5
その日の放課後、僕は初めて篠田の誘いを断った。
「ごめん。今日は用事があるから」
篠田は不満そうに僕の顔を見つめたあと「あっそ」とだけ言って、仲間と一緒に教室を出て行った。
「はぁ……」
僕は誰にも気づかれないように息を吐き、そして教室の中を見回す。
だけどそこにつぐみの姿は、もうなかった。
伯父さんの家に帰ると、お母さんは今日も布団の中だった。
「ただいま」
僕の声にお母さんはやっぱり答えない。
いつものことなのに、なぜか今日はイライラして、僕はランドセルを少し乱暴に床に投げつけ、何も言わずに部屋を出た。
公園には今日も人影はない。
錆びついたブランコに座って、僕は公園のそばのアパートを見上げる。
つぐみは今、あの部屋にいるのだろうか。
学校を出る時、校庭の隅にある花壇を見たけど、そこにつぐみはいなかった。
だからきっともう家へ帰っているはずだ。
行ってみようか? いや、いきなりそんなことしたら変だよな。だけど学校ではもっと話しかけにくいし。
今朝のこと、僕はつぐみにどうしても一言、謝りたかったのだ。
うつむいて、ブランコのチェーンをぎゅっと握る。
こんなふうに頭の中で考えるだけで、僕はいつも大事なことを行動に移せない。そんな自分がものすごく嫌いだった。
キイっと錆びた音が聞こえた。ハッと顔を上げると、隣のブランコがそっと揺れていた。
「つぐ……西村っ」
僕は驚いて立ち上がる。
つぐみはかすかに揺れるブランコのそばに立ち、黙って僕を見つめたあと、ふいっと顔をそむけて歩き出す。
手には今日も大きなペットボトルをいくつもぶら下げていた。
「西村っ、あのっ」
つぐみは僕を無視するように水道まで行き、蛇口をひねる。勢いよく流れ出た水に空のペットボトルが差し出される。
「今朝は……ごめん!」
つぐみは僕を見ないままつぶやく。
「どうせ篠田にやらされたんでしょ?」
「でもっ、蹴ったのは僕だから……だから、ごめんなさい!」
頭を下げてから顔を上げると、僕をじっと見ているつぐみと目が合った。
「あの、顔……大丈夫だった?」
つぐみはまた僕から顔をそむけ、流れる水に目を落としながら答える。
「平気。こんなの慣れてるから」
今までも篠田たちに、こんなことをされていたのだろうか?
僕はつぐみのそばに黙って立ち尽くす。つぐみの持ったペットボトルから水があふれ出すのが見える。
だけどつぐみはその水を見つめたまま動こうとしない。
「それ、またシャワーに使うの?」
僕の声にピクリと動いたつぐみが、思い出したように手を伸ばし、二本目のペットボトルに水を入れ始める。
「これは飲み水」
「え?」
「篠田たちに聞いたんでしょ? うち今、電気も水道も止められてるの」
あの話本当だったんだ。
「止められてるって……お父さんとお母さんは?」
「お父さんは最初からいない。お母さんは男の人とどこか行った。でも大丈夫。もうすぐ帰ってくる。帰ってきたらお母さん、お金払ってくれるから」
持ってきたすべてのペットボトルに水を入れ終わると、つぐみは蛇口を閉め、重そうなペットボトルを抱えて歩き始める。
「ちょっと待って!」
余計なお世話だとはわかっていたけど、夕空の下で見るつぐみの背中が寂しく見えて、僕はつい追いかけていた。
「そんなの……変だと思う」
電気もつかない家に子どもを置いて、男の人とどこか行っちゃうお母さんなんて、聞いたことがない。
つぐみは公園の真ん中で立ち止まり、僕にゆっくりと振り返る。
「ご飯は? ご飯はどうしてるんだよ?」
「給食があるでしょ? 学校は嫌いだけど、給食が食べれるから行ってるの、私」
つぐみが「もういいでしょ?」といった感じで背中を向ける。だけど僕はそんなつぐみに駆け寄って、ペットボトルを持った腕をつかんでいた。思ったよりもずっと細い腕を。
「おかしいよ、そんなの! 誰か大人に……先生とかに相談したほうがいい」
するとつぐみが僕の顔を見つめて、ふっと息を吐くように笑った。
「おかしくないよ」
僕はつぐみをつかんだ手に力をこめる。
「あんたの思ってる当たり前が、当たり前じゃないことだってあるんだよ」
僕の手がつぐみから離れる。つぐみはもう一度小さく笑うと、僕を残して公園を出て行く。
細い体のつぐみが持つペットボトルは、ものすごく重たそうに僕には見えた。
ぼんやりとつぐみの言葉を考えながら家へ帰ると、台所から美緒ちゃんの声が聞こえてきた。
「ママ。私いつまで比呂と同じ部屋なの? 狭くてもう耐えられない」
美緒ちゃんの声に伯母さんが答える。
「もうちょっと我慢して。あの人たちが出て行くまで」
「なんで出て行かないの? あの人たち。叔父さんが亡くなって保険金入ったって言ってたじゃん。そのお金でアパートでも何でも借りれるんでしょ?」
「美緒……」
「出て行ってって言えばいいじゃん。ここは私たちの家なんだし。ママが言えないならパパに言ってもらえば?」
それ以上は聞きたくないと思うのに、足がそこから動かない。
「無理よ。あの人はパパの妹だもの。パパは妹のことが可愛いから、心配で放っておけないんでしょ? あの二人をここへ呼んだのもパパだしね」
「じゃあずっとあの人たちここにいるの? やだよ、そんなの! ママが言えないなら私が言う! 私たちの部屋、返してって!」
「あ、ちょっと美緒!」
バンッと乱暴にドアを開く音がして、美緒ちゃんが台所から出てきた。
そしてその場に立ち尽くしていた僕と目が合って、あからさまに顔をしかめる。
「ああ、帰ってたの?」
美緒ちゃんの後ろから伯母さんが出てきて僕に言う。
「美緒。その話はあとでちゃんとパパに話しておくから。テスト勉強あるんでしょ? もう部屋に行きなさい」
伯母さんの声に、美緒ちゃんは不満そうな表情をして、それから僕を押しのけるようにして二階へ上がって言った。
僕はどうしたらいいのかわからなくて、ただその場に立ち尽くす。
すると伯母さんが大きなため息をつきながら、ひとり言のようにつぶやいた。
「ああもう……結局悪者になるのは私なんだから」
伯母さんはそう言うと、僕を残して台所へ戻っていく。
わからない。どういう意味?
伯母さんは僕とお母さんをいじめる悪者。でも伯母さんにとっては僕たちが悪者。
僕たちがいるせいで伯母さんは美緒ちゃんたちに責められて、伯父さんに文句を言えば、今度は伯母さんが悪者になってしまう。
じゃあ一番悪いのは誰なんだろう。
音を立てないよう、静かに階段を上がって部屋に入る。
「お帰り。瑞希」
顔を上げるとお母さんが窓辺にぼんやりと立っていた。
窓から吹き込む生ぬるい風。真っ暗な部屋にぼうっと浮かぶお母さんの白い服。
幽霊みたいだ……その場に立ち尽くしたままそう思う。
「お父さん……どうして一人で行っちゃったのかしらね……」
お母さんの声が僕の耳に聞こえてきた。
「私たちいつも三人一緒だったのに……ねぇ、夏に行った奥多摩のキャンプ、楽しかったよねぇ。川原でバーベキューしてテント張って三人で寝て……どうしてお父さん、お母さんと瑞希を連れて行ってくれなかったのかしらね……」
「お母さん……大丈夫?」
お母さんが蒼白い顔で僕を見て、ふうっと笑いかける。そしてゆっくりと視線をそらし、窓の外を見つめてつぶやく。
「ねぇ瑞希、教えて? どうやったら行けるの? 私たち、お父さんの所へ……」
今にも消えてしまいそうなその横顔を、僕はただ黙って見ているだけだった。