6
「えー、今日は夏休みの水やり係を決めたいと思う」
その日は朝から梅雨らしい天気だった。先生の口から出た『夏休み』という言葉も、こんな肌寒い雨の日にはピンとこない。
「誰かやってくれる人はいないか?」
教室中がざわざわと騒がしい。『水やり係』ってなんなんだ?
すると隣の篠田が、誰にでもなくひとり言のようにつぶやいた。
「誰もやりたいやつなんかいねーし。夏休み毎日学校に来て、花に水やりなんてめんどくせー」
僕が隣を向くと、にやりと笑う篠田と目が合った。
なんなんだ、こいつ。また何かたくらんでる?
篠田は僕から目をそらすと、すっと立ち上がって先生に言った。
「先生! 僕は西村さんがいいと思います。いつも花壇で花の世話してくれてるし」
周りのみんながざわめき出す。パチパチと拍手するものもいる。
僕はとっさにつぐみを見た。僕より前の席に座っている彼女が、どんな顔をしているのかここからはわからない。
「西村か。そうだな。いつも自主的に花壇の手入れをしてくれているしな」
先生も納得したようにうなずいている。
「西村。お前、他に係をやっていないし。どうだ? 夏休みの水やりをお願いしてもいいか?」
先生の声に篠田が拍手して「お願いしまーす」なんて声を上げる。それに合わせるように周りのみんなも手を叩き始めた。
なんかこれ、わざとらしくないか? 面倒な仕事をみんなでつぐみに押し付けているような気がする。
そんなことを思った僕の耳に、つぐみの声が聞こえた。
「いいよ。別に」
隣の篠田がははっと笑う。
「ありがとう西村。それじゃあ、あともう一人」
先生の声と同時に篠田が足を伸ばし、前の席の椅子を蹴飛ばした。すると椅子に座っていた男子が立ち上がり、さっきの篠田と同じように言う。
「僕は上原くんがいいと思います」
「え……」
「上原くん、まだ係決まってないし。西村さんと仲いいし」
仲なんてよくない。
パチパチと手を叩く音が隣から聞こえた。篠田が僕をちらりと見て、そして大きな声で言う。
「さんせーい。僕も上原くんがいいと思いまーす」
さっきと同じように、また教室中のみんなが拍手する。僕は黙って、ぴくりとも動かないつぐみの背中を見つめていた。
「どうだ? 上原。晴れた日は学校に来て、花に水をあげる仕事なんだが。西村と一緒に協力して、やってくれないか? 早く学校になじむために、クラスの仕事を引き受けるのもいいことだと先生は思う」
「……はい」
篠田の押し殺すような笑い声が隣から聞こえた。僕は机の下でぎゅっと両手を握る。
「難しく考えなくてもいいぞ。用事がある時は無理しなくてもいい。先生も学校にいる時は顔出すから」
黙ってうなずいた僕の肩を、篠田がポンポンっと叩いた。
「よかったな、上原。西村と一緒に仕事できて」
顔を上げて隣を見ると、篠田が「がんばれよ」と言って、バカにしたように笑った。
校舎を出て、雨の中に傘を開く。水たまりを踏みしめ歩き出すと、下級生の男の子たちがふざけながら僕を追い越していった。
篠田の誘いを断った日から、僕に話しかけてくる人はほとんどいなくなった。
目立ちたくない。一人でいい。友達なんかいらない。もう二度とあんな思いはしなくないから。
そう思っていたはずなのに。慣れない学校で一人ぼっちでいると、やっぱり寂しい。
僕はどうしたいんだろう。友達が欲しいのか、欲しくないのか。みんなと一緒にいたいのか、いたくないのか。自分で自分がわからない。
傘に当たる雨の音を聞きながら顔を上げる。前を歩いている女の子がつぐみだということに、僕はその時初めて気がついた。
何度も足を速めては速度を落とす。追いつきそうで追いつかない距離。
――学校で会っても、私に話しかけないで。
大丈夫、ここは学校じゃない。
ぎゅっと傘の柄を握りしめ、もう一度足を速める。もう少しでつぐみに追いつきそうになった時、彼女が突然走り出した。
「お母さん!」
僕は立ち止まり、つぐみの姿を目で追う。つぐみは『お母さん』と呼んだ人に駆け寄って、そして笑った。
つぐみが……笑ってる。
いつものような、ちょっと大人びた表情じゃなくて、本当に嬉しそうに。どこにでもいる普通の小学生の女の子のように。
あんなふうに笑えるんだ。つぐみって。
つぐみのお母さんは、高いヒールの靴を履いて、真っ赤な傘を差していた。
その傘の中で、お母さんがつぐみに何か話しかける。つぐみは楽しそうにそれに答えている。
いくつか言葉を交わした後、雨の中立ち尽くす僕を置いて、二人は傘を並べて歩き始めた。
電気もつかない家に子どもを置いて、男の人とどこかへ行っちゃうお母さん。
そんなお母さんとの生活を『おかしくない』と言ったつぐみ。
だけど今の笑顔を見たら、僕にもその意味が、なんとなくわかった気がした。