3
僕は黙って西村の前に立っていた。僕のことをにらむように見つめていた西村は、やがてすっと目をそらし、水道の蛇口をひねって水を止めた。
さっき花壇にボールを蹴ったこと、まだ怒ってるのかな、なんて考えながらも、僕はつい思ったことを口にしていた。
「……なんで髪、濡れてるの?」
聞かずにはいられなかった。西村の手には大きめのペットボトル。確かに蒸し暑かったけれど、こんな時間に水遊びなんてどう考えてもおかしい。
「シャワー」
「え?」
「シャワー浴びてるの」
西村の声が誰もいない公園に響いた。わけがわからないまま突っ立っている僕の前で、西村がほんの少し口元をゆるませる。
そして手に持っていたペットボトルを頭の上に上げ、ゆっくりと傾けた。
「あっ……」
ペットボトルからあふれた水が、西村の頭から流れ落ちる。そしてそれは、顔を肩を服を足元を小さな音を立てて濡らしていく。
「何……してんだよ?」
「だからシャワー」
「こんなところで?」
「あんたには関係ない」
ペットボトルが空になると、西村は僕から顔をそむけ、また水道の蛇口をひねる。
濡れたTシャツの背中に下着が透けているのが見えて、僕はさりげなく目をそらした。
何考えてるんだ? こいつ。きっと篠田たちが言っていたように、変なやつなのかもしれない。
「あっち行きなよ」
西村の声に振り返る。
「私といると、あんたまでくさいって言われるよ」
そう言いながら西村はペットボトルの中に水をくんでいた。濡れた西村の髪から、雫がぽたぽたと落ちている。
その雫を見つめながら、僕は思わずつぶやいていた。
「あの、それ……気持ちいい?」
不思議そうな顔をした西村が僕を見る。
「あの、それ……」
「使う?」
西村が水のたっぷり入ったペットボトルを差し出した。僕はそれを黙って受け取る。
ペットボトルは重かった。水は生ぬるいような感じがした。
僕はそれを手にしたまま立ち尽くす。
僕は何をしているんだろう。知らない町で、今日会ったばかりの子と一緒に、こんなものを持って。
――瑞希だろ? あいつムカつく。
どうして? どうして今ごろになって、一年も前のことを思い出すんだ?
――ちょっとサッカー上手いからって、調子乗ってんじゃね?
――お父さんがコーチやってること、自慢気に話すしな。
――どうせ俺たちのことバカにしてんだろ? 俺はコーチの息子だからお前らとは違うんだ。お前らみたいな下手くそとは一緒にやってらんねーって。
違う。違う。そんなこと思ってない。
一年前の夏。サッカークラブの試合のあと。すごく太陽が眩しかった日。
仲間たちが笑って、ペットボトルのスポーツドリンクを口にする。僕はその笑い声を聞きながら、手に持っていたペットボトルをぎゅっと握りしめた。
――どうした? 瑞希。
立ち尽くしていた僕の肩を、お父さんがぽんっと叩く。いつも優しいお父さんの笑顔が僕の前に広がる。
するとそれに気づいた仲間たちが、今まで見たこともないような目で僕のことを見て、いっせいにその場を去った。
調子になんて乗っていない。バカになんてしていない。
僕はただサッカーが好きで、お父さんに褒められるのが嬉しくて。それで必死に頑張っていただけなのに。
――瑞希?
お父さんの声とともに、僕の手からペットボトルが落ちた。飲みかけのスポーツドリンクが足元にこぼれる。
――瑞希のやつ、お父さんにチクったんじゃね?
――サイテーだな。あいつ。
サッカークラブの仲間たちは、その日以降、僕に話しかけてはくれなくなった。
ふいに僕の手が軽くなる。気づくと持っていた重たいペットボトルを西村が奪っていた。
「あっ」
西村の手が高く上がる。逆さまになったペットボトルから水があふれ、それは僕の頭の上から流れ落ちる。
「な、な、何すんだよっ!」
「あんたがちっとも浴びないから」
思わず飛びのいた僕の前で、水が半分ぐらいになったボトルを持った西村が言う。
「うわぁ、びしょ濡れじゃないか」
「浴びようとしたんじゃないの?」
僕は顔を上げて西村を見上げる。やっぱり西村の方が僕より背が高い。
「気持ちよかった?」
「冷たかった」
ふっと西村が笑った気がした。暗くてよく見えなかったけれど……でも西村は笑った気がした。
西村がまた蛇口をひねる。ペットボトルの水をいっぱいにして、そして水を止める。
「じゃあ」
僕の横を通り抜け、西村は公園を出て行こうとする。
「あ、待って……あの、西村んちってこの近くなの?」
立ち止まった西村が振り返り、右手の人差し指を高く上げる。
「私んち、あそこ」
公園のすぐ近くにある、お世辞にも綺麗とは言えない古いアパート。西村はそこの二階の、電気がついていない部屋を指さしている。
――あいつんち電気も水道も止められてるって、うちの親が言ってた。
――マジか? チョービンボーじゃん。
さっき、篠田たちが言っていた言葉が頭をよぎる。
「じゃあ」
「あっ、ちょっと待って!」
背中を向けた西村を、僕はもう一度呼び止めた。
聞きたいことはたくさんあった。たくさんあったけど……。
「西村って……下の名前何て言うの?」
薄暗い外灯の灯りの下で、一瞬不思議そうな顔をした西村が僕に答える。
「西村、つぐみ。あんたは? 名前何だっけ?」
「上原。上原瑞希」
「瑞希かぁ……」
西村は僕の名前を一回つぶやいて、そして言う。
「明日学校で会っても、私に話しかけないで」
「え?」
「話しかけないでね」
念を押すようにそう言って、西村はまた背中を向ける。
「西村っ」
もう一度僕が呼んだけど、西村は振り返ろうとしなかった。
たった一人残された公園で、僕は濡れた顔を拭う。
「また伯母さんに怒られるかな……」
びしょ濡れの服を見下ろしながらつぶやいて、そして考える。
もしかして気づかれたかもしれない。さっき、お父さんの笑顔を思い出して、少し涙が出ちゃったこと。
それを隠すために西村は、僕に水をかけてくれたのか?
「まさか。そんなんじゃないよな……」
一人でつぶやきながら、もう一度顔を拭う。どうしてだかわからないけど、涙がまたあふれ出し、止まらなくなった。
「お父さん……」
優しくて強くて、いつも僕とお母さんを守ってくれたお父さん。
僕の大好きだったお父さんは――もうこの世にいない。