01.女神との出会い
――しつこい夢だ。
眠りから覚めたディーは、ぶるりと身を震わせてあくびをした。
故郷が燃えたあの日から、もう十年近く。場所も覚えていないのに、父との別れの光景だけは、脳裏にこびりついて離れない。
「……む」
起き抜けでのどの乾きを覚え、水を求めて身を起こす。
昨日寝床に選んだのは森の中、小さなほこらのある湖のそばなので、ほんの数歩で澄んだ水にありつけるのだ。
「お、のぉっ……!」
ところが。
寝ぼけた頭と体はうまく動いてくれず、よろめいてほこらの上に倒れ込んでしまった。
「う、これは大変なことになった」
腹の下敷きになったほこらは見るも無残なありさまだ。苔むして大分年季が入っていたので、人家を下に見るような生き物の重さには、とても耐えられなかったのだろう。
(もはや神などいそうにないが、壊したままというのはいけないな)
どう修理したものかと、ディーがうんうん唸って考えていると。
「おい、そこの! よくもわたしのほこらを壊してくれたな!」
突然の怒鳴り声。
「……はい?」
白くまっすぐな長髪に、緑色の瞳をもつ女性が、目前にふわふわと浮かんでいた。
――但し、リスほどの大きさで、半透明の。
「えぇと……どちら様ですか」
「どちら様も何もあるか! お前が押しつぶしたほこらに祀られていた神だぞ! 清流の女神ラジーニアとはわたしのことだ」
「ほ、ほこらの主さまですか? この度は大変なご迷惑をおかけして申し訳ありません」
主だという美女の名乗りに、ディーは体を折って謝罪する。
「おぉ、ペコペコと……って、その言葉! 古老ならともかく、お前のような若いドラゴンが人間の言葉を喋るとはなぁ。驚きだ」
女性は目をみはる――ラジーニアの表情に驚きを見てとったディーは、異議を申し立てるべく口を開いた。
「お言葉ですが女神さま、自分はドラゴンではありません。ディートハルトという名前の人間です。言葉は父に教わりました」
「はぁ? ……自身の姿を見たことくらいあるだろう。金の瞳と新緑のウロコは若い雄ドラゴンの特徴なのだぞ」
女神は肩をすくめて湖面を指差した。
「身を守るかぎ爪や牙を持たず、翼で空を飛ぶこともできぬのが人間という生き物だ。それに、お前は大きすぎる。人間一人が転んだくらいでほこらが壊れたりするものか」
水面からこちらを見返してくるのは、新緑の鱗でその身をよろい、金の瞳を瞬く生き物だ。
「……父は人間でした。自分は何かの手違いでこんな姿に生まれてしまっただけです」
「ふぅむ。察するに、お前の父は卵か雛だったお前を拾って育てたのではないか? 人間からドラゴンは……まぁいい」
ラジーニアは言葉を途中で切り、こう続けた。
「お前が人間だというのなら、新しいほこらを作ってみせろ。手先を使って色々な物をこしらえるのは、人間の得意技だろう?」
言外に『ドラゴンにはできない』と言われているようで、ディーは鼻を鳴らして立ち上がる。
「もちろんです。元のほこらよりも立派なものをお作りしますよ」
――そう豪語したものの。
ディーは程なく頭を抱えることになった。
「……女神さま。申し訳ありませんが、ほこらの形を教えていただけますか」
丸太はそこらの立ち木を尻尾の一振りでへし折ればいい。土台に使う石は、近所の廃村から持ってきた。
だが、特に注視していた訳ではないほこらの形は、まったく覚えていなかったからだ。
「しょうがない奴だなぁ。ほら」
ラジーニアは小枝を拾って絵を描いてくれたが、今度は丸太を加工する方法が分からない。カギ爪を備えた両手では、丸太からちょうど良い大きさの材木を削り出すのは至難の業だ。
「あー、その、ディートハルトとやら……誰にでもついうっかりという事はある」
何とか加工しようとして、丸太をいくつか木くずに変えたのち。ラジーニアに哀れみの眼差しで慰められた。
「自分は諦めません。失態の責任は取らなくては。……人間として!」
ぐっと拳を握ったら、なぜかラジーニアに嘆息され、ディーは首をかしげた。
「……もういい。お前の努力は分かった。そんなにも自分を人間だと言い張るなら、わたしと」
「女神さま、自分は」
「神の話は最後まで聞け!」
鼻先をぺちんと叩かれ、ディーはとりあえず口を閉じた。
女神は背筋を伸ばしてオホンと咳払い。
「不本意ながら、今のわたしには信者がいない状態だ。ほこらもそれで最後、神の威光は地に落ち、力を振るうこともままならぬ」
ほこらの残骸を指す白い指に、ディーの腹の奥がきゅっと痛む。しっぽを丸めると、ラジーニアに鼻先をなでられた。
「事実を説明しただけだ。そうしょんぼりするな。……まぁ、そこでだ。わたしとしては、お前の誠実なド……ではなく、人柄を見込んで取引を提案したい」
「取引……ですか?」
「あぁ。わたしは千変万化の水を司る清流の女神である。姿だけならお前を人間にしてやることが可能なのだ」
――人間になれる? まさか。
耳を疑うディーに、ラジーニアは続ける。
「どうだ? ディートハルト。わたしの信者となって人間の姿を手に入れ、ほこらの新設と布教に励んでみないか?」
◇
静かな湖面から、金の髪と碧眼の青年が不思議そうにディーを見ている。
鱗のない手で頬をひっぱると、湖面の青年も同じ動作をする。着ている服は深緑色を基調にした、こざっぱりした旅装だ。傍らには背負い袋が一つ。
「はっ! 尻尾がない? 翼も!」
人間の姿になった自分を湖面に映してあちこち確かめ、背中と尻をぺたぺた触るディー。最初は呆れ顔で眺めていたラジーニアも、くすくすと笑いだした。
「まぁ、気に入ってもらえてなによりだ」
「女神さま、ありがとうございます! 何だか色が濃くなって、大きくなられましたね」
「うむ。信者が増えたので、猫くらいの大きさが維持できるようになったのだ。これからは私の名を呼び称えるといいぞ。あ、それから。お前の体についてだがな」
女神は宙に浮いたままくるりと一回転。上機嫌で説明を始めた。
今のディーは、ラジーニアの力で『見た目と体重を人間なみにしているだけ』で『ドラゴンが人間になった』訳ではない。
ドラゴンのままなので『しっぽの一撃で立ち木をへし折るような力』もそのまま。間違っても暴力など振るわないように。
旅装と背負い袋、中に入っている着替えなどは『人間の体を作る際にあまったドラゴンの構成材質を使って作っている』ため、失くしたり誰かにあげたりしないこと。
「あの、ラジーニアさま。質問があります」
「なんだ?」
「暴力を振るうとは、具体的にどのようなことですか?」
「んー、まぁ……お前の体は骨太で頑丈に作ったし、ドラゴンの膂力で人間を殴ったら死んでしまう。哀れだろう? 腹の立つことがあっても、我慢してその場を去る。それが人間の、大人の対応なのだ」
「さすがは女神様だ。人間にお詳しいのですね!」
「そりゃあ、かつては近隣の集落から、毎日祈りを捧げられていたのだ。ま、お前は虫も殺さぬようなオス……いや、男のようだから、いらぬ忠告だったかな」
ラジーニアはふむふむと頷き、ディーに袋を背負うように言う。
この森から一番近い人里は、ウルクという港町らしい。これからそこで仕事と住まいを見つけ、働いてほこら新設の材料費を稼ごうというのが、女神の計画だった。
「おい、ディートハルト。分かっているとは思うが、ウルクでは神のわたしが共にいるとか、お前の元の姿の事を話してはならんぞ。人間にはドラゴンを売り買いする者もおる。知られれば面倒なことになるかもしれん」
「はい、もちろんです!」
ディーは激しく頷いた。ドラゴンの売買は初耳だったが、自分はもう人間なのだ。わざわざ口にすることなどもうないだろう。
(それと、今のわたしは信者ではない者には見えない。人目のあるところではこうして頭の中に直接話すようにするから、お前も会得しろ。誰と話しているんだと怪しまれないようにな。話したいことを強く思えばいいんだ)
「ええっ! えーと……に、人間は皆できるのですか?」
「う、うむ。できる奴もいる……と思う」
突如脳裏に響いた声におどろいて問うと、女神の目が泳いだ気がするが、気のせいだろうか。
ひとしきり『声を出さない意思疎通の方法』を練習した後も、ラジーニアの注意は続いた。
いわく、あまりはしゃぎすぎないように。田舎者のお上りさんだと思われると、騙されて身ぐるみはがれるかもしれない。
いわく、財布を盗まれないように注意しろ。剥がれ落ちた鱗を売って、当座の資金にする予定なのだから。
ディーは直立不動で、一言一句もらさぬよう聞き入った。
――あぁ、人間! これが人間なのだ!
そうでもしなければ、人間になれた喜びに押し流されてしまいそうだったから。