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4;逢瀬

 

ご注意

 この章には性行為自体は描かれませんがそれに類する表現が描かれております。R15の趣旨に沿った対応をお願い致します。

 なお、この章を飛ばしましても物語を読むことが出来るように作者は工夫する所存です。


 アームストロングシティ/アークティック・ホテル  同年紀


 有機EL照明は最小に絞られている。オレンジの点光源が辛うじて物の輪郭を浮かび上がらせる。闇に慣れた目にはちょうど良い。

 ウィンは仰向けに寝転びながら両手を上に、すると擬似窓が開く。これも青白い亡霊のように照度が抑えられている。午前2時10分。素早くウインドウを閉じると両手を頭の後ろへやり首を落ち着かせる。

 ホテルの客室には時計がない。誰もが生体送受信機マイクロタグに連動する携帯端末ピーシーを持つ現代、固定式の時計自体が時代遅れではあるものの、客に時間を忘れて寛いでもらうという意味サインでもある。もちろん頼めば直ぐに付けてくれるが、ウィンは頼まなかった。普段彼は『時間』に関わる仕事をしている。こんな時ぐらい時を忘れたかった。しかし、やはりこうして時間を気にしてしまう。

 最初は月にしては広いと感じた個室も、こうしてみるとやはり狭い。仕事で彼が使う隊舎の4人部屋と同じか、それよりやや大きい程度だ。その部屋に乱れた呼吸の音がしている。彼はそれを聞きながら、じっと天井を見つめていた。

「素敵だった。情熱的で、お上手で」

 呼吸が落ち着いたユンファが呟く。

「熱心なのにお優しくて。女の扱いに慣れていらっしゃるのね」

 何か華奢な動物が細く鳴くような笑いを漏らすと、

「地球ではさぞお忙しいでしょう?夜も」

 ウィンはシーツを剥がさないよう気を付けながら半身を起こすと、

「そんなことはありませんよ。随分と久しぶりだったのです。私は少しせっかちで身勝手でしたね。ありがとう、ユンファ。あなたも素晴らしかった」

 彼は身を屈め、俯せに横たわる彼女の肩に唇を付けた。

「でも不思議ね、あなたのような古風で立派な紳士がお一人なんて」

 そこで彼女は再びあの小動物の笑いを漏らし、

「それともあなた、稀代の結婚詐欺師か何か?」

 ウィンは苦笑すると、

「女たらしに見えましたか、それは面目ありませんでした、マダム」

「冗談よ。気になさったのならごめんなさい」

「気にはしませんよ」

「ヴィン、その傷、どうされたの?」

 彼女はウィンの右胸に薄いピンクのケロイドとして残る傷を見つめる。

「再生治療が失敗したのかしら」

 24世紀、遺伝子操作とバイオテクノロジーによる形成外科治療は手足・耳朶眼球の欠損、内臓の摘出、火傷や皮膚病などによる皮膚の損傷などに苦しむ患者に光明を与えた。今や手指の欠損なら10%の残存組織で完全に再生可能で、人類は義手義足などから解放されている。もっとも、軍事的には強化外骨格パワードスーツや武器としての義手・義足の開発も盛んだが、それはこの話と関係は無い。

「いえ、これは」

 ウィンはその傷を左手でなぞりながら、

「ノスタルジー、ですよ」

「思い出、なの?」

「ええ。自分を忘れないためにね」

 1870年の夏。泥濘の中で死ぬはずだった彼。それはプロイセンの一騎兵が振るった槍が掠めた痕。倒れた彼には、他十数箇所にサーベルや槍による傷があり、銃創も2箇所にあったという。瀕死の彼を救った24世紀の医療チームが、その殆どを再生治療で傷跡も残さずに治した。一番軽く命に別状の無いこの傷だけが残り、医師は跡形も無く傷を消せると請け負った。しかしウィンはそれを断り、以来、この傷だけが19世紀の名残となっている。

「酷い傷ね、何かで裂かれたような。一体何をしたらこんな傷が残るの?事故か何か?」

 ユンファは興味深げと呼ぶには異様なほどの興奮を示すと半身を起し、露になった乳房も隠さずにそっと右手を伸べて、彼の右胸の傷に沿って指を這わす。頬に流れる黒髪の奥に隠れた目は精気に輝いていた。

「まだ十代の頃、少々無茶をしましてね。もうそんなことはしない、という戒めです」

「喧嘩か何か?」

「気になりますか?」

「あ、いえ、ごめんなさい、変なことを聞いて」

 ウィンは曖昧に笑って彼女の髪をかき上げる。これ以上探らせぬため、少々乱暴に唇を奪いながら、この人はやはり加虐の性癖があるな、と思う。

 傷に興味を示す女性は確かにいる。過去にウィンもそういう女性に出会ったことがあった。全てがそうとは限らないが、傷に興奮する女性は暴力やスピードに興味を持つことも多い。人は期せずしてセックスに本性が現われることがあるが、彼女の場合先ほどの営みの中でもそれが見え隠れしていた。多分彼の背中には赤い爪痕が数箇所残っているはずだ。行為の最中に彼女は、無意識だろうが拳を固めて彼の胸や腕を殴り付けていて、彼が押さえ付けなければ青い打撲の痕すら残っただろう。それをこの人は気付いていないようにも見える。

 情報部で勤務した経験のある彼は精神医学も多少は齧っていた。何かトラウマに近いものがこの人にはあるが、もちろん非常にデリケートな問題であるし、それを彼女に尋ねる理由もない。そんなことを考えながらの長いキスになった。気付けば彼女は息を乱し、夢中になって彼にしがみ付き、夢中になって彼の舌を吸っている。ウィンはそんな彼女を優しく抱きかかえ横たえた。


 十数分後。

「ごめんなさい。私、まるで淫売みたいに・・・」

「いいじゃないですか、我を忘れるというのは幸せなことですよ。それに重力が少なくて身が軽いというのはこういう時には中々便利ですからね」

「いやだ、ヴィンったら」

 彼女は笑いながら彼の胸板に頭を預ける。長い髪を指で梳きながら、彼は彼女の甘い香りを吸い込んで目を瞑る。暫くそのまま余韻に浸っていたが、やがて彼女を左手で支えながら右手側に擬似窓を開き、いくつか操作する。突然豪華ホテルの一室が月面の上になった。

「まあ、すごい」

 彼女は身を起こしベッドの上から360度どこまでも続く荒涼とした灰色の世界を見やる。

「どうやったの?」

「ホテルの案内にありましたよ。火星やコロニーから見た宇宙空間もあるみたいですが、やはりここは月ですからね。地球でも同じ趣向の3次元動画がありますが、やはりこの軽い重力の世界で体験すると、臨場感が違いますね」

「本当。本物の月の上にいるみたい」

「どうですか、明日にでも本物の月面散歩でも」

「え?素敵だわ、どうするの?」

「ガイドを雇えば、個人でもそういうことが出来ると聞きました。朝になったらコンシェルジュに任せましょう」

「楽しみだわ」

 そう言うと彼女は起き上がってローブを取る。彼の視線を意識するとクスリ、と笑い、

「ハーフタイム」

 黒髪を躍らせて部屋の奥、今は月面の一部と化したバスルーム行く。ベッドのウィンから見ると彼女は、月のクレーターに転がる斜長石の大岩に呑まれ消えたように見えた。

 ウィンは擬似窓を開き、『会社』のIDとパスを入れ、個人IDとパスを重ねる。2次元の音声無しでページを繰り、必要項目を打ち込む。月からのアクセスなのでセキュリティ解除に一手間多く掛かり、また通信遅延ラグも発生する。キーワードと特徴を手入力で打ち込み、回答を得るまでに思いのほか時間が掛かった。

 擬似窓を閉じるとほぼ同時にユンファがバスルームから出て来た。彼女はベッドの脇にあるキャビネットのクーラーからミネラルウォーターのパックを2つ取り出して一つを彼に渡す。月面から忽然とそれが現われる。出来の良いマジックだ。

「ありがとう、マダム」

 ユンファは上機嫌で、

「お酒の方がよろしくて?」

「いいえ、もう十分に頂いておりますよ、マダム」

「あなたは本当に古風な礼儀正しさを持つ方だわ、ヴィン。まるでルイ王朝の時代にお生まれになったみたい」

 ウィンは苦笑しながら意識して過敏に反応しないよう努めた。ルイ王朝が幕を降ろし紆余曲折を経た後、ナポレオンの甥が統治するフランス最後の帝政時代に青春期を過ごしたウィン。下級貴族とはいえ、あの時代の空気を吸った者としての矜持は十分過ぎるほど持っているつもりだったが、それは他人にひけらかす類のものではない。また、彼の所属するTP・時空保安庁が実施する過去からの人材調達スカウトは公然の秘密でもあった。自分が過去からスカウトされた『過去人』であることは簡単に認めていい類のことではない。

「過分な褒め言葉です、マダム。先祖が喜んでおりますよ」

 ウィンはユンファの手を取って唇を押し当てた。彼女は鷹揚にそれを受けて、

「女が公然とちやほやされたのは近代まで。現代はジェンダーではなく人間ヒューマンとして立たなくてはなりませんもの。貴方のように接して頂ける方は本当に少ないわ。いつもそんなにお優しいの?」

女性ひとによりますよ、ユンファ。この手の行為は侮辱と受け取る方が多いですからね。もちろん貴女でもプライベート以外でこのような接し方は致しません。私は女性を尊敬すべき対象と教えられ育ちました。誤解を招きかねませんが敢えて言わせて頂くのなら、性差ジェンダーは恥じたり忘れ去るべきものではないと思うのです。いくら男女差を埋めるハイテクノロジーが満ち溢れた現代にあったとしても」

 彼女は手を叩く真似をする。

「素晴らしい。フェミニストという言葉は死語ですけれど、貴方にふさわしい言葉ですわ」

 そして手を伸べ、均整の取れた彼の身体に触れ、指を滑らせる。その指が彼の頬の上で止まる。

「貴方は現代のオスが忘れた美徳を誇っていいわ。誰もそんなことを言わなかったのなら、私が言ってあげる」

 すると彼女の指は首筋をなぞり胸を辿って降りて行く。

「でも、単に優しく礼儀正しいだけで女は惹かれなくてよ」

 鳩尾から腹筋で締まった腹を滑り、臍を過ぎ、軽く吐息を漏らしながら彼女の指は目的地に辿り着くとそれをやや乱暴に愛撫し、上気した顔で彼の目を見る。

「あなたの雄を証明出来て?ピーター・ヴィンスラム」

「お望みとあらば、マダム」


 翌朝、ウィンが何かの気配に目を覚ますと、彼女の姿がバスルームに消えるところだった。3次元の月面は自動的に消えていた。擬似窓を開き時間を見ると7時を少し過ぎたところ。2時間程度の睡眠だったが気分は良かった。情事の相手としてユンファは素晴らしい存在を示した。才能豊かな淑女で機転が利き、初々しさに溢れる乙女にも、技巧に長けた淫乱にもなれた。夜中に会社カンパニーのデーター閲覧システムを介して覗いた『27から35歳くらいのユンファ・マーチンと名乗る女性』の該当者は4名いたが、その何れもが彼女の外見的特徴と一致しない。もちろん整形も考えられる。密かに彼女の画像を検索に掛けることも出来たが、それは時間が掛かるし興味の範囲を超えている。彼はもうそれ以上調べる理由がなかったし調べたいとも思わなくなっていた。彼はローブを羽織ると擬似窓を開き、ホテルの案内を呼ぶ。

「お待たせしました、おはようございます、フロントです」

「朝食は部屋で取りたい。A23号室のユンファ・マーチンさんと一緒に食べるので彼女の分もこちらへ頼む。ああ、直ぐに彼女に確認させるから」

「畏まりました。事前にお聞きしたメニューでよろしいでしょうか?」

「構わない。それとコンシェルジュへ回して貰えないか」

「暫くお待ち下さい」

 ほんの数秒後、別の女性が現われる。

「おはようございます、ウィンスラブ様。コンシェルジュのシェフチェンコです」

「申し訳ないが私のことは標準語読みにして頂けるとありがたい」

「大変失礼致しました、ヴィンスラム様でよろしいでしょうか?」

「結構だよ、ありがとう、シェフチェンコさん」

「ありがとうございます。何かご希望がございますか?」

「月面を自分の足で探索してみたいのだが、ガイド付きで何かプランがあるかな」

「ございます、ご予定はいかが致しましょう?」

「出来れば今日、昼前が。2人分だ」


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