02.港町ウルク
(いいな? ウルクに到着したからといって、油断して馬鹿力を見せるなよ)
ラジーニアによれば、ほこらからウルクまでは馬車で一週間ほどの距離らしいが、ディーが直線距離を全速力で走破するのに要した時間は二日である。
その速さに驚いた女神はしっかり釘をさすと、ディーの首に下げた牙のペンダントに溶け込むように消えた。ほこらと一緒に御神体も壊してしまったので、今はディーの抜け落ちた牙が依代なのである。
「確か、仕事と住まいを探すのだったな……」
外壁の大門を抜けて大通りを歩きつつ、ディーは久しぶりに目にする人間の街に、心がわき立つのを抑えられなかった。
そんな時に地面が揺れ――地震だと気づいたところで、背後からの衝撃によろめく。
「ごめんよ兄ちゃん!」
「おっ、と」
揺れはすぐにおさまったものの、街に感動しきりのディーである。ぶつかって走り去った男にも『人間扱いされている!』感動してしまったくらいだ。
(バカ者! 今の男はスリだ、追いかけろ!)
「えっ? え、あれ?」
ラジーニアが依代から飛び出てきたかと思うと、ディーのポケットを指さす。そこにあるはずの、ウロコ入り巾着は無かった。
辺りを見回しても、背中しか見ていない男を探せるはずもなく。
「な……な……」
突然のことに言葉も出ない。
(しょうがない、じき夕暮れだ。今日はどこかで夜を明かし、仕事を探すのは明日にしよう)
ディーがラジーニアと二人でため息をついたその時、つんつんと服を引っぱられた。振り向くと、黒髪の男の子を連れた赤い髪の少女がいる。
「はい、これ。あなたのでしょう?」
少女がディーに差し出したのは、ついさっき盗られた巾着だ。受け取ると、しゃらりとウロコのこすれる音がして、中身も無事だと分かる。
「君が、取り返してくれたのか?」
「たまたまよ。変な男があなたからそれを盗るところを見たから、ぶつかってスリ返しておいたの」
こともなげに言う少女にディーは絶句し、女神に助けを求めた。
(ラジーニア様! スリというのは職人的な手管で他人の金品を奪う人または手口のことではないのですか?)
(そうだが、やけに教書的な知識だな!)
(彼女は、その、一見するとたおやかな乙女ですが、非合法な手段に通じている人なのでしょうか?)
(たおやかというよりは……同性に頼りにされそうな凛々しい少女ではないか? ほら、お前が礼を言わないから睨んでいるぞ)
赤毛をきっちり編み上げた少女の瞳、紫のそれが訝しそうにディーを見ている。
「あっ、その……あ、ありがとう」
「どういたしまして」
ラジーニアに会うまで、誰かと話すのも久しぶりだったディーである。礼を言い終えてほっと一息――ついたのだが。
「ちょっと、クラウ!」
少女の慌てた声に、我に返る。左手の巾着がない、と思ったら少女の連れである男の子が持っていた。彼は何やら難しい顔で、ふんふんと袋の匂いを嗅ぎ、口を開けて中身を石畳にばらまいてしまう。
「何やってんの! 人のものを勝手に触ったりして、ダメでしょ!」
男の子を叱ってから、少女はディーと一緒に鱗を拾い集めてくれた。
「ほらクラウ、ごめんなさいは?」
男の子は少女の手をはねのけ、今度はディーの足にしがみついて匂いを嗅いでいる。何なんだと混乱していると。
「お前、ヘン! 人間なのに、ドラゴンのにおいする!」
突如として断言され、ディーはこう叫ばずにはいられなかった。
「じ、自分は人間だーっ!」
◇
「私はアイリス・リントヴァルトです。こっちはクラウ。さっきは失礼なことをして、本当にごめんなさい」
「……いや、いいんだ。私はディートハルト・ブラウ。ディーと呼んでくれ」
「ディーさん、ですか?」
「いや、『さん』はいらないし、言葉も砕けたものでかまわない。もちろん、君さえよければ、だが」
ディーとラジーニア、少女アイリスと、クラウという男の子は、ウルクの港へと続く大通りを歩いていた。お詫びの印になじみの宝石商を紹介してくれるそうで、そこで鱗を換金したらいいと勧められたのである。
「クラウは悪い子じゃないの。ただ、ちょっと事情があって」
初対面の人間同士がするという『自己紹介』はやり遂げたが、街入り初日から正体がバレかけた衝撃で、話を聞くのも身が入らない。
(ラジーニア様、自分は人間になったのではなかったのですか?)
(わたしのせいにするな! 今のお前はどこからどう見ても人間だ! ただ、体の構成材質がドラゴンなだけに、匂いまで完全に消すのはちょっと……)
悩みだした女神に、ディーはがっくりと肩を落とした。ちらりと横を見ると、アイリスと手をつないだクラウにじっと睨まれる。
(一体自分が何をしたというのです? せっかく、待望の人間としての生活が始まるかと思っていたのに……っ!)
(だから、わたしのせいにするなと言っている! 文句があるならドラゴンの姿に戻してもいいのだぞ!)
言葉に詰まって、顔を背けたディーは、気まずげな顔の少女と目があった。
「やっぱり……怒ってるよね?」
「い、いや! そんな事はない! 少し考え事をしていただけだ」
宙に浮く女神さまに、頭の中で言い負かされたので――などと言えるはずもなく。話を逸らすきっかけを探すディーの目に、夕日を受けてきらめくものが飛び込んできた。
「あれが海か? ……いい風だ」
風に金髪とマントを揺らし、潮の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「海を見るのは初めて?」
「あ、あぁ。こんなに間近で見るのはな」
ドラゴンの姿で飛んだ時、空から見たことは何度もある。しかし、港に停泊する商船を見上げ、荷積みや荷下ろしをする船員たちのかけ声を聞くのは初めてだ。
太陽は水平線に沈みかけていて、作業を急ぐ男たちの手で、様々な荷物が船と港の倉庫を行き来する。
食料品、衣服、珍しい動物と植物、武器に鎧、宝石や美術品など――外から見て、あるいは男たちの会話と匂いでディーには中身を類推することができた。父の蔵書で知ってはいたが、実物を前にするのは初めてだ。
「これが船……これが、港町……。君の町はとても活気のある所なんだな、アイリス」
感動のあまり漏れた言葉に、アイリスはくすりと笑った。
「そんなに目を輝かせてキョロキョロしていると、またいいカモだと思われてお財布盗まれちゃうよ」
「うっ……分かった。気をつける」
女神が腹を抱えて大笑いするのを見てしまうと、ディーの腹はムカムカしてきた。まったく、なぜ他の人間には見えないのだろう。
商船の群れを横目に、歩くことしばし。通りを折れ、細い裏路地に入ってすぐの店で、アイリスは立ち止まった。
「おじさん、いる? 買い取り希望のお客さん連れてきたんだけど」
カランというドアベルの音と共に中に入ると、眼鏡をかけた中年男が「いらっしゃい」と笑顔でこちらを向く。ディーが挨拶をして頭を下げると、店主だという男がメガネの位置を直しながら口開いた。
「じゃ、ディートハルトさん。ドラゴンの鱗を見せてもらえるかな?」
「ど、どうして分かるのですか?」
ディーは驚きの声を上げた。店内は年代物の時計、毛皮に壺、よく分からない石ころまで、雑多なもので埋め尽くされている。なぜ用事が鱗の買い取りだと分かったのだろう?
「あまり素直に驚いちゃダメよ、ディー。『自分は田舎から出てきたばかりです』って宣伝しているようなものだし。不当に安く買い叩かれちゃうかも」
ため息まじりのアイリスの表情は、必死で笑いをこらえているようだ。
「ひどいなぁ、アイリス。元竜狩り師が連れてきた客にそんな事するわけないだろ。大体、ウチは常日頃から真っ当な商売してるよ」
「元じゃなくて今も! ちょっと怪我して休んでるだけ!」
肩をすくめるシュタインに、アイリスが食ってかかる。すると、それまで我関せずを決め込んでいたクラウが、ディーとアイリスを交互に見つつニヤニヤ笑って一言。
「お前も、こんなのに助けてもらわなきゃ一文なしだったな。かっこわる」
「な……」
明らかな侮辱に、かっと頭に血がのぼる。
――自分だけならともかく、助けてくれたアイリスまでけなすとは。
(こら! 気持ちは分かるが相手は子供だ、落ち着け! 約束を忘れたか!)
ラジーニアの悲鳴に我に返ったディーが、固めた拳を指でほどいたところで。
「はいはい、クラウは大人しく座って待ってる。ディーはこっち、買い取りだよね」
アイリスがぱんぱん、と手をたたいてクラウを片隅の椅子に座らせ、ディーを店の奥に案内する。
「心配しなくても大丈夫。私が相場と照らし合わせて、適正価格かどうか確認するから」
ディーは自分を人の言動や感情に疎いところがある、と認識していた。でも、さすがに今は、アイリスが気遣ってくれたのだと分かった。
「……ありがとう、アイリス。ご主人、よろしくお願いします」
買い取りをすませたディーとラジーニアは、ホクホク顔で店を後にした。金貨で重くなった巾着は、盗られないように背負袋の中にしまってある。
(ラジーニア様、ドラゴンの鱗というのは良い値で売れるのですね! 知りませんでした)
(そうだな! 鱗の入手先を聞かれた時は焦ったが、ごまかせて何よりだ)
自分の体から落ちたものを持ってきました、などと口を滑らせたら大変だ。
「ありがとう、アイリス。君のおかげで、食べ物に困ることはないだろう」
「どういたしまして」
アイリスの笑顔に、そういえば、と思い出してたずねる。
「竜狩り師とは職業の名称のようだが……どんな仕事なんだ?」
「あぁ、ドラゴンを狩るのが専門の狩人のことだよ。……私のおじいちゃんくらいの代から始まった、わりと最近の商売なの。だから、ディーみたいに知らない人もいるかもね」
彼女の話を聞いて、ディーはアイリスの目をじっと見た。
「な、なに?」
そのままじっと、視線を足元まで下げる。
ディーはドラゴンを狩ろうとする人間と見えたことはない。だが、鱗がちょっとやそっとで傷つかないことは経験的に知っていたし、そもそもねずみと馬ほど大きさの違う生き物をどうやって相手どるのか、と不思議に思ったのだ。
アイリスの背丈はディーの胸のあたりまでしかなく、特に膂力がありそうにも見えない。紺色のワンピースを着た、かわいらしい少女なのだ。
「店のご主人は君が竜狩り師だと言っていたが……どうも信じられなくてな」
「なに、疑うの? 見習いだったけど、きちんと仕事はこなしてた! クラウだって、ドラゴンの巣で捕まってたのを保護されて、私が面倒見てるんだから!」
怒りもあらわにまくしたてるアイリスの横で、クラウがぺっと唾を吐いていた。
「その……すまない。傷つけるつもりはなかったんだ」
「もういい! 私が竜狩り師だと証明してくれる人の所に行くから、今から来なさい!」
「えっ? いや、自分はこれから仕事と住まいを探さなければ」
「それも私が紹介してあげるから、来てくれるよね?」
アイリスの浮かべた笑みに、ディーはなぜか寒気を覚え、ぶるりと身をふるわせた。
(ラジーニア様、アイリスは怒っているようですが、どうしてですか?)
(自分で考えたらどうだ、自分で)
考えても分からなかったから聞いているのに、とディーはぼやき、アイリスに手を引かれるまま歩き出した。