4.深紅の呪詛
物語は収束します。
――終焉は目前
――愚かな男はその手を紅に染めた
「残るは僕一人」
彼は正気と狂気の狭間をさまよいながら彼はただ呟く。
歌がもたらす殺意に誘われるままに残りの村人のところを訪れたものの全員が死に絶えていた。
全てが死に絶えたことを認識した今やっと彼の頭に思考が戻りつつあった。
ジャンの死
セシルの死
その二人の被害者が加害者である彼をすべての真実へ誘う。
二つ……二つあったんだ。
二つの原因が自分たちを死に追いやった。
そして今、一人残ったアレクはもう殺意を向ける相手はいない。
さらに彼の心臓は爆ぜることなくまだ脈を打っている。
「戻ってこいと言うことか……」
それは殺されに来いと同義であることを彼は悟った。
ぼんやりと歩きつつ彼はただ思う。
親しいものはみんな死に、友を殺してしまった今、生きている意味なぞない。
今度こそ彼女に殺されよう。
死がとても甘美に感じられた。
湖までの道のりは遠い。
だが夜明けにはたどり着けるだろう。
――同刻
星明りを僅かに照り返す湖面に影が佇んでいた。
あの日、アレクと対峙した時から再び彼女はその姿を変じていた。
身に纏う色はなお赤く、むしろ黒に近い色に変じ、さらにその肌の表面には紅い文様が覆っている。
星空にかざした手の平をじっと見つめる。
「我が本質。それは湖」
不意に彼女は呟く。
刹那星空にかざした掌が色を失い形を崩し水となり、湖と同化する。
次の瞬間にまたそれは元に戻るが新たに紅い文様が現れていた。
それを見つめる彼女の眼は実に複雑だ。
自らの胸に短剣を突き立て湖に身を投げた彼女。
水に落ちた瞬間、一部の血液を除き身に纏う者も含めてすべて水になった。
彼女は落ちながらも小さく契約の呪を紡いでいたのだ。
その呪法はごくごく単純が故に凶悪。
――湖よ。全てを捧げる代償に我に復讐の刃を。
契約の相手は湖の主。
彼女は湖の意思の僕となることを約束し、復讐の刃を手に入れた。
この湖に宿るのが何なのかわからない。だがこうして契約に成功したからには何かがいるのだろう。
そう、湖の水は彼女そのもの。
身体の内に侵入し、内より破壊すれば殺すなどたやすい。
そう、たとえば彼女の死を残りの者に連想させるために血を操り心臓を爆ぜさせるようにだ。
彼らが彼女の死のあと一年の間平穏に生きることができたのは……単純なことだ。
彼女が同化した湖の水が彼らの身体に浸透するのを待っていただけなのだ。
彼女の遺骸が見つからない状況でも彼等は水を必要とするため湖の水を汲まざるを得ない。
すなわち唯一人も生かさぬための布石。
「悪魔という存在は知らないけれど。水と契約した私も魔女と言うんだろうか」
生と死の狭間で交わされた契約。
生きている間は確かに彼女は只人であろうとした。
だが今は……
「否定のしようがない」
彼女の喉から笑い声が漏れる。
それは狂気なぞ一片も感じさせない自嘲を含むもの。
狂うことすら許されぬ。それが今の彼女の境遇。
「……母さん」
星を見上げて呟く。
自分の死のあとまで続く未来を見る、シレーヌの故郷の村で信仰される水を信奉する宗教の祭司であり魔術師だった母。
呪法は母によって授けられた。
母は彼女に多くの歌を教え愛情を注ぎ彼女を育てたが決して魔術に対する知識は授けなかった。
彼女がたった一つ教わった最初で最後の魔術、それがこの呪法だった。
「貴女が見た私の運命。その結末はこのままなら二つと貴女は言った」
星空を映す不思議な光を宿した瞳が悲しげに歪められる。
魔女として処刑されるか。
その辱めを受ける前に自ら死すか。
そしてそれに共通する恋人からの裏切りを受けるという前提。
自分の娘がそんな絶望を味わい、ただ無力に集団の狂気に命を散らされるのが耐えられなかった。
だから……
――もし、どうしても許せないのなら……私の教えた呪法を使いなさい。
この呪法は相手を呪うのではない。自分に呪いをかけ人ならぬものとするおぞましいもの。
そう、ヘカテは忠告とともに彼女に呪法を教えた。
「復讐の道を選んだ私は間違っていたんでしょうか? 」
彼女は静かに問う。
それは呪法を伝えたのち彼女を故郷から追い出し、その数日後に国教会に異端審問を受け火刑に処されたヘカテへの問いか。
各地を放浪しつつ記憶の中に残る母の見よう見まねで薬を調合する術を学び、やがて辿り着いたどこか故郷を思わせるこの湖に宿るものの意思か。
「だけど許すことなぞ考えられなかった」
彼女は泣いていた。
本来ならそのことさえ許されないはずであったが……水の意思は許してくれているようだ。
彼女は水面からその身を起こす。
星空を映した湖面がその動きに従い、水につかっていた部分の彼女の体を再生した。
「だけれど……」
湖の上に立ち上がった状態のままゆっくりと湖面を滑るように移動する。
目指す先を静かに見据えながら彼女は呟き続ける。
その声には苦々しいものが混ざる。
本来ならここまで加速することはなかった。
復讐の刃を得たにしても彼女は所詮契約した一度にすべての人間は殺せない。
「本当に、想定外だった」
「……私の歌が村人を狂わせ殺し合わせるなんて」
故郷を追われた時に本来の名を捨て、新たに名乗ったシレーヌ(海の魔女)の名の通りにその歌が魔力を宿すなんて。あの歌は只、彼らへの恨みを籠めて歌ったただの歌のはずであった。しかしそれは彼らの心の中に抱いていた彼女への罪悪感を激しく揺さぶり、それは村人たちを互いに殺し合わせることとなった。彼女の使った呪法はそんな効果を持たない。
その時彼女の脳裏に自らの歌った呪詛の歌が不意に流れる。
……ああ、そういうことだったのか。
「アレクへの想い、か」
歌の意味は全てアレクに対して謳われたもの。
彼が忘れるのを恐れていたわけか。
死によって歪んでしまった愛ともいえる感情が……
結局は心の中にしこりを抱いていた村人たちの心に眠る狂気を、呼びさまされたというわけだ。
愛という深紅が生み出した呪詛。
アレクを愛していた、裏切られても、殺すことには禁忌を覚えずともその気持ちは消すことができなかったのだ。
「自分で自分の復讐の機会を奪い取るなんて飛んだ笑い草ね」
自らを嘲るように、くすくすと笑う。
その顔には特にその結果を悔やむ様子はなかった。
「どちらにしろもうすぐ満願」
怨嗟が彼女にまとわりつき、銀の髪を纏う服を血の色に変え、肌に紅い文様を刻む。
全ての人間が死に絶え復讐を果たしたのなら紅はすべて消え、彼女はただの湖の水となる。
彼女の魂はどこへ行くこともできずただ湖の意思のそばで自由なき僕としてたゆたう。
「死後の安息すらないけれど……後悔はしていない」
その時ゆっくりと東の空が白み始める。
「朝だ」
東の空が曙に染められるその景色を美しいと思うのもあと少し。
静かに口を開き歌を紡ぐ。
そう、もうすぐ全てが終わる。
彼女はアレクが近づいてくる気配を察していた。
アレクはただ森を行く。
裁きを受けるために……全てを終わらせるために。
そして太陽が東の空に姿を現した頃に彼は森の中を歩いていた。
その精神はほとんど正常に戻ってきているが、その目の色は淀み半死人を思わせる。
ただ彼は向かう。
目的地はただ一つ。
彼女に出会い。
彼女と語らい。
彼女を裏切り。
彼女が死んだ――あの場所。
そこで彼女が待っていることを彼は確信していた。
かすかであるが歌が聞こえる。
あの呪詛の歌ではない懐かしい歌。
二人が出会った時も森の中で歌を聞いたっけ。
内心呟き誘われるように彼は駆ける。
身体は夜通し駆けたせいでボロボロだが気にならない様子であった。
やがて彼の視界は急に開ける。
「おかえりなさい。アレク」
湖の縁にシレーヌは佇んでいた。
あの日であった時よりさらに禍々しい姿となっていたが、アレクはそれに驚く様子はなかった。
「ただいま。シレーヌ」
そう言って彼は彼女に向かってゆっくりと歩み寄る。
「皆は死んだよ」
「わかっているわ」
あと一歩という距離を置いて二人は向かい合う。
アレクは村の人間の全滅を告げ、シレーヌはただ頷く。
その赤を通り越して黒に近くなった髪が風に揺れる。
「結局僕等は君の手が伸びる前に勝手に死んで言ったんだよな」
「そうよ、本当に馬鹿馬鹿しいことに」
アレクも自分がその状態に陥って真相に気がついていた。何故セシルがあの死に方をしたのかはシレーヌがやったのだろうということしかわからなかったのだが、もう一つの方ははっきりとわかった。
シレーヌはただ肩をすくめ自嘲気味に笑う。
本当に笑うしかなかった。勝手に自滅するのならわざわざ何もかもを打ち捨てる必要なぞなかった。その様子は姿を除けば生きていたころと変わらない彼女にアレクはわずかに微笑む。
「君は今でも復讐を肯定するか? 」
あの時とは逆に彼の方から問いかける。
「ええ肯定するわ。確かに馬鹿馬鹿しいけど、自分の選んだ道を否定すると村の人達にも申し訳がたたないわ」
あれだけ殺して死なせておいて結果次第で意見を変えるなぞそちらの方が愚かだ。
物語などではそういうこともありがちだが彼女はそうすることなぞ望んではいない。
「それもそうだな」
「貴方は今はどう思うの? 」
返された問いに対しアレクは自嘲気味に笑う。
「そりゃ復讐自体は愚かだし許せないさ。ジャンもセシルも死んでしまったしな……だが完全には否定しない」
「どっちつかずな意見ね」
その様子にシレーヌも貴方らしいわ、とくすくすと笑う。
「レウケよ」
「ん? 」
「私の本当の名前よ」
そして今、彼女に残されたただ一つの名前。
シレーヌという名は契約の中で消し去られた。
彼女の声は次第に冷たく殺気をはらんだものに変わる。
「貴方に最後に問う」
――今の私はかつての私であって私ではない。正直貴方のことなんて満願のための最後の一ピース程度にしか思っていない。
――あの時生かしたのもただもっと苦しんだ方が面白いと思っただけ
全てを終わらせた今、貴方を生かすつもりは毛頭ない。
「最後に言い残すことは? 」
朝日を背に告げる彼女は目には復讐者としてというより断罪者としての冷たい光が宿っていた。その右腕がゆっくりと彼の胸を指さす。
彼はその様子に息をのむ。
僅かな死への恐怖とともにこれで楽になれるという安心感が彼の脳裏をよぎった。
どう動こうと死は免れない。ならばせめて……
「無いの? 」
彼女の言葉が合図となった。
彼はなにも言わずただ彼女を抱きしめた。
「本当にごめん。大好きだ」
最後に呟いたのは謝罪の言葉。
結局のところ彼はただそれだけが言いたかったのかもしれない。
「そう……」
シレーヌは彼の胸に顔を預けつつその紅い唇を笑みの形に歪ませ、彼に向かって手を伸ばす。
懐かしさと愛しさと憎悪とそして殺意を込めた腕を。
読んでいただきありがとうございます。全く救いのない展開ですが、残すは一話のみ。一応シレーヌと言う名はセイレーンのフランス語です。レウケと言う名はギリシャ語で白い、神話上は海の精の一人であり、エシュリオンに生えるといわれる白いポプラの名前。シレーヌの母親の名前は同じくギリシャ神話の魔術の女神であり、中世の魔女に進行されたと言うヘカテからとってあります(これも語源は水神から来ているようです)……何かギリシャ神話がかなり混ざってますが一応架空の欧州です。御意見御感想お待ちしています。