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「どうしたの?」

 聞き覚えのある声に顔を上げた。ブランコに座った僕の前につぐみが立っている。

「あ……」

 何か言おうとしたけどそれは声にならない。僕は黙り込み、つぐみから顔をそむけてうつむいた。

「なんかあった?」

 つぐみはそんな僕の顔をのぞきこむように聞いてくる。

 今まで僕が見たこともない、優しげな笑みを浮かべて。

 なんでだよ?

 いつもは誰も寄せつけようとせず、そっけない態度をとるくせに。

 今日はずいぶん機嫌がいいんだな? そうか、お母さんが家にいるからか。

 ふと視線を上げると、公園の向こうにアパートが見えた。二階のつぐみの部屋からは、ぼんやりと灯りがもれている。

 電気、ついたんだ。

「西村こそ……帰らなくていいの?」

「ん?」

 僕の声に、微笑んだままのつぐみが首をかしげる。

「お母さん、帰ってきたんだろ?」

「知ってるの?」

「この前見た。西村のお母さんが帰ってきたとこ」

 つぐみがふっと息を漏らすように笑って、そして答えた。

「でも今、男の人が来ていちゃいちゃしてるから。私は邪魔者なの」

 えっ? とつぶやきかけた僕の前に、つぐみが手を差し伸べる。


「な、なに?」

「あんたの知らないこと、教えてあげる」

 そう言ったつぐみが僕の手をとる。

 柔らかくてあたたかい、初めて触れた女の子の手。

「こっちおいで」

「えっ、ちょっと……」

 つぐみに引っ張られるように立ち上がる。僕の座っていたブランコが、キイッと音を立てて揺れる。

 そしてそのまま強引に、僕は滑り台の上まで連れていかれた。

「なにすんだ……」

 そう言いかけて口を閉じる。

 つぐみと並んで立つ、滑り台のてっぺん。

 そこからは、うつむいて座っていたブランコからは見えなかった、僕の知らない景色が見えた。

「ここからなら、海が見えるんだよ。知ってた?」

 つぐみの声がすぐそばから聞こえて、なんとなくくすぐったい。

「知ってた? 瑞希くん」

 つぐみが僕の名前を呼ぶ。それだけで胸がドキドキして息苦しい。

 つないでいた手を離し、小さく首を横に振ると、つぐみは視線をそっと海に向けた。

 決して見えないと思っていたもの。それは僕が見えないと思い込んでいただけのもの。

 ――あんたの思ってる当たり前が、当たり前じゃないことだってあるんだよ。

 つぐみはそれを僕に教えてくれた。


「お母さんが……変なんだ」

 気がつくと僕は、つぐみの隣で思いを吐き出していた。

「お父さんが死んでから、お母さんおかしくなっちゃった。だけどどうしたらいいのかわからない」

 そう言いながら、自分の手足が震えていることに気がつく。

「どうしよう。怖い。怖いから逃げてきた。お母さんから」

「瑞希くん」

「怖いんだ……」

 堪えていたはずの涙がまた頬を伝わり、僕は慌ててそれを拭う。

 そんな情けない僕の姿を、つぐみがじっと見ているのがわかる。

 ああ、僕はなんて泣き虫なんだ。女の子の前で泣くなんて恥ずかしすぎる。

 僕は海を見るふりをして、つぐみから目をそらした。

 雨上がりの灰色の海。もっと僕が小さい頃、おばあちゃんと見たこの街の海は、明るくて澄んだ青だったのに。

 ――お父さんは……嘘つきね。

 どうして……どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 ――お母さんと瑞希のことを、一生守ってくれるって言った。

 そうだ。お父さんは、嘘つきだ。


 その時僕から離れていたつぐみの手が、もう一度僕の手に触れ、それをぎゅっと握りしめた。

 つぐみ? なんで?

 聞きたくても聞くことなんてできない。つぐみは僕の隣でまっすぐ、海の彼方を見つめている。

 僕たちはそこに立っていた。体を寄せ合うようにして手をつなぎ、狭い滑り台の上に立っていた。

「ねぇ、瑞希くん」

 突然つぐみが僕に言った。

「真夜中に咲く朝顔って、見たことある?」

「真夜中に……咲く朝顔?」

「うん」

 隣を向いたら、僕を見ているつぐみと目が合った。

「そんなのあるはずがない。朝顔は朝咲く花だから」

 僕の声につぐみが笑った。

「言ったでしょ? あんたの思ってる当たり前が、当たり前じゃないことだってあるって」

「でも……」

「ほんとだよ。見せてあげようか?」

 つぐみは少しいたずらっぽい表情で、内緒話でもするかのように、僕の耳元にささやいた。

 ――真夜中にあんたが、この公園まで一人で出て来れるなら……一緒に見よう。

 僕は黙ってつぐみの顔を見つめる。つぐみも僕のことをじっと見ている。

 その時滑り台の下から僕の名前を呼ぶ声がした。


「瑞希! こんな所で何やってんだよ!」

 下からこちらを見上げるように叫んでいるのは、従兄弟の比呂くんだ。

 つぐみの手がさりげなく僕から離れる。

「お前のお母さんが海でおぼれた! 向こうの砂浜が大騒ぎになってて、今救急車で運ばれた!」

「え?」

「早く来い! うちのお母さんが病院まで連れてってくれるって!」

 意味がわからず立ち尽くしたままの僕の背中を、つぐみがそっと押した。

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