第3話:宿泊客達2
「ふぅぁー…。……疲れたぁー」
年甲斐もなく僕は、ホテルやペンションには必ずと云っていい程ある、お約束的なふかふかのベッドにダイブした。
ぎし、と軽くベッドが軋む。このまま身体から疲れを一気にベッドの底に沈めてしまいたい気分だった。何だか僕の体重が、疲れによって二十キロくらいは増量されている気がするのだ。しばらく――と云っても直美と下へ行く約束があるので三分弱くらいだが――僕はこのふかふかベッドの恩恵に与ることにした。
実は、直美との初めてのこの旅行、少々はしゃぎ過ぎた面があるのだ。まるで遠足前夜の小学生さながらに、興奮しっぱなしで眠れず、十一時には寝る予定が二、三時くらいまで続々と体内から溢れ出るアドレナリンと格闘していた。……いやはや、情けない。
僕は携帯を開いてディスプレイを見た。――十六時九分、もとい午後四時九分。電波は、圏外になっている。折角のリゾート地なのに勿体ないなぁ、と思った。
この部屋の造りは、ドアを開けたすぐ右手に申し訳程度のクローゼット、左手にはトイレとバスが一つになったバスルーム。奥には大きめのふかふかベッドが二つ。その向かいには小さな机、部屋の隅には僕の背丈くらいの観葉植物の植えられた植木鉢。……一つひとつが飾らない高級感に溢れている。
これ全てを堪能するのに無料とは――。今更ながらに、僕は自分の置かれた身分を再認識するのだった。
部屋を出ると、僕は直美のドアをノックした。
「直美。準備出来た?」
……しばらく応答が帰ってこない。
もう一度ドアをコンコンコンと叩き、呼び掛けると、入ってきて、と予想外の返答を受けた。
金色のノブを回す。と、ワンテンポ遅れてかちゃ、という音がした。直美が鍵を開けたのだろう。
「どうした?」
ドアを開けた先には――誰もいない。
バス・トイレを除いて考えると、各々の部屋は皆一様にアルファベットの『q』の周りを象ったような造りをしている。云うまでもなく『q』の右下――先端部分が廊下に繋がるドアで、その左横、つまり『q』の枠外にはバスルームがある。
今、おそらく直美は『q』の左上にいる為に死角となってここからだと見えないのだろう。
「ん?…直美?」
直美が何をしたいのかがわからず、戸惑いながら数歩進む。――と。
「ぇ……うわっ…ぁぁ…」
「『うわっ』はないでしょ。失礼ね」
顔を赤らめながら、部屋の奥にもじもじしながら佇んでいた直美は云った。
――可愛い。
僕は馬鹿みたいにぽかんと口を開けて、ただそう思った。
直美は、さっきまでは薄い黄色のタンクトップにベーシュのショートパンツという出で立ちだったのだが、今は――。
白地に目立ち過ぎない程度に点々と黄色い花びらの模様の入った、ワンピースだった。
最早恋の病に陥っている僕の眼から、客観的に直美の容姿を説明することは不可能だ。申し訳ないが、僕には思い付く限りの賛辞の言葉を述べることしか出来ない。女優の「戸田恵理子」や「長崎まさみ」にも全然負けてない!
さらに白いワンピースが眩しささえ感じさせる。もう僕にとって直美は太陽だ、 女神だ、 宇宙だ!
「……ぅと。柳人。…あの……感想は……?」
はっと我にかえると、直美は頬を朱に染めて僕の眼を一直線に見ていた。
「…っ………」
思わず言葉を詰まらせてしまう。実際可愛いと思っているのだからそのままを云えばいいのだが、何故かどうしても云えない。それは多分僕が直美のことが本気で好きだからなのだろうが、いくらなんでも初恋の中学生ではあるまいし、それはないだろう、と自分でもよく思う。
まぁ、つまりはこういった場面が苦手なのだ。
「ぃ…いやあの………き、きれ――」
「――っく。あっはははははは!」
――え?
僕は驚いて突然笑い転げ始めた直美を見つめた。
「何よー、そんなに上がっちゃって」
にやにやと僕の顔を見て、そんなことを云う。初めは何のことかわからなかったが、直美がそんなに笑う理由がわかり、途端に僕の顔は湯気が出る程朱くなっていった。
「――芝居……?」
恥ずかしさではち切れそうな僕にはそれだけを云うのが精一杯だった。
そうだ。直美はこんなことで朱くなるようなやつじゃない。
「もぅ。あたふたしちゃって」
そうやってひとしきり直美が笑い転げ、僕は赤面して視線を下にやっていると、入口のドアがノックされた。
「お寛ぎのところ、申し訳ございません。多川です。夕食のメニューを決めていただきに参りました」
ドアの前からは、そんな声が聞こえてきた。
直美が笑い涙を拭きながら、ドアに近づき、ノブを捻った。
ドアの前に佇んでいた多川さんは、高級なレストランによくあるような臙脂の革のメニューを携えて直立不動の姿勢で立っていた。もちろん怒りつつ笑いつつといったような独特の笑顔は忘れない。
「どれにいたしましょう」
そう云って多川さんはメニューを開いた。
載っていたメニューには、庶民がちょっと触れることさえ許されないような料理が羅列されていた。
どれが無難に口に合うだろうか、とものすごく迷ったのだが、結局一番無難そうなカツレツを多川さんに頼んだ。
「じゃあ私はこの、あ、そうそれです、黒毛和牛のステーキで」
えっ、マジか。
「どうせ無料なら高そうな物を頼んだ方がいいじゃない?」
そっと僕に耳打ちする直美。そういえば、直美は母方の実家が関西の方だったな。
それから、では、と踵を返す多川さんを見送り、じゃあ僕達も下に行こうか、ということになった。
◇◆◇◆◇◆
階段を下り、ロビーに向かうと、新たに二人の客が来ていた。たった今来たところらしく、一人はきょろきょろと周りを見回している。珈琲色のTシャツにジーパンといった出で立ちの、中肉中背の男性である。もう一人は……ここの使用人と思しき屈強そうな、全身黒スーツに黒サングラスの男性と立ち話をしていた。こちらは抹茶のレザージャケットに乳白色のズボンの小柄な男性だ。
一方、希利富さん達はあの後散り散りになったらしく、ロビーに佐伯夫婦の姿は見えない。谷口さんも食堂の入口の前で加藤野さんと立ち話をしていた。谷口さんは筆記類を一切持っていないが、おそらくあれも取材なのだろうな……。
一人ソファに残った希利富さんは新たな客二人に話し掛ける機会を、にこにこしながら待っていた。まだ出会って間もないけれども僕は、希利富さんはいい意味で天然なのだろうなぁ、と思った。
「――ここ、孔雀館の雰囲気について、どう思いますか?」
「……広々とはしていないけれど、開放感があります」
「へぇ、開放感?」
「はい。…ここにいると、何だか自由でいられる気がして」
「自由、ですか」
「自由、です」
「……そうですか」
――谷口さんと加藤野さんの取材のやり取りが聞こえてきた。
こうして聞くと、谷口さんって敬語が全然似合わないな。それに比べて加藤野さんはまるで立て板に水、といった風な自然さで敬語を繰り出している……、その差が面白くて僕は心の中で苦笑した。
加藤野さん、か。
加藤野さんの、下の名前は何というのだろう。多川さんも云っていたように、加藤野さんは僕等と年齢はそんなに変わらないだろう。もしかしたら僕等よりも下かもしれないし。なら、お互い下の名前で呼ぶのがマナーってものだろう。
取材が一段落すると、僕等は谷口さん達に近づいた。
「あ、加藤野さん」
僕の言葉に加藤野さんがはい、と振り向いた。
「下の名前、教えてもらえますか?苗字だと何か気持ち悪いんで」
一瞬え、という風に驚いたが、すぐに顔を無表情に戻し、答えた。
「……阿音、です」
ほんのわずかに加藤野さん――阿音ちゃんの頬が赤く染まったのは、まぁ僕の気のせいだろう。
「そっか。よろしく、阿音ちゃん」
僕が笑い掛けると、彼女は少し恥ずかしそうに俯いた後、ぱたぱたと食堂の周りを小走りで行ってしまった。
「……あーあ、柳人、阿音ちゃんに嫌われちゃった」
走り去っていく阿音ちゃんを見やって直美がにやにやと僕を見るが、彼女が無表情な割にとても恥ずかしがり屋なのは今ので二人共承知した。だから直美が本気で云っているのではないことはよくわかっている。
「柳人君、直美ちゃん」
と、谷口さんが僕等に近付いてきた。
「二人はさっき出来なかったことだし、皆纏めて取材させてもらえるかな?」
後ろ――ロビーの方を親指で指差す。そこには希利富さんと雑談を交わす新客二人の姿があった。やはり二人とも独特な希利富ワールドにハマったらしく、半ばぽかんとしていた。
これからも楽しくなっていきそうだ。
「あのね、谷口さん。さっき柳人が私の部屋でね――」
……楽しくなっていきそうだ。
登場人物紹介に『牧村尚平』という人物をいれておいたので、お手数ですが、見直しておいて下さい。