1;月面ジャンプと老嬢
月面・国際協約機構直轄・ガガーリングラード
2374年06月(現在年月)
先ずはマナウス・シャトル発射場から地宙間シャトル便で、静止軌道に乗る国際協約・第2スペースターミナルへ。そこで月とターミナル間を往復する1日5便発着の旅客往還船に乗り換える。ツーリストクラスの狭い個室に丸3日間。船外カメラで常時映し出されている、次第に大きくなって行く月と次第に小さくなって行く地球も見飽きた頃に、漸くランディングダウンの案内が入る。往還船は旅客用エアプレーン型。乗客は地球におけるエアプレーン型の着陸同様、シートで大人しくしているだけであっけなく月に到着した。
ウィンスラブにとって月は初めての経験、否、宇宙へ出たのも初めて、いわゆる『過去人』の彼にとっては痛快な経験になった。
19世紀のフランス。下級貴族の三男として生まれた彼・ウィンは現在年紀10年前、1870年の普仏戦争に騎兵として従軍、プロイセンに包囲されたセダンの戦場で瀕死の重傷を負って見捨てられていたところを突然現れた3人の『未来人』に助けられる。見たことも聞いたこともない奇妙な手当てを受け、注射器と思われるものを腕に刺されるや意識を失う。気付いた時には目の前に女の顔があり、眩しい光に照らされてまだ朦朧としている彼に信じられないことを次々と話した。
曰く、自分が選ばれたこと。ここは未来で24世紀だということ。これから過去の自分に戻るか、未来で過去を守る任務に就くか選ばなくてはならないこと、等等・・・
今や彼の中でも笑い話だが、暫くは宇宙人にでも拉致された悪夢を見ているものと思っていた。それほど彼の知る世界と未来はかけ離れていたのだ。
そのかけ離れた世界にも次第に順応し、3年後にはマシンに乗って過去へ行き、TCと通称される時空犯罪者を追っていた。今やすっかり未来人のウィン。もちろんあの時、申し入れを断って過去に帰ったのなら例え生き残ったとしても、宇宙はおろか空を飛ぶことも出来たかどうか怪しいものだ。
およそ1ヶ月間の休暇を月旅行に充てていた彼は往復6日、検疫と時差など3日を除いた20日間の月滞在を申し込んでいた。忙しい仕事柄、2度とこんな時間は持てないかも知れない。それに最近のゴタゴタに嫌気も差して、文字通り地球を飛び出した訳だ。
月へ向かう旅客往還船での3日間は、何もすることがなく個室や共用スペースをぶらぶらするだけの退屈な時間ではあったが、物珍しさと宇宙空間の神秘に圧倒され、思いのほか早く過ぎた。月へ着いてからは義務付けられている36時間の検疫兼月環境慣習ガイダンスがあり、誰もが例外なく拘束される。
この拍子抜けするような足止めも、ガイダンス中は面白おかしくレクチャーする講師たちの話に興味深く聞き入り、待機時間は北米同盟から来たというブロンドとブルネットの愉快な娘2人組と話が盛り上がって楽しく過ごすことが出来た。
晴れて検疫と環境慣習が終了すると、ウィンは早速観光に出掛けた。不案内な現地で見栄を張るのは止め、案内所の親切な女性が勧める人気の高いガイド付き『初めての月世界ツアー3日間』を申し込む。
ツアー最初の見学地は、彼が降り立った月の玄関と呼ばれる月最大のスペースポートがあるガガーリングラードの体育館。確かに月面では巨大構造物の部類だが、地球では大都市に必ずと言ってよいほど見受けられるアリーナ式競技場に過ぎない。月面の諸コロニーがほとんど地下か半地下式に建設されているため、天井が透明のドーム構造で宇宙が見えるというのは確かに珍しいが、それ以外これと言って見所がありそうに思えない。
可愛らしい女性ガイドが滑らかに説明する。
「この建物はガガーリングラードでも一番大きな建物で、24ある月面拠点でも4番目に大きな建物です。2270年に完成した当時は2番目の大きさでした。建設には当時月面の工場であったブラウンシティの工作機能だけでは間に合わず、地球から輸送船延べ250隻により運び込まれた部材により5年の歳月を掛けて組み立てられました。特に天井の直径20メートルのドームは6メートルの厚さがある強化超クリアカーボン製で、断熱効果も抜群です。万が一割れたとしても瞬時にシャッターが覆い、中には影響が及ばないようになっています」
ガイドの誇らしげな声とは対照的に、彼と50人余りの年齢も所属地域も様々な人々からは、戸惑いと失望の混じったざわめきが漏れる。
すると・・・
「では、皆さん、ここで私のアクロバットをご覧頂きましょう!」
小柄なガイドはそこでいきなりジャンプすると、彼女の身体は壁に向かって地球ではあり得ない『飛行』をし、壁に達すると壁に付いている多数の突起を伝って更に高みを目指す。唖然とする人々の前で彼女は、あれよあれよと言う間に天井のドームに張り巡らされたトラスに乗った。そこから手を振ると降下、アールを描いた壁を伝いながらまるで猿のように身軽にツーリストの前に着地する。誰もが拍手をするのに躊躇しなかった。
「さあ、只今のアクロバットはさすがに皆さんでは直ぐには無理です。とはいえ、私も月に来て2年足らず。短期間でどなたもコツを覚えることが出来ますよ。今日はその第一歩として月面ジャンプを皆さんにお教えしましょう!」
気の早い一人がジャンプするが、地球上と同じで数十センチ飛び上がっただけで落ちる。それも当然、月に慣れていないツーリストらが、天井や壁にぶつからないよう6倍のGが掛かる擬似重力場発生装置が腰についているのだ。
「早速試しましたね?でも、重力発生装置を切らないと出来ません。皆さん、いいですか?良く聞いて下さい。順番に私の前に並んで下さい。まずはこのヘッドギアとプロテクターを着けて頂きます。怪我をしてからでは遅いですからね。その後、私が重力発生装置のプロテクトを外しますから、私の指示を良く聞いて・・・」
地球の6分の1という重力、それだけを取ってみても愉快この上ない。最初に宇宙へ出た人々が必ず行なう儀式、空中浮遊に次いで人気の高い月面でのジャンプ。
スプリングボードの補助で身長の倍ほどの高さまで飛び上がり、羽のように軽く着地する。それが可能なようにわざわざ造られた体育館。今ではお馴染みのムーンバスケットや月オリジナルの球技、ムーンボールの競技場となっている。先ほどガイドが伝った壁の突起やドーム中央のトラス構造はムーンボールで使うものだった。
そのエキサイティングなムーンボール観戦や最初期の月面着陸地点観光、酸素や水を月の砂レゴリスから取り出す工場や農場、太陽光発電所など月面活動維持に欠かせない諸施設の見学、連絡船に乗って体験する月の裏観光や地球の出鑑賞など、3日間は盛り沢山の内容で、あまり期待していなかったウィンも大満足だった。
月観光の後は、月のニューヨークと呼ばれる最大のコロニー『アルテミス』を訪れる。定住人口1万1千。月の総人口5分の一を占め、形骸化した国連に代わり地域間の友好と世界規模の諸問題を扱う国際協約機構の月政府本部や行政機関も集中していた。正に月の『首都』である。
ウィンは社交とはいえ、まずはやらねばならないことをする。自分の『会社』の『支部』に顔を出すと言う、あまり気の乗らない儀式だった。
その支部は国際協約機関の出先事務所が集められた合同庁舎の一角にあった。庁舎といっても月のこと、ドーム型のポッドを放射状に組み合わせ、半地下式に設置された何の特徴もない建物だった。その中でも小さい部類と思われる部屋にそれはある。ウィンがスライドドアを潜ると直ぐに壁で、4つの銘板がこの狭い部屋を4つの国際協約機関が共用していることを示していた。曰く、国際警察機構、国際検察庁、国際司法裁判所、そして時空保安庁。彼は壁の自分の組織を記した銘板の下に三次元動画で浮かび上がるボタンを押す。
「はい、何でしょう?」
ホログラムは変化して、制服を着た痩せた中年女性の姿を表す。
「私はピエール・ド・ウィンスラブと申します。地球から5日前にやって参りました。ケリガン駐在官はいらっしゃいますか?」
「申し訳ありません、彼は今外出しております。お約束でしたでしょうか?」
「いえ、アポイントメントは取っておりませんでした。突然押しかけた私が悪いのです」
「分かりました、暫くお待ち下さい」
女性が消えると、「暫くお待ち下さい」の文字と丸い月の偽像がゆっくり回転しながら現れる。ウィンが月の立体地図を眺めていると、壁の一部が消失して、そこに先ほどの女性が現れた。もちろん、この壁は単なる偽像で狭い部屋の目隠しになっている。
「ウィンスラブさん?」
「はい」
「ようこそ月へ。私はミッチェルと申します。御用を受け賜りましょう」
「いえ、ただ月に来たのでご挨拶と思いまして。私はTP作戦部で働いております、ウィンスラブ中尉5184352です」
「まあ。それはご丁寧にありがとうございます。ケリガン中佐は『アポロイレブン』へ行ってますわ。ここから200キロほど北の町ですけれど、生憎夕方までは戻りません。わざわざお越し頂いたのに、ここの事務所の他の人員は私ともう一人の秘書官だけですから、何もして差し上げられなくて。何かお困りなことでもありまして?彼に連絡をとりましょうか?」
19世紀のウィンなら老嬢と呼んだであろうミッチェル女史が探るように上目遣いをしたので、ウィンは慌てて、
「いえ、大丈夫です、本当にご挨拶に伺ったまでで」
すると老嬢は品定めをする目付きで、
「ごはんはちゃんと食べてます?月は地上と違って食べ物が美味しくないから・・・」
「ああ、いえ、そんなことはございませんよ、美味しく頂いています」
「そぅお?ならよろしいけれど・・・最近はそんなことは少なくなったんですけれどね、3年前に連絡船が隕石群に突っ込んで遭難した事件の時は2週間も食料の供給が途絶えてしまって、それは大変だったんですよ。毎日毎日、国際協約駐屯軍放出の備蓄食料を出されて、あの口糧とかいうものですよ?ああ、あなたは作戦部の方だから知ってますわよね、あれは私のような女には・・・ああ、こんなところで立ち話も何ね、失礼しました、どうぞこちらへ」
嫌な予感のウィンは慌てて、
「いえ、お忙しい職務の最中です、私はこれで」
「そんな、お気になさらず、いえ、今日はさほど忙しくないのですよ、ケリガンもいないし、ルーシーはお休み、ウィンさん、ぜひ地球の話を聞かせてくださいな。どうぞ寄っていらして―――」
ウィンが、ケリガン中佐によろしくお伝え下さい、と早口で言い、放々の体で連絡事務所を後にしたのは一時間も後の事だった。TC・時空犯罪者が月へ逃亡する可能性はゼロとはいえず、また、今のところ月にマシンを持ち込む輩は登場していないものの、万が一を考えて開設された支部だった。そんな希薄な開設理由。たった3名の人員。駐在官のケリガンは情報部所属だが何かドジをして飛ばされた、とも聞かされていた。つまり、月支部は他の国際協約機関が事務所を出しているからウチも、とTP・時空保安庁が権利を主張し見栄を張った結果に過ぎない。なるほど、いかにも噂好き・世話好きなミッチェル女史が退屈するはずである。




