8
「どうしたの?」
聞き覚えのある声に顔を上げた。ブランコに座った僕の前につぐみが立っている。
「あ……」
何か言おうとしたけどそれは声にならない。僕は黙り込み、つぐみから顔をそむけてうつむいた。
「なんかあった?」
つぐみはそんな僕の顔をのぞきこむように聞いてくる。
今まで僕が見たこともない、優しげな笑みを浮かべて。
なんでだよ?
いつもは誰も寄せつけようとせず、そっけない態度をとるくせに。
今日はずいぶん機嫌がいいんだな? そうか、お母さんが家にいるからか。
ふと視線を上げると、公園の向こうにアパートが見えた。二階のつぐみの部屋からは、ぼんやりと灯りがもれている。
電気、ついたんだ。
「西村こそ……帰らなくていいの?」
「ん?」
僕の声に、微笑んだままのつぐみが首をかしげる。
「お母さん、帰ってきたんだろ?」
「知ってるの?」
「この前見た。西村のお母さんが帰ってきたとこ」
つぐみがふっと息を漏らすように笑って、そして答えた。
「でも今、男の人が来ていちゃいちゃしてるから。私は邪魔者なの」
えっ? とつぶやきかけた僕の前に、つぐみが手を差し伸べる。
「な、なに?」
「あんたの知らないこと、教えてあげる」
そう言ったつぐみが僕の手をとる。
柔らかくてあたたかい、初めて触れた女の子の手。
「こっちおいで」
「えっ、ちょっと……」
つぐみに引っ張られるように立ち上がる。僕の座っていたブランコが、キイッと音を立てて揺れる。
そしてそのまま強引に、僕は滑り台の上まで連れていかれた。
「なにすんだ……」
そう言いかけて口を閉じる。
つぐみと並んで立つ、滑り台のてっぺん。
そこからは、うつむいて座っていたブランコからは見えなかった、僕の知らない景色が見えた。
「ここからなら、海が見えるんだよ。知ってた?」
つぐみの声がすぐそばから聞こえて、なんとなくくすぐったい。
「知ってた? 瑞希くん」
つぐみが僕の名前を呼ぶ。それだけで胸がドキドキして息苦しい。
つないでいた手を離し、小さく首を横に振ると、つぐみは視線をそっと海に向けた。
決して見えないと思っていたもの。それは僕が見えないと思い込んでいただけのもの。
――あんたの思ってる当たり前が、当たり前じゃないことだってあるんだよ。
つぐみはそれを僕に教えてくれた。
「お母さんが……変なんだ」
気がつくと僕は、つぐみの隣で思いを吐き出していた。
「お父さんが死んでから、お母さんおかしくなっちゃった。だけどどうしたらいいのかわからない」
そう言いながら、自分の手足が震えていることに気がつく。
「どうしよう。怖い。怖いから逃げてきた。お母さんから」
「瑞希くん」
「怖いんだ……」
堪えていたはずの涙がまた頬を伝わり、僕は慌ててそれを拭う。
そんな情けない僕の姿を、つぐみがじっと見ているのがわかる。
ああ、僕はなんて泣き虫なんだ。女の子の前で泣くなんて恥ずかしすぎる。
僕は海を見るふりをして、つぐみから目をそらした。
雨上がりの灰色の海。もっと僕が小さい頃、おばあちゃんと見たこの街の海は、明るくて澄んだ青だったのに。
――お父さんは……嘘つきね。
どうして……どうしてこんなことになってしまったんだろう。
――お母さんと瑞希のことを、一生守ってくれるって言った。
そうだ。お父さんは、嘘つきだ。
その時僕から離れていたつぐみの手が、もう一度僕の手に触れ、それをぎゅっと握りしめた。
つぐみ? なんで?
聞きたくても聞くことなんてできない。つぐみは僕の隣でまっすぐ、海の彼方を見つめている。
僕たちはそこに立っていた。体を寄せ合うようにして手をつなぎ、狭い滑り台の上に立っていた。
「ねぇ、瑞希くん」
突然つぐみが僕に言った。
「真夜中に咲く朝顔って、見たことある?」
「真夜中に……咲く朝顔?」
「うん」
隣を向いたら、僕を見ているつぐみと目が合った。
「そんなのあるはずがない。朝顔は朝咲く花だから」
僕の声につぐみが笑った。
「言ったでしょ? あんたの思ってる当たり前が、当たり前じゃないことだってあるって」
「でも……」
「ほんとだよ。見せてあげようか?」
つぐみは少しいたずらっぽい表情で、内緒話でもするかのように、僕の耳元にささやいた。
――真夜中にあんたが、この公園まで一人で出て来れるなら……一緒に見よう。
僕は黙ってつぐみの顔を見つめる。つぐみも僕のことをじっと見ている。
その時滑り台の下から僕の名前を呼ぶ声がした。
「瑞希! こんな所で何やってんだよ!」
下からこちらを見上げるように叫んでいるのは、従兄弟の比呂くんだ。
つぐみの手がさりげなく僕から離れる。
「お前のお母さんが海でおぼれた! 向こうの砂浜が大騒ぎになってて、今救急車で運ばれた!」
「え?」
「早く来い! うちのお母さんが病院まで連れてってくれるって!」
意味がわからず立ち尽くしたままの僕の背中を、つぐみがそっと押した。