3;ホテル・アークティック
月面・国際協約機構直轄・アームストロングシティ
2374年06月(現在年月)
翌々日、月滞在1週間目になる日の『昼下がり』、ウィンは『北極域』行き連絡船に乗り込む。南極域にあるアルテミスの反対側に位置し、月で3番目に大きく2番目に建設されたコロニー『アームストロングシティ』に向かった。宇宙に出て10日が過ぎ、昼と夜は時間だけで判断することにも漸く慣れた彼は、窓から延々と続く岩と砂だらけの荒地を眺めていた。宇宙は真の闇。擬似的に青い空を映すスペースコロニーと違い、月にはなんの偽装もない。散らばる街の一つでは、広場の大天井に空を映し、暁から夕焼けまでを見せるイベントを行なっていると聞く。ウィンは宇宙に出て10日あまり、確かに青い空が恋しくなって来ていた。
ポートからホテル行き直行の大型15人乗りランドクルーザーに乗り、ちょっとしたアトラクション気分で月面走行を楽しんだ後、『夕暮れ時』に1週間ほど滞在する月でも屈指の3つ星ホテル、アークティックホテルに着いた。
このホテルの売りは眺望にあった。昼側は100度を越え、夜側は−150度を下回る月では建造物は地下に造られるか、月の地面を覆うレゴリスで覆って遮温するのが常識のため窓は極端に少ない。一般に『窓』と呼ばれるものもほとんどが擬似窓で、外の風景をライブ映像として流すスクリーンに過ぎない。それをこのホテルでは本物の窓から生の月世界を見せようというのだ。
ホテルの本体は地下にある。30ある客室は内装こそ豪華だが月での標準居住区と同じく窓のないカプセル状の個室。だが、ラウンジとホールは地上に露出しており、全周360度見渡せる円形、その角度15度毎に小さな窓が切ってあった。人々は24時間無料で供される地球から送られて来たシャンパンやビール片手に荒涼とした月世界を、地平から覗く青く輝く地球を見て、歓声を上げるのだ。
そんな窓の一つから、ウィンはシャンパン片手に地球を見ていた。
宇宙に出て人間は変わる、と言われる。
地球を外から眺めた人間は神の目線で地球を見ることにより宗教感に目覚め、小さな存在である人間を識る。宇宙開発が始まって400年、人は火星に拠点を作るまでになった。複数の引力均衡点にも半永久的なコロニー群が建設されている。宇宙移民人口は既に150万人を数え、延べにすれば1000万を越えた。21世紀末に始まった移民は当初、爆発的な人口増加の救世主のように思われていたが、いくつかの世界規模の戦いにより世界人口は大幅に減少、その後、今やどの地域も導入する『人口抑制策』により安定化を果たしたので、宇宙への移民は増加人口のはけ口ではなくなっている。だからこそ、宇宙はフロンティアとなり仕方なしに地球を出て行くのではなく、そこには挑戦するために出て行くという気概がある。
(『外』に出れば考えが変わる、そう聞いたがな・・・)
別段、何の感慨もないな、とウィンは思う。過去、多くの宇宙飛行士や開拓者が覚醒したと唱えた『宇宙市民』的感覚も覚えない。
(私は過去へと旅することに慣れている。そのせいだろうか?それともこれから地表に帰りここの6倍の重力に縛られ、人の欲望に翻弄される生活へと戻ればその感慨が浮かぶのだろうか?)
物思いに沈むウィンの目に、地球は鮮やかに青く、美しい宝玉と映っていた。
「お客様、失礼ですが、こちらのお客様とご相席、よろしいでしょうか?」
どの位物思いに沈んでいたのか、いつの間にかロボットではない人間のウェイターが現れぺこりと頭を下げる。
「ああ、構いませんよ」
「申し訳ございません」
「どうぞこちらに、お客様」
「ありがとう」
長い黒髪を掻き揚げながら20代後半から30代と思しき女性がウィンに微笑む。
彼女は丁寧にお辞儀をすると、ウェイターが恭しく引き出した椅子に腰掛けた。別の、これはロボットのウエイターが跳ねるように飛んで来て、オーダーを尋ねる。
「シャンパンを」
空かさずウィンが、
「私にもお代わりを」
シャンパングラスに蓋をしてストローで飲む、と言うのは実に滑稽で味気ないが、グラスを意識せずに持ち上げると、ふんわりと零れ落ちてしまうのでは仕方がない。シャンパンが届くと、彼女は初めてだったのか戸惑いがちに蓋をされたグラスから飛び出すストローを軽く摘んだ。
中肉中背、長い黒髪に同じく虹彩の見えない黒い瞳、身体は無駄のないスリムな体型だが華奢ではない。内にばねを秘めている。小さなテーブルを挟んで彼の正面に座った彼女は、そんな東洋系の美女だった。ウィンはシャンパン・フルートタイプの輝くグラスを見つめて呟く。
「バカラの高級品に蓋をしてストローを差す。実に滑稽ではありますが」
彼女が何か?と顔を上げるのを確認すると、
「仕方がありませんね、乾杯をする度に半分になってしまいますから」
自然と乾杯のグラスを掲げたウィンは彼女にそう言って笑い掛ける。 彼女も笑いながら、
「シャンパンをストローで啜る、というのも初体験ですわ」
「ええ、私も今夜が初めてですよ」
「では、貴方も宇宙は初めて?」
「ええ、恥ずかしながら。貴女もですか?」
「はい。恥ずかしながら」
即妙に彼の言葉で返す彼女の屈託のない笑いは、東洋系の彼女がするととてもエキゾチックだ。照度を落とした有機EL照明に、重力に抗してふんわりと踊っている黒髪。切れ長に僅かに上目を使う瞳。どちらも艶やかに光る様はまじまじと見つめてしまいそうな誘惑を覚える。その黒い瞳が彼の姿を映していた。と、彼女は、
「こうしてご相席させて頂いたのも何かの縁ですね、お名前を伺っても宜しいですか?」
一瞬偽名を使おうか、と考えた彼だったが・・・。
罰則こそないが、TPでは正直に所属と姓名を名乗る必要のない時は、偽名と当たり障りのない会社員とすることが暗黙の了解だった。しかし、こんな場所でそれは神経質に過ぎるだろう。彼ら作戦部の現業組は国際協約機関の職員名簿にも載っていない。無闇に職業を明かさないでいる限りは大丈夫なはず。それでも彼は告げる直前、最小限度の用心はすることにした。
「ピーター・ヴィンスラムです。」
自分の名前を称号の『ド』を抜いて世界標準読みにする。本名には違いあるまい。
「ユンファ・マーチンと申します。」
彼女は軽く頭を下げると、
「ヴィンスラムさんは何をなさっていらっしゃるの?」
「しがない商社勤めですよ。やれアジアだ、やれ北米だと世界中行ったり来たり」
「それは大変そうなお仕事ね、ヴィンスラムさん」
「どうかヴィンとお呼び下さい。普段はそう呼ばれています」
「では、私も、ユンファ、と」
ウィンは胸に手を当て恭しくお辞儀をすると、
「ではユンファさんと呼ばせて頂きましょう」
ユンファも優雅に一礼すると、
「ヴィンさんは紳士ですのね。EU(ヨーロッパ連合)の貴族でいらして?」
「まあ、紳士かどうかは別として貴族の末裔であることは確かです。しかし、家柄は大したことはありません。私も准男爵に過ぎませんので、お気になさらず」
「まあ。本物の貴族の方にお会いするのは久しぶりだわ」
「失礼ですが、ユンファ、とはどういう意味で?」
「蛍をご存知?」
「ええ、知ってますよ。一度南米で光の柱を見たことがあります。あれは美しいものですね」
「そう、あの小さな光る虫。それと花」
「ホタルの花。実に美しい名前だ」
「お上手ね」
「本心で言っているのですよ。漆黒の闇を思わせる髪の毛とその瞳。それが艶やかに光るさま。あなたにぴったりの名前だ」
「本当に女が舞い上がるような。それ以上褒めないで下さいな、恥ずかしいわ」
彼女は笑って手で彼を遮る仕草をする。透き通るように白くしみ一つない手が黒いテーブルの上で舞った。
「アジアのご出身で?」
「いいえ、生まれも育ちも北米です」
「では、貴女のご両親はアジアの美をそのまま貴女に受け継がせたのですね」
「美はしまって置いて下さい。確かに両親ともアジアから北米にやって来た移民です。私は両親を良く知りませんの。北米に渡って私が生まれ、いくらもしない頃に2人とも事故で他界しました。私は3歳でした。幸いにも親戚が私を引き取って育ててくれたのです」
「どうも不躾な質問を・・・お許し下さい」
ウィンが頭を垂れるとユンファは、
「私こそこんなに素晴らしいひとときに無粋な身の上話など・・・ヴィンさん、貴方は何をしに月へ?ご商談ですか?」
「いいえ、完全なプライヴェートです。珍しいことに1ヶ月の長期休暇が取れましたので、兼ねてより考えていた宇宙へと思い至りましてね。リゾート型のスペースコロニーも中々良いと勧められましたが、どうせなら月へと思いました」
「そうでしたか」
「貴女は?ユンファ」
さり気なく呼び捨てにしてウィンが聞く。彼女はシャンパンを一口啜ると、
「私もプライベートな旅行ですわ。月は」
と彼女は窓の外、陰影を深く刻む荒涼とした月面を見て、
「私の亡き夫がこよなく愛した場所でした」
ウィンはその先を待ったが彼女は続けるつもりはない様子で、じっと窓を眺めている。彼は一人シャンパンを飲み干すと、常に客の様子をさり気なく目立たぬように窺っているウエイターの一人に合図する。幸いにもそれは半数づつ配置された人間とロボットのウエイターの内、『生の』方で、ウィンがさり気なく左手人差し指で頭をこつこつと叩くと、はっと立ち止り、これもさり気なく頷いた。十秒ほどその状態が続くと、ウエイターは了解の印に深々とお辞儀をして去る。
「ところで、いつ月にいらっしゃったのです?」
ウィンが話し掛けると、物思いに沈んでいたユンファは視線を窓から離して、顔を赤らめる。
「これは失礼致しました。おとといですわ。ガガーリングラードで検疫の足止めをされた後、直ぐに連絡船に乗って。だからまだこれのお世話にならないと、怖くて」
彼女は黒いドレスの腰に装着した無粋な装置に目を落とす。確かにシックな装いが台無しになる。
「全く厄介ですね。仕方がありませんが、私もこうしてご厄介になっていますよ。座る度に腰が浮ついた気分になるなんて、まるで下校直前の学童のようだ」
「それは悪戯っ子だこと」
彼女は笑うとテーブルの上で両手を組み合わせる。
「貴方はいつから?ヴィン」
こちらも呼び捨てとなった。彼は内心ニヤリとしたが顔に出さないよう注意しながら、
「一週間になりますね。あっという間ですよ」
「何か見所はありまして?」
「そうですね―――」
ウィンは自分が見て来たこの1週間の月の様子を、身振り手振りを交えながら話した。最初はガガーリングラードでの月面ジャンプ。観光船に乗って初めて眺めたクレーターの続く風景。20世紀、最初に人類が降り立ち、その人物の名がこうして街の名前となっている着陸地点観光。そこに立ててあった星条旗はレプリカで、本物はノースポールの『カグヤ』、月・自然と歴史博物館にあるという。地球の出は地球と月との自転の関係で月面から観察することは出来ない。観光船から見た地球の出は息を飲むほど美しかった。彼が荒涼とした月面から姿を現せた青い地球のありさまを思い入れたっぷりに話し、ユンファが感心してテーブルに肘を立てて手を握り合わせた時、頭の中に囁かれた。
「お客様、ご用意が出来ました」
「グッドタイミングだ。頼む」
それはマイクロタグと呼ばれる生体送受信機、マイクロチップの魔術。脳幹に埋め込まれたいわゆる電脳体で通信・情報取得などが携帯端末と連動して行なえる。ウエイターは彼からの指示を受け、ある用意をしていたのだ。
ウィンはさり気なく、
「ユンファ、お食事はまだ?」
「ええ、お昼にシリアルバーを齧っただけですわ。そろそろ身体の線も考えないといけない歳になってしまいました」
「それは大変だ。そんなにお美しいのは、やはりご本人の努力あってのことなのですね?」
ユンファはただ美しいだけでなく、何かスポーツかトレーニングを積んでいる。ウィンは最初からそのことに気付いていたが、質問はしなかった。女性の外見を褒める時は抽象的なこと、美しいやら優雅だやらに限る。コンプレックスというものは、他人には美と映る部分に存在することもある。
「努力なんて。皆さんと同じ、ジムとプールで少し汗を流すだけですわ」
それは少しではないだろう。目立ち過ぎないように身体を鍛えている。筋肉や身のこなしを見れば、それが体型維持を目的としないことはプロのウィンには見て取れた。それも格闘や護身の類と見る。暴漢の一人くらいは自分で何とでも出来るほど。そこまで考えたウィンは、その先へ思考が流れるのを意識して止めた。こんなタイミングで野暮の極地だ、と雑念を振り捨てる。
「でも、軽いものならお召し上がりになりますよね?」
「ええ、少しだけ。お食事抜きではさすがにお腹が空いて夜起きてしまいますもの」
「失礼致します。お食事のご用意が出来ました」
先ほどのウエイターが恭しくお辞儀する。
「ああ、失礼しました、お食事を予約されていたのね?今夜は楽しかったわ、ヴィン」
するとウィンはきょとんとして、
「おかしいですね、食事は2人分、会話はまだ途中ですよね?そうだよな、ウエイター君」
「はい。この上階、グランダイニング、地球が見えるお席、お二人様ご用意してございます。メニューは本日シェフお勧めのディナー。本日のアミューズ、アントレは手長海老と帆立貝柱のオマール海老ドレッシング仕立て、スープはカブの冷製ポタージュ、ポアソンはスズキのポアレ・ジンジャー風味のマッシュルームピューレ添え、グラニテはフランボワーズ、ヴィンヤードは鴨胸肉のソテー・茸のアンサンブルトリュフソース、フロマージュに続きましてデセール、カフェ・ウ・テ、となります」
ウエイターはさらりと言ってのける。ユンファは眉を顰めて、
「でも・・・」
「いや、ご一緒させて下さい。どうかお願いです」
ウィンは大胆にも彼女の右手を取って引き寄せ、その甲に唇を当てた。彼女は抗う様子もなく、またそうした紳士に慣れていたものか、堂々と受けたが、答えた声にはまだ戸惑いが残った。
「私、そんなに食べられませんわ」
「一人分は量を半分に、と言っておいただろうか?」
「承ってございます」
もちろん、そんな指示は出していない。こいつ、中々出来る、とウィンは内心笑う。心付けを更に増やさなければならないだろう。
「まあ、全て計算ですのね。貴方の商才が透けて見えましてよ、ヴィン」
「お褒めと承諾の印と承りました、マダム」
ユンファはやれやれと言った様子で小さく吐息を吐くと、
「降参よ、ヴィン。でもフロマージュから先は勘弁してね」
「それは食後のお話も含むのでしょうか?」
ウィンの言葉に含まれた失望を感じたのだろう、彼女は悪戯っぽく瞳を輝かせる。
「それはお食事を頂きながら、考えて置くわ」
ダイニングの雰囲気も食事も申し分なかった。さすが月でも最高級のホテルで、素材は地球からの直送品、チーズもワインもフランス人のウィンですら頷けるものだった。これで先ほどの段取りに要した心付けを含めて、ウィンの少なくはない給料半月分だったが、美女と美酒を前にそんなものは些細なこと。彼は窓の外に下半分を影にして浮かぶ青い星を眺め、また、ワインに顔をほんのりと桜色に染め、彼の話を興味深く聞いている透き通るような白い肌の女性を見て、密かに満足するのだった。
やがて夜も更け、軽い重力のせいばかりでなく足元がおぼつかなくなった頃、席を立った二人は、声を潜めて話しながら客室に向かった。ウィンは時折忍び笑いをする彼女の肩をさり気なく庇いながら歩いていた。
「本当に楽しかった、ありがとう、ヴィン」
「どういたしまして、マダム」
するとユンファは突然思い出したかのように、
「そうだったわ、私、明日からのこと、何にも考えていなかった。ねえ、ヴィン。このホテルのコンシェルジュは有能かしら?」
「有能だろうね、今までのホテルの様子を見れば」
「そう。でも、心配だわ。最初にもっと確実な方に相談しようと思うのだけれど、案内してくれる?」
「お望みとあらば」
ウィンはまるでボーイのように先に立ち、ある部屋まで来るとドアを開け、彼女を先へ、と手を伸べ促す。
「ありがとう、ボーイ長さん」
「どういたしまして」
2人の笑いはドアが断ち切った。