7
雨は何日も降り続いた。
僕は毎日学校へ行き、騒がしい教室の中、一人ぼっちで座っていた。同じように一人でぽつんと座っている、つぐみの背中を眺めながら。
やっと雨の上がったその日。家へ帰ると、部屋の中はガランと静まり返っていた。
伯母さんの車はなかったし、美緒ちゃんは部活で、比呂くんは塾。
いつもは気を使って音を立てずに上る階段を、勢いつけて駆け上がる。
僕だってこんな家にはいたくない。出て行けるものならとっくに出て行っている。
だけど僕だけの力ではどうしようもないんだ。
ランドセルを背負ったままドアを開ける。
「お母さん?」
いつも寝ているお母さんの布団がからっぽだ。
「お母さん? どこ?」
開いている窓から、蒸し暑い風が吹き込む。僕は窓辺に駆け寄って外を見た。
くっつき合った民家と、狭い路地の向こうに見える、灰色の海。
空はまだどんよりと曇っていて、じめじめとした空気が肌にまとわりついてくる。
嫌な予感がした。胸がざわついて仕方ない。
「お母さん……」
そうつぶやくと、僕は部屋を飛び出し、狭い階段を駆け下りた。
海まで走ればすぐに着く。
証拠はないけど、お母さんはなぜかそこにいるような気がした。
民家の間を駆け抜け、海沿いの道に出て、有料道路の下の薄暗いトンネルをくぐる。
するとべたついた風と一緒に、僕の目の前によどんだ海が見えた。
――どうしてお母さんと瑞希を、連れて行ってくれなかったのかしらね……。
その時、いつかのお母さんの言葉が頭に浮かんだ。
――どうやったら行けるの? 私たち、お父さんの所へ……。
もしかしてお母さんは死ぬつもりなのかもしれない。
「お母さん!」
強く吹き始めた風の中、僕は叫びながら砂浜を見回す。
すると遠くの波打ち際に、よく知っている後ろ姿が見えた。
「お母さん! 何やってるの! こんなところでっ」
駆け寄って、僕はお母さんにそう言った。
お母さんはゆっくりと、本当にゆっくりと僕に振り返る。
「……洋ちゃん?」
違う。それはお父さんの名前だ。
「お母さん。僕は瑞希だよ? お父さんじゃないよ?」
「ああ……瑞希……」
お母さんが僕の名前をつぶやいて、泣きそうな顔で微笑む。
やめてよ。僕はお母さんの、そんな顔は見たくない。
「瑞希。お母さんはね、ここで初めてお父さんと出会ったの」
「え?」
「高校生の頃だったなぁ……あの頃はここでまだ花火大会をやっていて……花火の日にお父さんに声をかけられたのよ」
ふふっとお母さんが小さく笑う。
お父さんとお母さんが出会った頃の話なんて、僕は聞いたことがなかった。
「お父さんに『付き合おう』って言われたのも、『結婚しよう』って言われたのもここなの。懐かしいな……」
そう言ってお母さんは僕から目をそらし、ぼんやりとした水平線を見つめる。
「ねぇ、瑞希も知ってるでしょう? お父さんは強くて優しい人だった」
「うん……」
「お母さんのことを……お母さんと瑞希のことを、一生守ってくれるって言った」
僕は黙ってお母さんの痩せた横顔を見ていた。
「お父さんは……嘘つきね」
ぎゅっと強く目を閉じて、涙がこぼれそうになるのをこらえる。
強くて優しかったお父さん。サッカーが上手かったお父さん。僕が落ち込んでいると、おもしろいことを言って笑わせてくれたお父さん。試合で活躍した日は、僕の頭をこっそりなでてくれたお父さん。
全部好きだった。全部全部……お父さんの全部が……。
「悲しいのはお母さんだけじゃない!」
思わず叫んだ僕の声に、お母さんが振り返る。
「僕だって悲しいけど、ちゃんと学校行ってるじゃないか。だからお母さんも、もっとしっかりしてよ! 大人なんだから……お母さんは、大人なんだから!」
「瑞希……」
こらえていたつもりの涙があふれ出た。ずっと言いたくても言えなかった言葉。言ってはいけないと、心の奥に閉じ込めておいた言葉。
お母さんは僕を見ていない。お母さんが見ているのは、いつだってお父さんだけなんだ。
「瑞希。ごめん……ごめんね?」
お母さんの手がすっと伸びて、泣き出した僕の体を抱き寄せた。
「ごめんね、ごめんね。ごめんなさい」
何度も何度も謝りながら、お母さんも泣いていた。
「でも……でもね。お母さん……もう、無理みたい」
あたたかいぬくもりが僕から離れる。
「お母さん、一人じゃ何にもできないの。もうどうしたらいいのかわからない。ねぇ、瑞希、一緒にお父さんの所へ行こう?」
目の前にいるお母さんを見つめながら、僕は首を横に振る。
「お願い。一人で行くのは寂しいの。三人一緒じゃなきゃ……駄目なのよ」
お母さんの指先が僕の首元に触れる。夏なのに氷みたいに冷たいお母さんの手。
そしてその手に、ゆっくりと力が込められていく。
お母さん……どうして――。
「いやだっ!」
思い切り突き飛ばしたお母さんの体が砂浜に沈んだ。
「僕はっ……僕はまだ死にたくない!」
砂の上に倒れたお母さんが僕を見上げている。
この僕に、すがりつくような目をして――。
砂を蹴って駆け出した。一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
倒れたままのお母さんのことは、二度と振り返らなかった。
どうしてあの時、僕はお母さんを一人にしてしまったのだろう。
――いいか、瑞希、よく聞いとけよ?
あれはお父さんが倒れる数日前。サッカーの試合帰りに、突然僕に言った言葉。
――瑞希も知ってるよな? お母さんがすごく泣き虫なこと。
うん、知ってる。テレビを見ても映画を見ても、すぐに泣いちゃうお母さん。
――だからな。大きくなったら、瑞希がお母さんを守ってやらなきゃ駄目なんだぞ?
どうして急に、お父さんはあんなことを言ったのか?
もしかしてお父さんは、自分がこの世からいなくなることを、予感していたんじゃないか?
「守るって言ったって……どうすればいいのか、わかんないよ」
僕の言葉にお父さんは笑って言った。
――強くなれ、瑞希。強くて優しい男になるんだ。
お父さんはその大きな手で、僕の頭をくしゃくしゃとなでた。
僕がサッカーチームの仲間と上手くいっていないことも、お父さんはちゃんと知ってくれていたんだ。
だけどそれから数日後、僕のお父さんは、帰らぬ人となってしまった。
僕はお母さんを守ってあげなければいけなかった。なのに僕にはまだそれができなかった。
あの日、お母さんを一人浜辺に残したこと。
僕は後悔することになる。