水飛沫の記憶 ボクと純也と智彦の「少年」時代
水面に影が映っている。ボクの影だ。ボクは橋の上から川の流れを見つめている。
町役場の背後にある鬱蒼とした木々からは、蝉の声が絶える事なく聞こえている。頬を撫でる風は、早朝の涼しさを未だ残している。澄み切った爽やかな風だ。
ボクがいる橋から水面までは、ちょっと恐怖を感じるくらいの高さがある。見下ろすだけでも勇気がいる程度の高さ。
そんな水面を眺めながら、一学期最後の日に担任が話していた言葉を、ボクは思い出していた。
「最後に君たちにひとつだけ言っておきたいことがある。君たちも知っていると思うが、この学校には『度胸試し』という風習がある。役場前にある橋から川に飛び降りるやつだ。
昔から中学二年の夏休みに、この学校の男子のあいだで行われて来た風習なのだが、数年前から学校で禁止している。危険なのでこのクラスの男子は絶対に行わない事。やった者は二学期最初に親を呼び出すからな。覚えておく様に」
脅かしているつもりなんだろうが、ボクには通用しない。ボクには……残念ながら。
朝の日差しが肌に突き刺さる。蝉の声は、相変わらず青空を切り裂く様に響き続けている。
数年前までこの町では、この『度胸試し』を行って、初めて一人前の男として認められてきた。けれども、それは昔の話。
ボクが今、この橋から川へ飛び込んだところで、誰からも褒めてなんてもらえない。
けれど、ボクは賞賛の言葉が欲しい訳ではない。ひとつの区切りとして『度胸試し』を行いたいだけだ。
雲の影が、ゆっくりと川を横切るように通り過ぎてゆく。夏の香りを含んだ風が、ふわりと一瞬ボクの側を通り過ぎる。
「おーい。薫、本当にやるのかよ」
幼なじみで親友の純也がやってきた。水面を覗いていたボクは、ちらりと純也を見て頷いた。
少し遅れて智彦が来た。
「お前なんかにできるわけないだろ? 情けない所を見届けてやるよ」
相変わらず癇に障るやつだ。こいつにボクが飛び降りるところを見せつけてやりたかった。
川を見つめていたボクは、振り返って二人の顔を見た。
子供の頃からいつも一緒に遊んできた二人。
「二人にはボクの『度胸試し』を見届けて欲しい。それから、この儀式の後にボクは変わってしまうと思うけれど、今のボクをずっと覚えていて欲しい」
そう言うとボクは橋の手すりに立ち、大きく深呼吸をした。二人の気配を背中に感じながら。
そして……斜め上を見つめると、青空に向かって勢い良く飛び込んだ。
身体が一瞬、空中で静止した。視界は空で一杯になった。
その後、遠くに見えていた川の流れが、ぐんぐんとボクに向かって近づいてきた。
そのあとすぐに聞こえてきたのは水飛沫の音。そして、ごぼごぼという水の音。
両手で大きく川の水を押しのける。水面から顔を出す。冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。『度胸試し』をやりとげた実感が込み上げてくる。
川を泳いで岸に到着したボクは、大きな岩の上で一息ついていた。
「よくやったな。見届けたよ」
純也はいつもの優しそうな笑顔で、ボクにタオルを渡してくれた。
「本当にやるとは思わなかったよ。その……がんばったな」
智彦もボクを認めてくれたようだ。
『度胸試し』に立ち会ってくれた親友たちに感謝をしながら、ボクはそっと自分の胸に手を当てた。最近、少しだけ膨らんできた胸に。
そして、沈黙のまま目を伏せた。
男とか、女とか、そんな事は全く気にせずに野山を駆け回っていた子供時代は、もう二度と戻らない。
けれども、これで思い残す事は何も無い。
今日を境に髪を伸ばそうと思った。自分のことも『わたし』と呼ぼうと。……クラスの、他の女子と同じ様に。
ボクは顔を上げた。そして、二人の親友にとびきりの笑顔を見せた。一見少年のような、ボクの最後の笑顔を。




