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2.唄う闇

ここから本編です。残酷描写があるので注意してください。

――舞台は欧州。

――時代は中世という区分に属する以外は全くの不明。



夜の闇に歌が響く。


『眠れる水底 私はただあなたを待っていた

 泡沫の記憶 あなたはいずれ私を忘れる

 私を葬りし正義 それは一時の狂気にすぎない

 だから……

 すべてを捧げ 深紅の両腕を得ましょう

 纏いしおぞましき穢れ 纏いて真紅となしましょう

 言祝ぎの歌を呪詛の歌に変えましょう

 そして私は貴方のもとへ馳せ参ず……』


美しい歌だった。しかし、子守唄のような旋律は心の中の触れられたくない部分を抉り出すようなものであり、人を不安にさせるものであった。

その詩は隠しきれぬ怨嗟をしかと抱いていた。

歌を裂くように断末魔の悲鳴が響き、まるで霧が立ち込めるように血の匂いが充満していく。

何が起きているのかは誰にもわからなかった。

唯一つ、このままでは自分達もその死に絡めとられるということだけは分かった。


そんな死と絶望に満ちた村の中心部、教会。

扉の開け放たれた入口にその男は呆然と佇んでいた。

年のころは二十前後だろうか。金色の髪に、紫色の目。この地方では珍しくないごく平凡な男であるが、中性的な顔立ち他人に頼りない印象を抱かせる。


この状況で彼がここにいる理由はただ一つ。

おそらくは教会なら安全なはずと駆け込んだのだろう。

しかし、男の表情には安堵の表情は一片もない。

むしろ恐怖の表情が張り付いていた

彼は護身用であろうか、短剣とロザリオが握りしめていた。

しかしそれがこの状況に置いて望まれる役割を果たせるかといえば答えは否。

それどころか彼の小刻みに震える指は今にもそれを取り落としそうである。


ただそれが彼の手の中にある理由はただ一つ。

今、目の前にしている光景によって崩されそうな精神の均衡を保つためである。


彼の前に広がる光景は神秘的でありかつ凄惨であり、同時に絶望的であった。

ステンドグラスから射す月光に浮かび上がる、天使の翼のように壁に飛散するは鮮血か。

その持ち主、この教会の主である司祭は説教壇にもたれかかるようにこと切れていた。

男は激しい嫌悪感を覚えるが視線を逸らさない。

いや、男の視線は深紅の翼の真下、物言わぬ骸の向こう側に佇む影に集中していた。


燐光を纏うその人影は壁に架かった十字架を静かに見あげていた。

状況を鑑みればその影がこの殺人を犯したことは明白である。


女であることはわかる。

しかし、纏う気配は今にも彼を押しつぶしそうで。

…………その人影は紅かった。

長く癖のない髪も風もないのにゆらゆら揺れるワンピースも。

まるで血で染めたように。壁に描かれた翼はまるで影から生えているように彼に錯覚させた。そんな影をしばし見つめる彼はやがて何かを悟る。

その目はみるみる大きく見開かれ、瞳孔が収縮した。


「……まさか」

影に存在を気づかれるのはあまりに危険。

しかし、思わず声を漏らしてしまっていた。

そうせざるを得なかったのだ。

色彩を除いたその後ろ姿にはあまりに、あまりに見覚えがあったのだ。


「貴方は復讐が間違っていると思うかしら」

振り向くことなくその影は問う。瞬間、男の手の中にあったロザリオが粉々に砕け散り、床にバラバラと音を立てて散乱した。

ガラスを打ち合わせるような澄んだ声は間違いなく村に響く歌と同一の声。

その声と言葉は男の中のある記憶を強制的に引きずり出していた。


……ああ、シレーヌ

……やはり君なのか










――いつの頃だったか。


夕日に染まりつつある湖の畔、ちょうど崖のようになったところに女が佇んでいた。

年の頃は二十歳前くらいだろうか。よく手入れされた長い銀髪を風になびかせ目を閉じて歌っていた。

それは彼女曰くとてもとても古い歌。

異国の言葉で紡がれる幾つもの歌。

澄んだ声が滑らかにそれを歌い上げ、その古さと言葉の違いすらも乗り越える。そんな歌に男は女の背後の橙に染まりつつある湖面を見つめながら聴き惚れていた。




二人が出会ったのもここであった。

その日、日暮れ前に水が必要になった彼は小さな水甕を手に森を歩いていた男は歌を聞いた。誘われるように歌の聞こえる場所に向かった先にいたのが女であった。ただ初めは興味から声をかけただけであった。

『おや、人に見られるとは不覚』

『す、済まない。あまりに綺麗な歌だったんで』

『お世辞を言っても何も出ないわ』

日々畑を耕し、時に街に湖の水を売りに行く平凡な村人であった男。

いつの間にか村の外れに住み始め、村人に森の薬草や調合した薬を売って生活していた彼女。接点のなかった二人にその時初めて接点が生まれた。

『君の名前は……? 』

彼は問うた。

『あなたが名乗るべきではない? 』

名乗らずに問い返す彼女の髪が夕日に紅く輝く。

『アレクだ』

『いい名前ね』

『私は……そうね、今はシレーヌって名乗っているわ』

こうして二人は出会った。

初めは彼が勝手に彼女の元を訪ねてきては彼女が半ばあきれた様子でしょうがなく会話するというものだった。しかし、いつの間にか夕暮れにこうして二人で会うことが日課となっていた。彼女の態度も次第に丸くなっていき、笑みを浮かべることが多くなった。

お互い惹かれあっていたことは間違いない。


彼、アレクがそう思ったときに歌が途切れた。

ゆっくり彼女、シレーヌは目を開け、振り返る。

湖によく似た翠色の目が湖面に照り返された日の光に煌めいた。




『ねえ、アレク。あなたは復讐についてどう思う? 』

彼の惜しみない拍手に優雅に一礼し、側に腰を下ろした彼女は不意にそんなことを問うた。

『シレーヌ、珍しく君から話しかけたと思ったらまた随分と物騒な問いだね』

突然のいつもの彼女らしからぬその問いに、アレクは思わずシレーヌの顔を覗き込む。

『そうかしら。で、あなたは復讐することをどう思う? 』

桃色の唇を歪めてくすりと笑いながら彼女は身を乗り出してさらに問う。

彼女の顔を覗き込んだ彼と身を乗り出した彼女の鼻先が触れ合い、彼は思わず身を引いた。

『復讐、か……』

一瞬かき乱された気持ちを落ち着けんとその問いを反復しつつ吟味する。

復讐、仇討ち、己の受けた屈辱を晴らさんがための行為。それは古来より行われてきたが同時に正当化できぬものであった。

『君が復讐の正当性を問うているのなら、復讐は正当性を持たない愚かな行為だと思うよ』

俯いていた顔を上げ、彼は諭すように彼女にはっきりと告げる。

復讐は復讐を生む。

『そう……やっぱりそれがあたりまえね』

彼女はそう言って彼に同意しつつも、睨みつけるように湖面を見ていた。

背中の中ほどの長さの銀髪は風に揺れ彼女の表情を彼から隠してしまう。

『だけど……』

否定の言葉を一瞬だ紡ごうとしたが左右に首を振り呟く。

『ただ、あなたに聞いてみたかった。それだけ』

ほんの一瞬横顔に浮かんだ笑顔はどこか悲しげだった。


思えば、あの時すでにシレーヌは己の運命を予見していたのかもしれない。

そう、アレクが彼女に対して裏切りを働くことさえも。





「僕は……」

影の問いにアレクは俯いて返答に窮する。

「確かに復讐とは救い難い愚行。それは私にもわかっていたわ」

答えられぬことなぞわかっていたかのように影は投げやりな様子で答える。彼の記憶の中、かつては銀色でありそして今は深紅の髪が揺れた。

復讐とは誰かのために遂行するように見えて、所詮は己の心の安寧のため、それは影も知っているようであった。


影は、だけど、と言って再び話し始める。

「命すら失った私にはそれしかなかった」

「それでも貴方は復讐は間違っているといえる? アレク」

それはその影がシレーヌであることを完全に結びつける言葉であった。

しかし影はまるで他人事のように語った。かつての自分と今の自分がまったく別のものであるかのように。

「分からない」

アレクはそう言って首を振る。自分ではそのことに関して何も言えなかった。いや、仮に答えを導き出せても彼は何も言えなかっただろう。シレーヌにした仕打ちを考えれば言う資格なぞないのだから。

「でしょうね。いまさら肯定の言葉は求めない」

諦めたような未だ何かを期待する己に呆れたような様子でシレーヌは呟く。

その言葉にアレクは目を細め、しばし迷うがついに決心したように口を開く。

「……君は……シレーヌなのか? 」

纏う気配、そして言葉を紡いでいるにもかかわらず未だやまぬ歌声。鮮血で染め上げたような禍々しい紅。明らかに人でないのはわかっていた。逃げられるかわからないが踵を返しとっとと逃げることが賢明だとわかっていた。


シレーヌであっても、かつての彼女ではないことは明白。

それが限りなく危険な存在であることも。


しかし……問わずにはおれなかった。


不意に歌が止み教会の中を静寂が包んだ。

影はゆっくりと振り向く。紅い髪は絹糸のようにその動きを追い、ふわりと血の匂いが漂う。その顔は決して忘れぬことのできない、かつての恋人シレーヌと同一のものであった。

「久しぶりね」

生前から湖の色によく似た、今や極小の湖を閉じ込めたような印象を与える瞳を僅かに笑みの形に歪める。

「本当……あの時振り」


そう言ってにいっと笑うシレーヌの顔はどこか悲しげだった。







――そう、一年ほど前、シレーヌが死んだあの時から。



「シレーヌ、お前が魔女であるという告発を村人から受けた」

いつものように一心不乱に歌う彼女に向って司祭は静かに告げた


「何故」

彼女は振り向かず問うが誰も答えない。

その答えはあまりに明白すぎるからだ。彼女が村の中であまりに異端であるから、広がりつつあった魔女狩りの炎に乗じて災厄を撒く魔女と告発しただけである。

彼女の前にもすでに二人ほど異端審問にかけられ、炎に焼かれた。



「答える必要がない、か」

諦めたように呟き振り向いたその表情は、喜怒哀楽を欠片の感じさせない無機質なものであった。

不意に風が吹き彼女の髪と身にまとった白いワンピースが風に舞う。

背後には湖。

習慣的に訪れ歌を歌っていた場所にシレーヌは追い詰められていた。


彼女は正直はじめはアレクの存在を疎ましく思っていたが、いつの間にか彼が来るのを心待ちにする自分に気が付いていた。

交わす言葉は実にそっけないものであったのだが彼女の感情は確実に変化していた。

故郷を失ってから他人に特別な感情を抱くことがなかったのだが、抱いたこの思いは恋心というものなのだろうか。

時々一人でいる時にそのような思いを抱くこともあった。


しかしその日は日の高いうちからこの場所で彼を待っていた。

よぎる不安をかき消すかのようにただ歌い続け彼を待ち続けた。

湖が来訪者を告げる。


アレクは確かに来た。

しかし、決して友好的でない様子の村人たちを伴っていた。


「アレク」

複雑な表情で群衆に交じって彼女を見つめるアレクに、何かの期待を込めるかのように呼びかける。アレクはびくりと肩を震わせるが隣の男、村長に促され村人たちをかき分け司祭の隣まで来る。そして困惑したように一瞬視線を泳がせるが決心したようにシレーヌに手を差し出した。

「シレーヌ、こっちへ」


「あなたは私を魔女だと思っているわけないわよね? 」

「……それは」

返答は実に歯切れが悪いもの。

その言葉にシレーヌはその手を振り払う。

アレクは振り払われた手を見つめ動揺し、対照的にこれを予見していたかのようにシレーヌの様子は実に落ち着いていた。シレーヌはわかっていた。自分の居場所を教えたのはアレクで、すなわち、彼もこの蛮行に加担していることを。


「信じていたのに」

シレーヌは腕を後ろで組み何も履かぬ細い足で草を踏みしめつつ湖の縁まで後ずさるように歩を進め、足を止める。

湖面までの距離は崖と言っても差支えなく、パラパラと赤みを帯びた土が湖に零れ落ち僅かな波紋を生んだ。




ほんの少し後ろに下がれば湖に向かって落下する位置。

そこまで来て無機質な表情を笑みに変え、ゆっくりと後ろで組んでいた腕を解く。

「お前何を! 」

司祭がその手に握られたものを見て驚愕の声を上げる。

左手に握られていたのは短剣。それを緩く握りしめながらシレーヌは口の端を一層吊り上げ、ゆっくりと短剣を逆手に握り、胸の前に持っていく。

そして彼らから視線をそらすことなく一気に短剣を突き込んだ。

鈍い音が響き白いドレスに紅い染みが広がり、彼女の身体から力が抜ける。

重力に従うまま湖の方に倒れ込みつつもシレーヌの口がゆっくりと開かれた。



『さようなら――――愚者共よ』


一瞬にして彼女の姿が消失しそして下方にて聞こえる水音。

「シレーヌ! 」

我に返った彼は崖の縁に駆け寄る。

覗き込んだ先の湖面には血の紅い華が咲いていた。


――しかし

亡骸は澄み渡った湖のどこにも見当たらなかった。


助かる傷ではないはずであった。

たとえ亡骸が上がらずとも、水面に咲いた血の華を見れば子供でも分かる。

彼は彼女を裏切って生き、彼女は彼に裏切られて死んだ。

それは確かにアレクの心の中に深い闇を残した。

しかし、それはシレーヌが死んで一年の間に薄れていき、長い時を経れば、その闇も晴れるはずであった。



――しかし、現に今、彼と彼女は対峙していた。


「村の皆を殺したのは君なのか? 」

外で見たかつて親しかった者たち。その遺体はすべて確認したわけではないが胸を程度の差はあれ損傷していた。胸に短剣を突き刺した彼女の死にその姿が重ならないわけがなかった。

初めは歌声であった。

シレーヌの命日を境に歌声を聴いたというものが現れ、そして数日後湖に村人が浮かんだことを皮切りに、湖の近くから村へ少しずつ近づくように立て続けに人が死んだ。

そして今日――

先ほど見た光景に吐き気を覚えるが、すでに胃の中のものはすべて吐いてしまい、喉の奥に酸味を感じただけだった。

「貴方が殺したと思えばそうなんでしょうね」

「僕も……殺すのか」

不思議と怖くなかった。

シレーヌが死んだとき、もし彼女をかばえばお前も異端審問にかけるといわれた時、そして先ほどの惨劇を目にした時の死にたくない、という感情はもうすでにそこになかった。

むしろ、かつて愛した彼女に殺されるのなら本望だとさえ思った。


「……そうね。一番憎いのは貴方だもの」

殺意を纏いシレーヌはゆらゆらと彼に歩み寄る。その声はどこか悲しげであった。

「本当はこんな結末を望んでいなかった」

言った瞬間彼女の眼から涙が零れ落ちる。


初めからわかっていた運命。定めが変わることを切に祈りながら、最後の瞬間までアレクを信じた。しかし、それは彼の言葉によって裏切られた。

「許せなかったのよ」

ただ彼に裏切られたまま、そして魔女として死にすべてが終わることを。

一人だけ絶望を抱えて死ぬことを。

だから……魔女として戻ってきた。


諦めたように双眸を閉じたアレクにゆっくりと手を伸ばす。

「私に許しは存在しない……」



彼に触れる寸前呟き、それと同時に彼の意識は闇に沈んだ。




読んでいただきありがとうございます。本来短編として書いたのでいきなり動きます。自分のネーミングセンスのなさがほとほと嫌になる……御意見御感想お待ちしています。

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