第1部、第1話:孔雀館へ
「わー! 風が気持ちいいわよ、柳人!」
船の甲板から身を乗り出して、赤石直美は云った。
海風が直美の肩に掛かるくらいのショートヘアをさらさらと揺らす。
「うん。そうだね」
僕は海面を照らす眩しい陽射しに目を細め、そう頷いた。──実はさっきからずっと酔っているのだが、直美には気付かれないように振舞っている。
僕は昔から船だけは駄目で、できる限り避けていた。この、波に合わせて地面が揺れ動くような感触がたまらなく嫌だった。中学の卒業旅行で行った沖縄。帰りの船で、馬鹿食いしたちんすこうを全て海へとリバースしてしまった。あれは一生に一度の大失敗だった。
まぁ、今回は仕方ない。なんたって直美からの誘いなのだ。
『ねぇ、これ。一緒に行って見ない?』
1ヶ月前、サークルの活動前に突然そんな風に誘われ、彼女に少なからず好意を抱いていた僕は、後先考えずにOKの返事をしてしまった。
彼女の言う『これ』とは、あるちっぽけな孤島に建てられた館(後に小ホテルだかペンションだかにするらしい)のモニター参加券だった。それも二枚。
彼女が言うには、その館のオーナーが開業前に宿泊客の反応を見たい、とのことで関係者の知り合いを集めて無料で五日間泊めてくれるらしい。
『私の伯父さんがこの企画の関係者らしくて…。何でも二人の方がいいんじゃないかって言うから』
小ホテル?ペンション?
──後から聞くところによると、その時の僕の表情は、直美曰く『大金塊を見つけた悪の大魔王』と化していたらしい。うーむ、恥ずかしながら、実に的を得ている……。
直美は、友人でもなく家族でもなく……この僕を誘ってくれた。それは、彼女に想いを寄せる一人の男を有頂天にさせるには充分過ぎる程のトピックス、いやミラクルだったのだ。
実際、あの時の浮かれた自分は、『伯父さん』の助言も彼女の方便かと思ったくらいだ。
まぁ、参加人数は出来るだけ多い方がいいってことかな、と一応僕の理性はそう判断する。
「……ぇ。ちょ、ちょっと柳人、大丈夫?顔真っ青よ?」
黒髪を風になびかし、爽やかオーラ全開の直美が僕の異変に気付き、僕の背中をさする。
「うん。大丈夫ダイジョウブ。な…なんくるないさー」
「……え?」
あぁマズい。
あの時の琉球の風を思い出す。何しろ、あれから船に乗ったのは今回が初めてなのだ。五年のブランク、もとい一生消えることのないトラウマは、いつまでも僕の身体に付き纏った。
因みに直美とは高校からの付き合いなので、僕の卒業旅行での惨劇を知らないのだった。
◇◆◇◆◇◆
段々陸が近づいてきた。
こじんまりとした孤島──九条島。
この船が着くであろう場所と正反対の方の島の先端には、僕達がこれから泊まる館がそびえ立っている。
まぁ、「そびえ立つ」と描写される程背の高い建物ではない。どちらかというと、ずんぐりむっくりしたイメージがある。
それというのも、この館の「特殊な形」のせいだろう。
まるで大文字焼きのような形状の、二階建ての館(一階は玄関と受付、ロビーを同居させた部分が「大」の字の股辺りにあるので「木」の字のようにも見える)。建てたばかりの筈なのに、オーナーの趣味なのか、外装は古ぼけた洋館を連想させる煉瓦造りの、臙脂色を基調とした色使いとなっている。それが人間の匂いのしない孤島の色合いと重なって、何とも言えない神秘的な雰囲気を醸し出している。
「……何だか、神秘的だね」
陸が刻々と近づいてくることで、多少調子が良くなってきた僕は、館を見つめてそう呟いた。
「伯父さんの話によると、あの館は九条島に伝わる言い伝えを元に造られたらしいわよ?」
「言い伝え?」
「うん。九条島に語り継がれてきた手毬歌、それの主題となっている『孔雀』の羽をモチーフに館をあの形にしたんだとか……」
───ザ、ザザ……
…ザァァアァアァァ────
唐突に、何か、とてもいやな予感が、不快な感触で僕の神経を撫ぜた。──何だ?
「へぇぇ……孔雀、の……」
「詳しくは私も知らないんだけど……九条島では、孔雀は神聖なものとされていて、崇められてるらしいの」
「ふ、ふーん……」
ぎこちなく頬に笑みを浮かべる。
風が吹いた。さっきまでは爽やかだったそれも、なんだか生暖かい嫌な風だな、と感じた。
「でもその手毬歌、確か…少し歌詞がおかしくて――」
「…おかしい?」
「うん。なんだっけなぁ……、私も忘れちゃったけど」
「そんなのあるかよ。気になるじゃん……」
さっき感じた得体のしれない悪寒が僕の声色を冗談に聞こえないものにさせてしまった。台詞を言い終えてからそれに気付いて、慌てて言葉を繋げた。
「ま、まぁ、昔の話はおめでたい話にも残虐性なんかが含まれてたらしいから、それもその類なんだろうね」
「うん、多分ね。――そういえば、情報社会のレポート終わった?『近年のゴミ社会について』」
「ぃ、いや、まだ手をつけてもいないよ。あんなのグーグルで調べれば一発だと思ったんだけど、中々上手くいかなくてね……」
上手く(自覚はないんだろうけど)話題転換をしてくれた彼女に話を繋げる。だが、台詞があまりにも適当過ぎていたらしく、僕の言葉に彼女はアメリカ人のように肩をすくめて呆れ返った。
「そんなの当ったり前じゃない!そんな宿題、西岡教授が出す訳ないでしょ!」
西岡教授――この名前が出て、僕はまたほのかな酔いを感じてしまった。
西岡教授は現代社会の先生であり、僕等生徒の天敵でもある。つるりと禿げ上がった頭は脂ぎっていて、口臭の酷いタラコ唇から発せられる言葉はただ一つ――『君達、イキがってんじゃないよぉ!』だ。何故か『イキがってんじゃないよぉ』の『キがっ』と『ない』の部分にアクセントが置かれていて、何ともヒステリックな発音をする。この大学出身の先生がこの母校に赴任した時、挨拶でこの西岡教授の口癖を真似て、それに周りの先生達が慌ててフォローしたことは、大学では永久保存版ネタだ。
――話が逸れた。
つまりは、僕達は島に着くまで「孔雀伝説」のことも忘れて和気あいあいと話をしていた、ということだ。
時刻は午後三時半――。
この夏の陽の長さのせいで「昼」を感じていられるぎりぎりの時間帯だった――。
◇◆◇◆◇◆
陸に着くと、船着き場では一人の男が直立不動の姿勢で僕達を待っていてくれていた。
紫のスーツの下には白いワイシャツ、ネクタイの色は濃いめの、原色に近い赤。ズボンもスーツと同じく紫で揃えている。髪の毛はポマードでべったりと七三に分けていて、その頭の下では、あからさまに人為的な(本人にその気はないのだろう、性格や元の顔の造りが災いしてそう見せているのだろう)笑顔で今か今かと新たな客を待ち構えている。
僕等が船から降りると、そのファッションセンスのあまりなさそうな男がすっと傍にやってきた。
「ようこそ九条島へ。私はツアーの現地管理人の多川と申します、以後御見知りおきを」
そう言って男――多川さんは二枚の名刺を胸ポケットから取り出した。
「こちらこそ。――僕達は招待客の倉掛柳人と赤石直美です」
直美がいる手前、ちょっとカッコつけようとしたが、言ってから、招待客であることは言わなくてもわかってたか、と軽く舌打ちした。
多川さんの進む道をちょこちょこと僕達はついていった。船着き場から館までは一本道という訳ではないらしく、林の中に作られた白い固まった土の道はたまに二つ三つに分かれていた。くねくねと曲がりくねっていて先が見えない道もあるが、ほぼ一直線に延びている道もある。その道の先に見えたのは――小さいドーム状の建物、その屋根には独特な形をした「ピン」が垂直に立っている。…ボウリング場だ。
ということは、この枝分かれした道の先には色々な娯楽施設が宿泊客を待ち構えている、ということだろうか。そうすると、この島は僕が想像していた「人間の手の加えられていない無人島」というものとは少し違う感じのものであるらしい。
──と、僕達の歩く道から少し外れた道の先に二つの人影が見えた。……宿泊者だろうか?
僕が軽くそんなことを考えていると、多川さんが僕の視線の先にあるものを見て、そういえば、と思い出すように云った。
「お客様が本日の十人目、十一人目のお客様でございます。もう館にはほとんどの宿泊者が来られておりますが、皆七時までは自由時間とさせていただいております。館には娯楽室や図書室もございますのでそこでおくつろぎになられても結構ですし、島の随所にも様々な娯楽施設をご用意させていただいておりますので、ただ今外に出られているお客様もいらっしゃいます。先程あの脇道にいらっしゃったのは真民令様と犬山さつき様でございます」
「へぇ。それじゃ、僕達も館に着いてから三時間くらいはフリーなんだ」
「そうみたいね。……島を散歩するのもいいけど、宿泊客の人達と話すのもいいかもね」
直美は考え考え云った。──そうだ、直美はいつも人との交流を何よりも好む。おかげで僕は直美にいつ変な虫が付かないかとはらはらしているのだ。
そして、僕も直美程じゃないが人との交流を好む。だが、語彙の貧困な僕の口からは、上手い言葉がほいほいと飛び出てくる訳でもない。無い頭をフル回転させて無難な言葉を探し当て、無難に会話をしている。だが、どういうわけか仲間内からは「暴走機関車」の名を頂戴している。あれは確かこの前の酒の席からだ。僕が彼等に何かしたのだろうか。
一日の内で一番暑い時間は最早過ぎ去っていたが、体中、とくに頭からとめどなく溢れ出る汗の量は全く変わらない。むしろ船に乗っていた時の方が風が当たって涼しかった。首筋を伝う汗が殊更気持ち悪い。それは直美も同じらしく、僕と話しながら、時々思い出したように黒髪を除けて首筋に手を当てている。……少しも着崩すことなくスーツを涼しい顔で着こなす多川の気がしれない。
島全体に、娯楽用の人口物がいくつか建てられてはいるが、それ以外は全くと言っていい程に自然だった。生い茂る木々、島を流れる細い川。ぼくは孤島気分を満喫した。
しばらくして――。
「――――…あっ」
僕と、いつの間にか会話に加わっていた多川さんとの話の途中で、唐突に直美が声を上げた。
「え…?――……あぁ…」
直美が指差す方にあるものを認めて、僕はため息ともとれる感嘆の声を漏らした。
僕等が歩いてきた道は、全て微弱な上り坂になっていた。そして、この島のてっぺん――道を上り切ったところに、「それ」はあった。まるで朽ち果てた要塞のような、威厳。まるで横たわった人手のような、自然感。
この島の主であるかのような存在感をたたえて、孔雀館は僕等の前に待ち構えていた。