカ生まれだな。この能天気が言ったかどうかは知らんが、この車屋はイタリヤで悪さをして月に逃げて来た甲斐性なしだ」
「また先生、人聞きの悪い・・・」
青くなりながらも媚を売るブルーノを完全に無視したライネケンは、
「話があるならとっととこっちへ来い」
ライネケンは腰を伸ばすと振り返る。
「では、お言葉に甘えて」
ウィンが全く動じた振りを見せないさまにライネケンは目を細め、すごすごと退散するブルーノと入れ替わる形で前に出たユンファに視線を移す。
「おや、これは」
150センチほどの小男、ライネケンが腰に手をやり、
「知ってるぞ、どこで会ったか・・・いや、あんたじゃないな」
ぶつくさと独り言を言うなり、ぶっきらぼうに奇妙な装置の向こうを指差す。
「二人ともそこへ座るがいい」
それは太古、月の地殻変動で生成された白っぽい斜長石で、よく見ると窪みを2つ付けて並んで腰掛けることが出来るベンチに設えてあった。ブルーノは、と振り返ると盛大にレゴリスを巻き上げて自分の車の方へ去って行く。ウィンは、そのまま彼らを置いて帰ってしまうのではないか、と思ったが勿論そんなことはなく、ブルーノは車に乗り込むとそのまま運転席で待ちの態勢になったのが見えた。
「星を見ていられるのですね。趣味とお聞きしましたわ」
ユンファが無邪気に尋ねるとライネケンはそっけなく、
「何をしているように見えたかね?」
「その機械は何ですの?」
彼女が興味深げに装置を見ているので、ライネケンも少し鎧を脱いだ。
「こいつか?これは観測機器だ。一種の光像増幅器だよ。直接アタマにリンクさせる。視覚を全てそいつに繋ぐと、宇宙を飛んでいる気分を味わえる」
「それ、素敵ですね。私にも出来ますか?」
「そいつは無理だ。何せコイツの信号は生身の身体には強過ぎる。脳がフライになっちまうのさ」
空かさずウィンが尋ねる。
「では、何故あなたには出来るのです?」
ライネケンはふん、と鼻を鳴らすと、
「分かっているのに聞くんじゃないよ、若造」
「分かりませんわ」
と、これはユンファ。ライネケンは突然フルフェイスのヘルメットと頸部を繋ぐシールドを外す。ユンファが驚く間もなくヘルメットを脱いで手に持った。
「ライネケンさん・・・」
思わず手を合わせたユンファの前に現われたのは、目出し帽そっくりのマスクをした艶消しのメタルで出来た頭。
「あんまり長い時間は脱げない。使用環境の上限は摂氏485度になってるが、熱いのは一緒だからね。あまり見栄えのする顔じゃないんで、覆面をしているのさ」
「いつからですか?」
静かにウィンが尋ねる。
「さあね。100年経ったかどうか・・・交通事故でね。まだマスドライバーで輸送機を打ち上げてた時代に管制コンピュータが誤作動してね、わしの乗った連絡艇に巨大な鉱物輸送機をぶつけやがった。30名ほど乗っていたわしのフネは大破したまま軌道から弾き飛ばされ、3日ほど宇宙空間を彷徨った。助かったのはわしだけだ。何故助かったなどと聞くなよ若造。わしも覚えていないことは答えられん。悪運が強いだけだろう」
ライネケンはつるりとしたアタマを撫でると、
「まあ、助かったとはいえ、全身火傷に脳損傷、臓器は滅茶苦茶、心臓は停止でね。バラバラになっていなかった唯一の身体だったんで医者が直す気になったそうだ、当時の最新サイボーグ技術を使って。元の身体で残っているところは脳幹だけだ。そいつもコピーして電脳に組み込んじまったから、記憶と個性だけがあるロボットのようなもんだ。その後何度もパーツ更新したから当時の筐体すら残ったところはない。今はピッカーとかいう高知能学習型のロボットが大手を振って歩いてやがるから、それとわしの違いはどこにあるのかね?医者は験したかっただけだろうな、当時最新のサイボーグ施術をやってみたかっただけに決まっとる。余計なことしやがって。妻も息子も宇宙の塵になったのに、お陰でわしだけ生き永らえておる」