07.人間じゃない
ディーとクラウを引き連れて、音楽堂に行った日の翌日。
学校帰りのアイリスは、友人たちの質問攻めにあっていた。
「男の人と一緒に音楽堂に行ったって本当?」
「まぁね」
「パン屋さんに来た新しい店員さんなんでしょ?」
「うん」
「このバウムクーヘンを二人で食べたって話は?」
「そんなこともあったかな」
行きつけのケーキ屋で、バウムクーヘンをほおばりながら、適当に友達をあしらう。笑顔で同じものを口に運ぶミーナを睨んではみたが、まったくこたえていないようだ。
明日から学校は長期休みに入り、寮住まいの友人も実家に帰る者が大半である。休み前の娯楽にはうってつけなのだろう。
はぁ、とため息をついて、アイリスはディーと出会った時のことを思い出す。
図体のデカい男があっさり巾着をすられるところを目撃したのは、単なる偶然だったのだが。
あれよあれよという間に、彼はアイリスにとって何かと世話を焼く存在になりつつある。
財布を盗まれるわ街を歩けばキョロキョロするわで、田舎から出てきたお上りさんかと思えば、手のひらにはマメの一つもなし。
読み書きが出来て、肉体労働の経験がないならば、どこぞのお貴族様とも思ったが――
「貴族のお坊ちゃんって『人間らしさを教えて』なんて言うのかなぁ」
アイリスはバームクーヘンをほおばり、カップを口に運ぶミーナに話を振った。彼女も貴族のご令嬢だからだ。
「人間らしさ、ですって? 不思議な質問ですわね。少なくとも、わたくしはしたことありません」
「でしょう?」
そして、挙げ句の果てには神様ときた。
竜狩り師は仕事の前に戦勝祈願をするのが常だが、さすがに神をこの目にしたことはない。なのに、今では見えて話せる清流の女神様の信者になってしまったのである。
「人生って分からないものだなぁ……」
「人生ですって? まさか、結婚? アイリス、少し気が早いのでは?」
「だから! なぜそういう話になる!」
ちょうど最後のかけらを食べ終えたところである。ミーナの早とちりに色めき立つ友人たちに挨拶をして、アイリスはさっさと店を後にした。
「アイリスはお休みの間何か予定はありますの?」
「え? うーん、特にないかな。お店の手伝いとか、怪我のリハビリはするけど」
ケーキ屋の帰り。
父親からの仕送りであるドラゴンの鱗を宝石店で換金した後、アイリスはミーナと二人で町を歩いていた。アイリスは他の友人のように『実家に帰る』という予定はないし、ミーナは迎えが来るまで少々時間があるのだ。
「まぁ、よかったわ! よろしければ、一度わたくしの家にいらっしゃいませんか? 両親にあなたに助けてもらったことを話したら『ぜひお礼を』と手ぐすね引いて待ってますのよ」
「……『お礼』とか『手ぐすね』っていう言葉の使い方、間違ってると思うんだけど」
貴族の家に生まれたからなのか、ミーナはディーと同じく不安を覚えるほど浮き世離れしたタイプである。それに、昼間とはいえ、以前酔っ払いにからまれた事のある彼女を一人にしておくのも心配だ。一人より二人でいたほうが安心だろう。
「一緒に来てくれてありがとうございます、アイリス。そろそろ時間ですし、迎えの馬車のところへ行かなくては」
「あ、そうだね。もうそんな時間だっけ。気をつけて帰ってね」
ミーナが懐中時計に目をやるのを見て、別れて歩きだそうとした時。
「ひゃっ!」
「ごめんよ、嬢ちゃん」
見知らぬ男が突然、ミーナにぶつかって走り去った。
「ミーナの時計、取り返してくるから! 先に家に帰って!」
しりもちをついてしまった彼女を助けおこし、アイリスは男を追って走り出した。
ミーナは知るはずもないが、アイリスにとってはディーの財布をすった、見覚えのある男だ。
「竜狩り師を舐めたことを、後悔すればいい!」
そう。
竜狩り師はドラゴンを追いつめ、狩る専門家。
人間相手に遅れをとったりなどしないのだ。
しかしながら。
「……ちくしょう」
すぐに、アイリスは自分の選択を後悔する羽目になった。
港近くの倉庫らしい場所に、両手を拘束されて転がっているからである。
うかつと言うほかない。
スリの追跡に集中するあまり、周りの警戒がおろそかになっていた。頭への一撃で気絶するまで、それに気づかなかったなんて。
縛られたまま体を動かす。足の拘束、骨折など、逃げるのに不便な怪我はなし。頭から出た血の感触が額にあるぐらいだ。アイリスの前では、背を向けた男二人が熱心に相談中である。
男たちの向こう側にある扉には、頑丈そうなかんぬきがかけられているのが見えた。
(一人が囮、もう一人が攻撃……古典的な手に引っかかっちゃったな)
息をひそめたまま、じっと周囲を観察する。背後にはボロボロになった木箱があり、男たちとは反対の方向の壁に穴があいていて、外に出られそうだ。
「本当に金は取れるんだろうな」
「もちろんだ」
逃げ出す機会をうかがおうと、アイリスは男たちの会話に注意を向けた。薄目で横顔に、どうも見覚えがあると思ったら、スリでない男の方は以前ミーナに絡んできた酔っ払いだ。
「こいつが親からドラゴンの鱗を送ってもらってるのは調べがついてる。二人でヤって周りにバラすぞって脅せば、泣いて差し出してくるさ。貴族の娘をさらうよりずっと楽だし、危険もないだろ? 竜狩り師なんて所詮は根無し草なんだから」
「なるほど……つまり、親は娘が傷ものになったとも知らず、俺たちに仕送りをするっつーわけか。たまんねぇな」
「あぁ。生意気な女を躾けることほど愉快なことはない」
下卑た笑い声が倉庫に響く。
アイリスは声を出しそうになり、歯を食いしばった。
竜狩り師を貶められた、胸を焼くような屈辱と。
この後に引きずり込まれる地獄への恐怖で体が震え、息もうまく吸えない。
だけど。
――何もせずにただ待つなんて、そんなの無理。
腕を動かし、両手の戒めの具合を確かめる。結びは固いが、ささくれた木箱の角でこすれば切れるかもしれない。
どちらが先にやるかという話で険悪になってきた男たちを、アイリスは薄目でじっと観察する。ちょっとくらい体を動かしてもバレないだろう。勝ちを確信した時というのは隙ができるものだ。
あの男二人を結びつけたのはアイリスに対する恨みらしいが、そんな輩には骨の髄まで恐怖を叩き込んでやらねばなるまい。
(まずは股間に一撃。顔が下がったら膝で鼻を潰して……足を払ってから……)
縄を切るのにいい位置と体勢をとろうとして、体を動かしたとたん。
「いっつ……」
歯の根を揺さぶるような頭痛に襲われた。
視界がゆがみ、身動きのひとつもとれない。
頭の傷が、今になって痛み出したのだ。
――だから、覚えのある声が聞こえてきたのも、気のせいだと思った。
「ラジーニア様、ここですね!」
「バカ者、アイリスがどんな状態かわからんのだぞ、もっと慎重に」
女神の言葉は轟音にかき消された。
金属製の扉が、かんぬきごとブチ破られたのだ。
ゆっくりとこちらに倒れてくる扉、あんぐりと口をあける男二人の向こう。足を振り抜いた姿勢のディーと、ギャンギャンわめく女神の姿がある。
しかし、アイリスにはひしゃげた扉に驚くヒマなどなかった。男どもには目もくれず、ディーがすっ飛んできたからだ。
「アイリス、無事……」
無事か、と言おうとして絶句したディーの目が、額を見つめているのが分かる。眉間に皺を寄せ、歯を食いしばった表情は怒りのようで――今にも泣きそうでもある。
「助けに来てくれてありがとう。私は大丈夫だよ」
両手の拘束をほどいてもらい、できる限り冷静に言葉を紡いだつもりだった。
なのに、どうしてか涙がこぼれる。
困り顔のディーがさし出した手を取ろうとした、その時。
「そっちに一人行ったぞ!」
女神の叫びにディーは即座に反応、背後からのナイフを受け止めた。
「お前がアイリスを傷つけたのか?」
「だったらどうした!」
ディーに握られたナイフを動かそうとして果たせず、スリの男が吠える。
「そうか」
一度も聞いたことがない、冷ややかなディーの声。彼の手の中で、大ぶりのナイフがぐにゃりと曲がった。
「ひィえっ?」
尻餅をつく男の脇、ナイフが落ちてキン、と音を立てた。まるでこねたパン生地のように、しっかりと手の跡がついている。
声も出せずに座り込んだアイリスの目に映るのは、だらりと下がったディーの手。刃物を握ったというのに傷の一つもない、手のひらを覆う緑色の何かだ。
彼は黙ってナイフを拾い、無造作に投げる。
ぎゃっ、という悲鳴と物が倒れる音。
ラジーニアが水を操り拘束しようとしていた酔っ払い、その右肩に突き立つナイフ。間髪入れず、ディーはナイフの刺さった腕をぐるっとねじった。一際高く上がる悲鳴。
「やめろディートハルト、もういい! アイリスを連れて帰ろう」
女神の声が聞こえていないかのように、ディーは泣き叫ぶ男を蹴飛ばす。積んだ木箱の山につっこんで、あっというまに男は見えなくなった。
次に視線が向いたのは――スリの方だ。
「な、何だ……お前は何なんだよ!」
立ち上がろうとして果たせず、尻を床につけたまま後ずさるスリの男。ディーはいつもの答えを返した。
「自分は人間だ」
「う、うそだ! 鉄扉を蹴り壊すような奴がいるか、この化け物!」
罵られて目をみはったディーの瞳に、アイリスは息をのんだ。
――金色。
彼は空色の目の持ち主だったはずだ。大きな図体のわりには丸っこく、ともすれば子供っぽい印象すら受ける目。
それが今では――縦に細長い瞳孔が、金属のようにただ無情に。
へたりこんだスリを見下ろしていた。
「アイリスに怪我をさせたな」
ディーの靴が、なおも逃げようとするスリの足を踏み潰した。
ごきん、と骨の折れる音。
苦悶の声をまったく意に介さず、ディーは動けなくなったスリの首を掴んだ。
「このままで済ますものか」
「ぐっあ、わ、悪かった、やめてくれ! 助けてくれ! もうその女には関わらない!」
首を絞められ、みるみるうちにスリの顔色が変わってゆく。肩を刺された酔っ払いの悲鳴はもうなく、苦しげな息づかいが聞こえるだけ。
「ディーやめて! もういいの、私は大丈夫だから!」
彼の腕に手をかけて、何とかスリから引き剥がそうとする。ラジーニアはというと、頭を抱えて苦しそうだ。
「お前……っ! 正気に戻れ、姿が保てない!」
女神の叫びにも、ディーの顔色は変わらない。
ぽろぽろとまた、涙がこぼれた。
世話の焼ける子供みたいだったディーが、なんだってこんなことに?
どうしてこうなった?
何がいけなかった?
「いい加減にしろ! ディートハルト、今アイリスを泣かせているのはお前だぞ!」
「っ……!」
びりびりと空気を震わす女神の大音声。それを耳元でやられたディーはさすがに、スリから手を離してうずくまった。
「泣いている……? 怪我が痛むのか?」
ぶるぶるっと頭を振ってこちらを向いたディーの目は、いつもの空色で。
「……うん。ちょっと頭が痛いの。お医者さんに見てもらわないと。ディー、手をつないでくれる?」
「あぁ。もちろんだ」
女神と目を合わせ、アイリスはディーに寄りかかるようにして倉庫の入口へ歩いた。つないだ手は温かく、緑色なんてどこにもない。
最早うめくばかりの男たちは、すっかりディーの注意からは外れてしまったようで、見向きもしない。ちらりと女神を見ると、頭の中に直接返事がきた。
(あの男たちなら心配するな。放っておいて死ぬほどの怪我ではないさ)
(どうして私の居場所が分かったの?)
(あぁ、それはな)
アイリスがスリを追いかけた後、心配したミーナはパン屋に行って事の次第を伝えたらしい。それを聞いたディーが、女神に助けを求めたというわけだ。
(自分一人ではアイリスの居場所が分からない、女神のあなたなら彼女を探せないか、信者だろう、とまぁ……それはもう、大変な剣幕だったのだ)
なんでも、女神であるラジーニアは、力の源である信者や清流の場所をある程度探知できるんだとか。
(まぁ、神頼みなど、世間知らずのあいつにしてはよく考えたと、褒めてやらなくてはな。アイリス、お前を助けられて良かったよ)
宙に浮く幼女に頭をなでられて、アイリスはごめんなさい、と呟いた。
「心配をかけてしまって……ミーナやおじさんとおばさんにも謝らなきゃ。ディーは足、痛くないの?」
「ん? 大丈夫、何ともないぞ。それより君の怪我を早く医者に見せなくては」
「そうだな。ディートハルトよ、怪我人をおぶってやれ」
ディーにおんぶされたアイリスは、彼の顔を後ろからそっと見た。
蹴りの一撃でかんぬきがゆがみ、蝶番の部分がちぎれたようになっている鉄扉。
ナイフを握っても傷一つない、緑色の手のひら。
金色の目は――初めて見るはずなのに、どこかで見たことがある気もする。
この人は何なんだろう、という疑問を抱いて、今更ながらに気づいた。
(私、ディーのこと……何も知らないんだ)