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 僕は黙って西村の前に立っていた。僕のことをにらむように見つめていた西村は、やがてすっと目をそらし、水道の蛇口をひねって水を止めた。

 さっき花壇にボールを蹴ったこと、まだ怒ってるのかな、なんて考えながらも、僕はつい思ったことを口にしていた。

「……なんで髪、濡れてるの?」

 聞かずにはいられなかった。西村の手には大きめのペットボトル。確かに蒸し暑かったけれど、こんな時間に水遊びなんてどう考えてもおかしい。

「シャワー」

「え?」

「シャワー浴びてるの」

 西村の声が誰もいない公園に響いた。わけがわからないまま突っ立っている僕の前で、西村がほんの少し口元をゆるませる。

 そして手に持っていたペットボトルを頭の上に上げ、ゆっくりと傾けた。

「あっ……」

 ペットボトルからあふれた水が、西村の頭から流れ落ちる。そしてそれは、顔を肩を服を足元を小さな音を立てて濡らしていく。

「何……してんだよ?」

「だからシャワー」

「こんなところで?」

「あんたには関係ない」

 ペットボトルが空になると、西村は僕から顔をそむけ、また水道の蛇口をひねる。

 濡れたTシャツの背中に下着が透けているのが見えて、僕はさりげなく目をそらした。

 何考えてるんだ? こいつ。きっと篠田たちが言っていたように、変なやつなのかもしれない。


「あっち行きなよ」

 西村の声に振り返る。

「私といると、あんたまでくさいって言われるよ」

 そう言いながら西村はペットボトルの中に水をくんでいた。濡れた西村の髪から、雫がぽたぽたと落ちている。

 その雫を見つめながら、僕は思わずつぶやいていた。

「あの、それ……気持ちいい?」

 不思議そうな顔をした西村が僕を見る。

「あの、それ……」

「使う?」

 西村が水のたっぷり入ったペットボトルを差し出した。僕はそれを黙って受け取る。

 ペットボトルは重かった。水は生ぬるいような感じがした。

 僕はそれを手にしたまま立ち尽くす。

 僕は何をしているんだろう。知らない町で、今日会ったばかりの子と一緒に、こんなものを持って。


 ――瑞希だろ? あいつムカつく。

 どうして? どうして今ごろになって、一年も前のことを思い出すんだ?

 ――ちょっとサッカー上手いからって、調子乗ってんじゃね?

 ――お父さんがコーチやってること、自慢気に話すしな。

 ――どうせ俺たちのことバカにしてんだろ? 俺はコーチの息子だからお前らとは違うんだ。お前らみたいな下手くそとは一緒にやってらんねーって。

 違う。違う。そんなこと思ってない。

 一年前の夏。サッカークラブの試合のあと。すごく太陽が眩しかった日。

 仲間たちが笑って、ペットボトルのスポーツドリンクを口にする。僕はその笑い声を聞きながら、手に持っていたペットボトルをぎゅっと握りしめた。

 ――どうした? 瑞希。

 立ち尽くしていた僕の肩を、お父さんがぽんっと叩く。いつも優しいお父さんの笑顔が僕の前に広がる。

 するとそれに気づいた仲間たちが、今まで見たこともないような目で僕のことを見て、いっせいにその場を去った。

 調子になんて乗っていない。バカになんてしていない。

 僕はただサッカーが好きで、お父さんに褒められるのが嬉しくて。それで必死に頑張っていただけなのに。

 ――瑞希?

 お父さんの声とともに、僕の手からペットボトルが落ちた。飲みかけのスポーツドリンクが足元にこぼれる。

 ――瑞希のやつ、お父さんにチクったんじゃね?

 ――サイテーだな。あいつ。

 サッカークラブの仲間たちは、その日以降、僕に話しかけてはくれなくなった。


 ふいに僕の手が軽くなる。気づくと持っていた重たいペットボトルを西村が奪っていた。

「あっ」

 西村の手が高く上がる。逆さまになったペットボトルから水があふれ、それは僕の頭の上から流れ落ちる。

「な、な、何すんだよっ!」

「あんたがちっとも浴びないから」

 思わず飛びのいた僕の前で、水が半分ぐらいになったボトルを持った西村が言う。

「うわぁ、びしょ濡れじゃないか」

「浴びようとしたんじゃないの?」

 僕は顔を上げて西村を見上げる。やっぱり西村の方が僕より背が高い。

「気持ちよかった?」

「冷たかった」

 ふっと西村が笑った気がした。暗くてよく見えなかったけれど……でも西村は笑った気がした。


 西村がまた蛇口をひねる。ペットボトルの水をいっぱいにして、そして水を止める。

「じゃあ」

 僕の横を通り抜け、西村は公園を出て行こうとする。

「あ、待って……あの、西村んちってこの近くなの?」

 立ち止まった西村が振り返り、右手の人差し指を高く上げる。

「私んち、あそこ」

 公園のすぐ近くにある、お世辞にも綺麗とは言えない古いアパート。西村はそこの二階の、電気がついていない部屋を指さしている。

 ――あいつんち電気も水道も止められてるって、うちの親が言ってた。

 ――マジか? チョービンボーじゃん。

 さっき、篠田たちが言っていた言葉が頭をよぎる。

「じゃあ」

「あっ、ちょっと待って!」

 背中を向けた西村を、僕はもう一度呼び止めた。

 聞きたいことはたくさんあった。たくさんあったけど……。

「西村って……下の名前何て言うの?」

 薄暗い外灯の灯りの下で、一瞬不思議そうな顔をした西村が僕に答える。

「西村、つぐみ。あんたは? 名前何だっけ?」

「上原。上原瑞希」

「瑞希かぁ……」

 西村は僕の名前を一回つぶやいて、そして言う。

「明日学校で会っても、私に話しかけないで」

「え?」

「話しかけないでね」

 念を押すようにそう言って、西村はまた背中を向ける。

「西村っ」

 もう一度僕が呼んだけど、西村は振り返ろうとしなかった。


 たった一人残された公園で、僕は濡れた顔を拭う。

「また伯母さんに怒られるかな……」

 びしょ濡れの服を見下ろしながらつぶやいて、そして考える。

 もしかして気づかれたかもしれない。さっき、お父さんの笑顔を思い出して、少し涙が出ちゃったこと。

 それを隠すために西村は、僕に水をかけてくれたのか?

「まさか。そんなんじゃないよな……」

 一人でつぶやきながら、もう一度顔を拭う。どうしてだかわからないけど、涙がまたあふれ出し、止まらなくなった。

「お父さん……」

 優しくて強くて、いつも僕とお母さんを守ってくれたお父さん。

 僕の大好きだったお父さんは――もうこの世にいない。

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