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 下の階から聞こえてくる朝の生活音。台所から漂ってくるのはベーコンエッグの香り。

 僕はランドセルを背負い、布団の中で横になっているお母さんに言う。

「じゃあ行ってくるね」

 いつものようにお母さんは何も言わない。


 去年の冬。僕のお父さんが急死した。

 サッカーが上手くて、クラブのコーチをしていて、風邪もめったにひかない元気な人だったのに。

 会社で倒れて、病院に運ばれて……僕がお母さんと駆け付けた時、もう意識はなかった。

 そしてそのまま、僕とお母さんに何も言わず、お父さんは死んでしまった。

 お父さんが死んでしばらくは、お母さんも頑張っていたんだ。

 お葬式の時だって、お母さんは泣いていなかった。

「あんまり悲し過ぎると、涙も出ないのね」

 そんなことを言いながら、力なく笑っていたお母さん。

 だけどお母さんの口数はだんだん減っていき、落ち込んだように沈んだ顔つきをすることが多くなった。

「この家から出て行かなくちゃ、悪いわよね……」

 僕たちの住んでいた家はお父さんの会社の社宅で、会社の偉い人は「そのまま住んでいていいよ」って言ってくれた。だけどそんなわけにもいかないってお母さんは言った。

 それで僕たちは住む場所が見つかるまで、小田原にあるお母さんの「実家」へ帰ることになった。

 すっかり元気のなくなったお母さんのことを、お母さんのお兄さんである伯父さんが心配して誘ってくれたらしい。

 ただそこは今では、お母さんの家ではなくて、伯父さん一家の家になっていたけれど。

 そしてその頃からだ。お母さんは何かがぷつりと切れてしまったように、一日中布団の中から出られなくなった。


「瑞希……」

 部屋を出ようとした僕に、お母さんの声が聞こえた。僕は振り返って、布団の中で背中を向けているお母さんを見る。

「昔はもっとよく見えたのよ。建物も少なかったし……ここから、海が」

 僕は黙ってお母さんのか細い声を聞く。

「昔はよかったなぁ……」

 そうつぶやくお母さんは、僕のほうを見ようとしない。

 お母さんが見ているものは、僕じゃないから。

「ごめんね……瑞希」

 僕はそっとドアを閉め、階段を降りた。


 台所では伯母さんが、今朝も忙しそうに働いていた。比呂くんはテーブルについて、伯母さんが作った朝食を食べている。

「美緒ー、ほら時間!」

「わかってるー」

 お風呂場のほうから、ドライヤーの音と美緒ちゃんの声が聞こえる。伯父さんはもう会社へ出かけたあとだ。

「行ってきます」

 誰にでもなくつぶやいた僕のことを、比呂くんがちらりと見て、そしてすっと目をそらす。

 僕はそのまま玄関へ向かうと、静かにドアを開け外へ出た。


 学校につくと、僕はぐるりと教室の中を見回した。だけど「つぐみ」の姿はまだなかった。

 転校してから一週間。あの公園で会った日以来、僕はつぐみと話していない。

 だけど僕は毎日こうやって彼女の姿を目で探して、心の中でこっそり「つぐみ」と下の名前で呼ぶようになっていた。

「上原っ!」

 ランドセルを置いた僕に声をかけてきたのは、篠田とその仲間たちだ。

「外でサッカーやろうぜ!」

「……うん」

 気が進まないけど、そう答える。転校してきてからずっと、僕は誘われるままについて行っていた。


 廊下を篠田たちと一緒に歩く。篠田といると、すれ違う女子も話しかけてきたりする。

「上原くんもサッカーやるんだ」

「えっ」

 突然一人の女の子に声をかけられてあせった。名前はわからないけど、たぶん同じクラスの子。

「上原くん、サッカー上手そう」

 そばにいたもう一人の女の子も話しかけてくる。

「あー、ダメダメ。こいつ超下手くそだから」

 そんな僕たちの中に割り込んでくる篠田。

「えー、うそぉ」

「そんなふうには見えないよねー」

「上原くん、なんかスポーツとかやってたの?」

 いつの間にか僕の周りに人が集まっている。

 どうしよう。こんなところで目立ちたくはない。また「調子に乗ってる」なんて思われたら嫌だ。

「行くぞ、上原。朝休み終わっちまう」

「あ、ああ、うん」

「女子って、ほんと、うるせーんだよなぁ」

 篠田に引っ張られて助かった。女子達の間をすり抜け、校庭に向かう。


「でも俺、昨日聞いたぞ?」

 そんな僕たちに隣のクラスの男子が言った。

「うちのクラスの女子が、一組の転校生かっこいいって」

「うお、マジか? お前のことじゃん、上原ー」

 僕のことを別の男子が、からかうように肘でつついてくる。

「嘘だよ。そんなの……」

「嘘じゃねーって! 上原モテモテじゃん」

 校庭にみんなの笑い声が響く。だけど僕は笑えなかった。ただ早く、話題を替えて欲しいと願っていた。

 何か別の話題がないかとあたりを見回した時、花壇の向こうに僕はつぐみの姿を見つけた。

「あ、つぐ……西村」

 ついつぶやいた僕の声に、反応したのは篠田だ。

「なんだよ、上原。お前そんなに気になる? 西村のこと」

「えっ、まさか。そんなんじゃないよ」

「だよなー?」

 篠田が意味ありげにニヤリと笑い、持っていたボールを僕の胸に投げつけた。

「やれよ」

「え?」

「この前みたいに。あの花、目がけてさぁ」

 周りの男子たちが興味津々で僕たちのことを見る。

「あれは……わざとやったんじゃないから」

「え? じゃあできねぇの? いい子ちゃんだなぁ、上原くんは」

 なんだ、こいつ。何が言いたいんだよ。

 すると篠田が僕の耳元でささやくように言った。

「女子にちやほやされて、調子乗ってんじゃねーよ。バカ」

 一瞬で血の気が引いた気がした。

 東京にいる時、サッカークラブの仲間にそう言われて、それから僕は無視されるようになった。

 それはやがてクラブの中だけじゃなく、学校にまで広がって……僕はどこへ行っても一人ぼっちになった。

「なぁ、西村ってムカつくと思わねぇ?」

 篠田が周りのみんなに同意を求める。

「クラスの中で、完全ぼっちのくせによ。私は全然平気って顔しちゃって。俺一度でいいから、あいつのこと泣かしてみてぇよ」

 周りのみんなが笑っている。だけど僕は笑えない。サッカーボールを持った手が、かすかに震えている。

「やっちゃえよ、上原。どうせならクソ村の顔、目がけてさぁ」

 みんなの笑い声が耳に障る。でもここでいい子ぶったら……また僕は一人ぼっちだ。それは怖い。

 僕はボールを地面に置いた。周りの仲間が注目しているのがわかる。

 顔を上げると、何も気づかず花壇の向こうにしゃがみこんでいるつぐみの姿が見えた。

 僕はぎゅっと目を閉じて、ただ思い切りボールを蹴った。


「キャー」

 遠くで女子たちの悲鳴が聞こえた。

 ゆっくり目を開くと、そこにつぐみの姿がない。

「すげー、上原!」

「マジか! コントロール良すぎ!」

「え……」

 何がなんだかわからない僕の目に、顔を押さえてのっそりと起き上がるつぐみの姿が見えた。

「西村?」

 つぶやいた僕の肩を篠田が組んでくる。

「やるじゃん! 上原! クソ村の顔面に命中ー」

 嘘だろ? そんな所狙ってない。適当に蹴っただけなのに。

 つぐみがこっちをにらみつけている。僕はその場に立ち尽くしたままだ。

 やがてつぐみは足元に転がっているボールを拾い、それを持って真っ直ぐこちらへ歩いてきた。

「おい、仕返しか?」

 周りの男子が騒ぎ出す。一歩も動けない僕の前でつぐみが立ち止まる。

「あの……」

 つぐみは僕のことをにらむように見たあと、ボールを持った手を思い切り振り上げた。

 僕はとっさに肩をすくめ目を閉じる。

「……ってー!」

 その声と、何かがぶつかった音に目を開くと、僕の隣で篠田が顔を押さえていた。篠田の足元にはサッカーボールが転がっている。

「何すんだ! てめえ!」

「あんたがやったこと、やり返しただけだろ!」

「やったのは俺じゃねぇ! 上原じゃんか!」

 つぐみはじろりと僕のことをもう一度にらんだ後、何も言わずに僕たちの前から去った。

「西村てめえ! 覚えてろよ!」

 篠田の声が授業の始まるチャイムにかき消されていく。

 僕は振り向きもせず去っていく、つぐみの背中をずっと見つめていた。

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