表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/17

 雨は何日も降り続いた。

 僕は毎日学校へ行き、騒がしい教室の中、一人ぼっちで座っていた。同じように一人でぽつんと座っている、つぐみの背中を眺めながら。


 やっと雨の上がったその日。家へ帰ると、部屋の中はガランと静まり返っていた。

 伯母さんの車はなかったし、美緒ちゃんは部活で、比呂くんは塾。

 いつもは気を使って音を立てずに上る階段を、勢いつけて駆け上がる。

 僕だってこんな家にはいたくない。出て行けるものならとっくに出て行っている。

 だけど僕だけの力ではどうしようもないんだ。

 ランドセルを背負ったままドアを開ける。

「お母さん?」

 いつも寝ているお母さんの布団がからっぽだ。

「お母さん? どこ?」

 開いている窓から、蒸し暑い風が吹き込む。僕は窓辺に駆け寄って外を見た。

 くっつき合った民家と、狭い路地の向こうに見える、灰色の海。

 空はまだどんよりと曇っていて、じめじめとした空気が肌にまとわりついてくる。

 嫌な予感がした。胸がざわついて仕方ない。

「お母さん……」

 そうつぶやくと、僕は部屋を飛び出し、狭い階段を駆け下りた。


 海まで走ればすぐに着く。

 証拠はないけど、お母さんはなぜかそこにいるような気がした。

 民家の間を駆け抜け、海沿いの道に出て、有料道路の下の薄暗いトンネルをくぐる。

 するとべたついた風と一緒に、僕の目の前によどんだ海が見えた。

 ――どうしてお母さんと瑞希を、連れて行ってくれなかったのかしらね……。

 その時、いつかのお母さんの言葉が頭に浮かんだ。

 ――どうやったら行けるの? 私たち、お父さんの所へ……。

 もしかしてお母さんは死ぬつもりなのかもしれない。

「お母さん!」

 強く吹き始めた風の中、僕は叫びながら砂浜を見回す。

 すると遠くの波打ち際に、よく知っている後ろ姿が見えた。


「お母さん! 何やってるの! こんなところでっ」

 駆け寄って、僕はお母さんにそう言った。

 お母さんはゆっくりと、本当にゆっくりと僕に振り返る。

「……洋ちゃん?」

 違う。それはお父さんの名前だ。

「お母さん。僕は瑞希だよ? お父さんじゃないよ?」

「ああ……瑞希……」

 お母さんが僕の名前をつぶやいて、泣きそうな顔で微笑む。

 やめてよ。僕はお母さんの、そんな顔は見たくない。

「瑞希。お母さんはね、ここで初めてお父さんと出会ったの」

「え?」

「高校生の頃だったなぁ……あの頃はここでまだ花火大会をやっていて……花火の日にお父さんに声をかけられたのよ」

 ふふっとお母さんが小さく笑う。

 お父さんとお母さんが出会った頃の話なんて、僕は聞いたことがなかった。

「お父さんに『付き合おう』って言われたのも、『結婚しよう』って言われたのもここなの。懐かしいな……」

 そう言ってお母さんは僕から目をそらし、ぼんやりとした水平線を見つめる。

「ねぇ、瑞希も知ってるでしょう? お父さんは強くて優しい人だった」

「うん……」

「お母さんのことを……お母さんと瑞希のことを、一生守ってくれるって言った」

 僕は黙ってお母さんの痩せた横顔を見ていた。

「お父さんは……嘘つきね」

 ぎゅっと強く目を閉じて、涙がこぼれそうになるのをこらえる。

 強くて優しかったお父さん。サッカーが上手かったお父さん。僕が落ち込んでいると、おもしろいことを言って笑わせてくれたお父さん。試合で活躍した日は、僕の頭をこっそりなでてくれたお父さん。

 全部好きだった。全部全部……お父さんの全部が……。


「悲しいのはお母さんだけじゃない!」

 思わず叫んだ僕の声に、お母さんが振り返る。

「僕だって悲しいけど、ちゃんと学校行ってるじゃないか。だからお母さんも、もっとしっかりしてよ! 大人なんだから……お母さんは、大人なんだから!」

「瑞希……」

 こらえていたつもりの涙があふれ出た。ずっと言いたくても言えなかった言葉。言ってはいけないと、心の奥に閉じ込めておいた言葉。

 お母さんは僕を見ていない。お母さんが見ているのは、いつだってお父さんだけなんだ。

「瑞希。ごめん……ごめんね?」

 お母さんの手がすっと伸びて、泣き出した僕の体を抱き寄せた。

「ごめんね、ごめんね。ごめんなさい」

 何度も何度も謝りながら、お母さんも泣いていた。

「でも……でもね。お母さん……もう、無理みたい」

 あたたかいぬくもりが僕から離れる。

「お母さん、一人じゃ何にもできないの。もうどうしたらいいのかわからない。ねぇ、瑞希、一緒にお父さんの所へ行こう?」

 目の前にいるお母さんを見つめながら、僕は首を横に振る。

「お願い。一人で行くのは寂しいの。三人一緒じゃなきゃ……駄目なのよ」

 お母さんの指先が僕の首元に触れる。夏なのに氷みたいに冷たいお母さんの手。

 そしてその手に、ゆっくりと力が込められていく。

 お母さん……どうして――。

「いやだっ!」

 思い切り突き飛ばしたお母さんの体が砂浜に沈んだ。

「僕はっ……僕はまだ死にたくない!」

 砂の上に倒れたお母さんが僕を見上げている。

 この僕に、すがりつくような目をして――。

 砂を蹴って駆け出した。一刻も早くこの場から逃げ出したかった。

 倒れたままのお母さんのことは、二度と振り返らなかった。


 どうしてあの時、僕はお母さんを一人にしてしまったのだろう。

 ――いいか、瑞希、よく聞いとけよ?

 あれはお父さんが倒れる数日前。サッカーの試合帰りに、突然僕に言った言葉。

 ――瑞希も知ってるよな? お母さんがすごく泣き虫なこと。

 うん、知ってる。テレビを見ても映画を見ても、すぐに泣いちゃうお母さん。

 ――だからな。大きくなったら、瑞希がお母さんを守ってやらなきゃ駄目なんだぞ?

 どうして急に、お父さんはあんなことを言ったのか?

 もしかしてお父さんは、自分がこの世からいなくなることを、予感していたんじゃないか?

「守るって言ったって……どうすればいいのか、わかんないよ」

 僕の言葉にお父さんは笑って言った。

 ――強くなれ、瑞希。強くて優しい男になるんだ。

 お父さんはその大きな手で、僕の頭をくしゃくしゃとなでた。

 僕がサッカーチームの仲間と上手くいっていないことも、お父さんはちゃんと知ってくれていたんだ。

 だけどそれから数日後、僕のお父さんは、帰らぬ人となってしまった。


 僕はお母さんを守ってあげなければいけなかった。なのに僕にはまだそれができなかった。

 あの日、お母さんを一人浜辺に残したこと。

 僕は後悔することになる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ