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「じゃあな」
コンビニの角で篠田と別れて家へ帰る。『家』と言ってもそこは僕の家ではない。お母さんが昔住んでいた、でも今はお母さんのお兄さん一家の家だ。
小田原にあるこの家には、昔はおばあちゃんも住んでいて、その頃は何度も遊びに来た。だけどおばあちゃんが亡くなってからはなんとなく疎遠になって、この家に住んでいる従姉弟とも、もうずっと会っていなかった。
JRと私鉄が交わり新幹線も停車する小田原駅。
通勤客と観光客が混じり合う構内はそれなりににぎやかだけど、駅前から少し離れると、山と海とお城があるのどかな城下町だ。
お城の下にある城址公園には、小さい頃従姉弟たちとよく遊びに来た。あの頃、僕より二つ上の美緒ちゃんも、その弟で僕と同い年の比呂くんも、僕と仲良く遊んでくれたんだけど。
歩き慣れない道を歩いて伯父さんの家に着く頃、あたりは薄暗くなっていた。
「あら、今帰ったの?」
玄関を開けるとちょうど伯母さんが出かける所だった。
「……ただいま」
「ずいぶん遅いのね。転校初日から」
伯母さんはちらりと僕の服を見て、あからさまに顔をしかめた。
「その服どこで汚してきたの? それを洗うの誰だと思ってるの?」
そう言って伯母さんは大きなため息を吐くと、車の鍵を持ち、僕と入れ替えに外へ出て行こうとする。
「比呂を塾へ送ってくるから」
「あの、お母さんは?」
「寝てるわよ。この忙しい時間に、いい気なもんね」
部屋の中にわざと聞こえるような声でそう言って、伯母さんは玄関を出て行く。すぐにバタバタと足音が聞こえて、比呂くんが玄関へ飛び降りた。
「どけよ。邪魔!」
比呂くんの持った塾のバッグが僕に当たる。比呂くんは中学受験のために毎日塾に行っているって聞いた。
「行ってらっしゃい」
つぶやくような僕の声は、冷たく閉じられたドアの音にかき消されていった。
僕とお母さんをこの家へ呼んでくれたのは伯父さんだ。
だけど伯父さんはいつも帰りが遅くてめったに会うことはない。
あまり広くもないこの一軒家に住んでいるのは伯父さんと伯母さん、そして二人の子どもたち。
僕とお母さんは、比呂くんが使っていた部屋を使わせてもらうことになり、比呂くんは中学生の美緒ちゃんと一緒の部屋になった。
「比呂は受験生なのに。今が大事な時なのに。本当に少ししたら出て行ってくれるんでしょうね?」
伯母さんがお母さんにそう言っているのを、僕は夜中にこっそり聞いた。
「……すみません。住む家が見つかったらすぐに出て行きますから」
お母さんの消えそうな声が聞こえる。
「はっきり言って迷惑なのよね。確かに洋介さんは気の毒だったけど。でもうちには受験生もいるし、狭くて困ってるんだから」
『洋介さん』っていうのは僕のお父さんのことだ。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
お母さんがまた謝る。どうして? ここはお母さんが子どもの頃住んでいた家なのに。結婚したらもう、この家に戻っちゃいけないの?
仕事が忙しい伯父さんはまだ家に帰って来ない。
小さい頃はきょうだいのように仲良くしてくれた美緒ちゃんと比呂くんも、最近は僕に冷たい。
僕とお母さんはこの家の人たちにとって、『迷惑な人間』なんだ。
「お母さん? 具合悪いの?」
二階へ上がり、比呂くんが使っていた部屋に入る。お母さんは頭から布団をかぶって、横になっている。
暑いな……じっとりとよどんだ空気。
僕はお母さんをまたぐようにして部屋を横切り、窓を開いた。
「あ……」
その時僕は初めて気づいた。この部屋から少しだけ海が見えることに。
「お母さん。海が見えた!」
振り返ってお母さんに言う。けれどお母さんは黙ったまま、動きもしない。僕は泣きたくなるのをぐっとこらえる。
「お母さん、何か食べたいものない? そこのコンビニで何か買ってこようか?」
しばらく待ったけど、やっぱりお母さんは返事をしなかった。
「じゃあ、僕の分だけ買ってくる」
伯母さんは僕たちの夕飯を作ってくれない。いや、作ってくれないんじゃなくて、お母さんが「自分で作るから大丈夫です」って断ったんだ。
それなのにお母さんはなかなかご飯を作ってくれなくて、僕は毎日コンビニのおにぎりを食べていた。
お金、大丈夫なのかな、と財布の中をのぞきこんで心配になる。お母さんは仕事をしていない。
ドアを開け、もう一度部屋の中を振り返る。お母さんはやっぱり布団の中にもぐったまま、何も言ってはくれなかった。
伯父さんの家を出て、僕は走った。古い民家の間を走り抜けると、海沿いの道に出る。だけどここから海は見えない。海は、海岸に沿って走る有料道路の向こうだからだ。
狭い道を堤防に沿って少し進むと、誰もいない公園が見えた。
「はぁっ……」
公園に入って息をつく。錆びて壊れそうなブランコと滑り台だけがあるこの公園には、いつだって人影がない。引っ越してすぐに僕が見つけた場所だ。
国道の向こうには新しい公園があったから、子どもはみんなそっちで遊ぶのだろう。それにもうあたりは暗くなってきている。こんな時間に遊んでいる子どもなんていない。
滑り台の脇を通ってゆっくりとブランコのほうへ歩く。その時僕はぎょっとして立ち止った。誰もいないと思ったそこに人影が見えたからだ。
「誰?」
僕が口を開く前にその子が言った。公園の隅にある水道。水が出しっぱなしの蛇口。その子は長く垂らした黒い髪をびしょ濡れにして、立ち上がり僕のことを見た。
「……西村?」
その子がぴくりと反応する。
薄闇の中でも僕はわかった。その女の子はさっき花壇のところで見た、あの西村だった。