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 その日の放課後、僕は初めて篠田の誘いを断った。

「ごめん。今日は用事があるから」

 篠田は不満そうに僕の顔を見つめたあと「あっそ」とだけ言って、仲間と一緒に教室を出て行った。

「はぁ……」

 僕は誰にも気づかれないように息を吐き、そして教室の中を見回す。

 だけどそこにつぐみの姿は、もうなかった。


 伯父さんの家に帰ると、お母さんは今日も布団の中だった。

「ただいま」

 僕の声にお母さんはやっぱり答えない。

 いつものことなのに、なぜか今日はイライラして、僕はランドセルを少し乱暴に床に投げつけ、何も言わずに部屋を出た。


 公園には今日も人影はない。

 錆びついたブランコに座って、僕は公園のそばのアパートを見上げる。

 つぐみは今、あの部屋にいるのだろうか。

 学校を出る時、校庭の隅にある花壇を見たけど、そこにつぐみはいなかった。

 だからきっともう家へ帰っているはずだ。

 行ってみようか? いや、いきなりそんなことしたら変だよな。だけど学校ではもっと話しかけにくいし。

 今朝のこと、僕はつぐみにどうしても一言、謝りたかったのだ。

 うつむいて、ブランコのチェーンをぎゅっと握る。

 こんなふうに頭の中で考えるだけで、僕はいつも大事なことを行動に移せない。そんな自分がものすごく嫌いだった。

 キイっと錆びた音が聞こえた。ハッと顔を上げると、隣のブランコがそっと揺れていた。


「つぐ……西村っ」

 僕は驚いて立ち上がる。

 つぐみはかすかに揺れるブランコのそばに立ち、黙って僕を見つめたあと、ふいっと顔をそむけて歩き出す。

 手には今日も大きなペットボトルをいくつもぶら下げていた。

「西村っ、あのっ」

 つぐみは僕を無視するように水道まで行き、蛇口をひねる。勢いよく流れ出た水に空のペットボトルが差し出される。

「今朝は……ごめん!」

 つぐみは僕を見ないままつぶやく。

「どうせ篠田にやらされたんでしょ?」

「でもっ、蹴ったのは僕だから……だから、ごめんなさい!」

 頭を下げてから顔を上げると、僕をじっと見ているつぐみと目が合った。

「あの、顔……大丈夫だった?」

 つぐみはまた僕から顔をそむけ、流れる水に目を落としながら答える。

「平気。こんなの慣れてるから」

 今までも篠田たちに、こんなことをされていたのだろうか?

 僕はつぐみのそばに黙って立ち尽くす。つぐみの持ったペットボトルから水があふれ出すのが見える。

 だけどつぐみはその水を見つめたまま動こうとしない。

「それ、またシャワーに使うの?」

 僕の声にピクリと動いたつぐみが、思い出したように手を伸ばし、二本目のペットボトルに水を入れ始める。

「これは飲み水」

「え?」

「篠田たちに聞いたんでしょ? うち今、電気も水道も止められてるの」

 あの話本当だったんだ。

「止められてるって……お父さんとお母さんは?」

「お父さんは最初からいない。お母さんは男の人とどこか行った。でも大丈夫。もうすぐ帰ってくる。帰ってきたらお母さん、お金払ってくれるから」

 持ってきたすべてのペットボトルに水を入れ終わると、つぐみは蛇口を閉め、重そうなペットボトルを抱えて歩き始める。

「ちょっと待って!」

 余計なお世話だとはわかっていたけど、夕空の下で見るつぐみの背中が寂しく見えて、僕はつい追いかけていた。

「そんなの……変だと思う」

 電気もつかない家に子どもを置いて、男の人とどこか行っちゃうお母さんなんて、聞いたことがない。

 つぐみは公園の真ん中で立ち止まり、僕にゆっくりと振り返る。

「ご飯は? ご飯はどうしてるんだよ?」

「給食があるでしょ? 学校は嫌いだけど、給食が食べれるから行ってるの、私」

 つぐみが「もういいでしょ?」といった感じで背中を向ける。だけど僕はそんなつぐみに駆け寄って、ペットボトルを持った腕をつかんでいた。思ったよりもずっと細い腕を。

「おかしいよ、そんなの! 誰か大人に……先生とかに相談したほうがいい」

 するとつぐみが僕の顔を見つめて、ふっと息を吐くように笑った。

「おかしくないよ」

 僕はつぐみをつかんだ手に力をこめる。

「あんたの思ってる当たり前が、当たり前じゃないことだってあるんだよ」

 僕の手がつぐみから離れる。つぐみはもう一度小さく笑うと、僕を残して公園を出て行く。

 細い体のつぐみが持つペットボトルは、ものすごく重たそうに僕には見えた。


 ぼんやりとつぐみの言葉を考えながら家へ帰ると、台所から美緒ちゃんの声が聞こえてきた。

「ママ。私いつまで比呂と同じ部屋なの? 狭くてもう耐えられない」

 美緒ちゃんの声に伯母さんが答える。

「もうちょっと我慢して。あの人たちが出て行くまで」

「なんで出て行かないの? あの人たち。叔父さんが亡くなって保険金入ったって言ってたじゃん。そのお金でアパートでも何でも借りれるんでしょ?」

「美緒……」

「出て行ってって言えばいいじゃん。ここは私たちの家なんだし。ママが言えないならパパに言ってもらえば?」

 それ以上は聞きたくないと思うのに、足がそこから動かない。

「無理よ。あの人はパパの妹だもの。パパは妹のことが可愛いから、心配で放っておけないんでしょ? あの二人をここへ呼んだのもパパだしね」

「じゃあずっとあの人たちここにいるの? やだよ、そんなの! ママが言えないなら私が言う! 私たちの部屋、返してって!」

「あ、ちょっと美緒!」

 バンッと乱暴にドアを開く音がして、美緒ちゃんが台所から出てきた。

 そしてその場に立ち尽くしていた僕と目が合って、あからさまに顔をしかめる。

「ああ、帰ってたの?」

 美緒ちゃんの後ろから伯母さんが出てきて僕に言う。

「美緒。その話はあとでちゃんとパパに話しておくから。テスト勉強あるんでしょ? もう部屋に行きなさい」

 伯母さんの声に、美緒ちゃんは不満そうな表情をして、それから僕を押しのけるようにして二階へ上がって言った。

 僕はどうしたらいいのかわからなくて、ただその場に立ち尽くす。

 すると伯母さんが大きなため息をつきながら、ひとり言のようにつぶやいた。

「ああもう……結局悪者になるのは私なんだから」

 伯母さんはそう言うと、僕を残して台所へ戻っていく。

 わからない。どういう意味?

 伯母さんは僕とお母さんをいじめる悪者。でも伯母さんにとっては僕たちが悪者。

 僕たちがいるせいで伯母さんは美緒ちゃんたちに責められて、伯父さんに文句を言えば、今度は伯母さんが悪者になってしまう。

 じゃあ一番悪いのは誰なんだろう。


 音を立てないよう、静かに階段を上がって部屋に入る。

「お帰り。瑞希」

 顔を上げるとお母さんが窓辺にぼんやりと立っていた。

 窓から吹き込む生ぬるい風。真っ暗な部屋にぼうっと浮かぶお母さんの白い服。

 幽霊みたいだ……その場に立ち尽くしたままそう思う。

「お父さん……どうして一人で行っちゃったのかしらね……」

 お母さんの声が僕の耳に聞こえてきた。

「私たちいつも三人一緒だったのに……ねぇ、夏に行った奥多摩のキャンプ、楽しかったよねぇ。川原でバーベキューしてテント張って三人で寝て……どうしてお父さん、お母さんと瑞希を連れて行ってくれなかったのかしらね……」

「お母さん……大丈夫?」

 お母さんが蒼白い顔で僕を見て、ふうっと笑いかける。そしてゆっくりと視線をそらし、窓の外を見つめてつぶやく。

「ねぇ瑞希、教えて? どうやったら行けるの? 私たち、お父さんの所へ……」

 今にも消えてしまいそうなその横顔を、僕はただ黙って見ているだけだった。

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