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 バスを一人で乗り継いで、お母さんのいる病院へ行った。

 病室の中をのぞくと、窓際のベッドの上にお母さんが座っていた。

 僕は入り口に突っ立ったまま、黙ってその姿を見つめる。

 細くて、今にも消えてしまいそうな横顔。お父さんが死んでから、お母さんはどんどん痩せてしまった。

 ――瑞希がお母さんを守ってやらなきゃ駄目なんだぞ?

 ぼんやりする頭に、お父さんの言葉が浮かんでくる。

 やがてゆっくりと振り向いたお母さんは、僕に気がついて、ほんの少しだけ口元をゆるませた。


「瑞希。来てくれたのね? こっちにおいで」

 お母さんの声を聞くのは久しぶりだ。

 今までずっとお母さんは僕のそばにいて、その声を聞くのも当たり前だったはずなのに。

 僕は言われたとおり、窓際のベッドへ向かう。

 ベッドの脇で立ち止まると、お母さんが手を伸ばした。僕は思わずぎゅっと目を閉じ、体を固くする。

 それに気づいたお母さんは動きを止めて、僕に触れることなく、その手を膝の上に戻した。

「瑞希、ごめんね? 怖かったよね?」

 目を開けた僕の前でお母さんがつぶやく。

「瑞希のこと、守ってあげなくちゃいけなかったのに……ごめんね?」

 僕は黙って首を横に振る。

 守ってあげなきゃいけないのは、僕のほうだ。

「会いたかった……」

 僕の耳にお母さんのかすれる声が聞こえる。

「瑞希に会いたかった」

 お母さんは僕にそう言って、静かに微笑む。

「こんなに頼りなくて駄目なお母さんだけど、また瑞希と一緒に暮らしたい。瑞希と一緒に生きていきたいの」

 僕を見つめるお母さんの目から涙が落ちた。僕はそんなお母さんの前で黙ってうなずく。

 するとお母さんが両手を伸ばして、僕の頭ごとそっと抱きしめた。

「もう泣かないって決めたのに……駄目だね、お母さん、泣き虫で」

 僕はお母さんの胸に顔をうずめて、小さく首を横に振る。

 お母さんのぬくもりは、あたたかくて、懐かしくて、少し照れくさい。

 気がつくと僕の目からも涙が出ていて、お母さんはそんな僕の頭をずっとなでてくれていた。


 あの頃の僕は泣き虫で、頼りなくて。

 お母さんのことも、好きだった女の子のことも、守ってあげることができなかった。

 何もできないくせに、気持ちだけが空回りして、自分で自分を追いつめていた。

 ――強くなれ、瑞希。強くて優しい男になるんだ。

 お父さん、僕はいつになったら、そんな男になれるんだろう。


 暑かった夏休みの終わり。

 僕は学校の花壇の前でつぐみに会った。

 つぐみは長かった髪をばっさりと切り、男の子みたいに見えた。

「久しぶりだね」

 じょうろで水をあげていた僕に、つぐみが言う。

 つぐみが先生やPTAのおばさんたちに連れて行かれてから、僕はつぐみに会っていなかった。

「ちゃんと世話してくれてたんだ」

 つぐみが花壇のそばに座って、植えてある小さな花に触れる。

 篠田に花壇を荒らされてから、僕は慣れない手つきで花を植え直し、毎日水をあげていた。

「ありがとうね。瑞希くん」

「だって僕は『水やり係』だから」

「違うよ。そうじゃなくて」

 つぐみが小さく笑って立ち上がる。

「私、誰かに言って欲しかったの。『つぐみのお母さんは間違ってる』って」

 あの時、僕が言った言葉。僕は黙って、僕より背の高いつぐみを見つめる。

「ほんとはずっとわかってた。わかってたけど、気づかないふりしてた。私のお母さんは間違ってる。私も間違ってるってことに」

 そう言ったつぐみが僕に笑いかける。僕はさりげなく視線をそらし、空に目を向けながらつぶやく。

「ごめん……」

「なんで瑞希くんが謝るの?」

「だって僕は……つぐみを助けてあげられなかったから」

 空がやけに高かった。降り注ぐ日差しが、いつもよりほんの少し柔らかい。

 夏休みが、もうすぐ終わる。


「あのね、瑞希くん。私ね……」

 すぐ隣から聞こえるつぐみの声。

「九月から、おばあちゃんの家で暮らすことになったの。ここからすごく遠い所。転校しなくちゃ駄目なんだ」

「え……」

 驚いて顔を向けると、僕を見ているつぐみと目が合った。

「だから……今までいろいろありがとうね」

「僕は、何もしてないよ?」

 つぐみが穏やかな表情で僕に笑いかける。

 夏の終わりの風が吹いた。教室の前で咲いている朝顔が揺れている。

「じゃあ」

 つぐみが僕に背中を向けた。

 本当に? 本当にこれで終わりなの?

 つぐみは転校して行って、僕はこの町でお母さんと暮らす。

 僕はもう、学校でも公園でも、つぐみに会うことはない。

「あのさっ」

 歩き出したつぐみに言う。

「僕、夜中に朝顔見たよ。あの公園で本当に咲いてた。つぐみの言ったこと、間違ってなかった」

 ゆっくりと振り返ったつぐみが僕を見る。僕はそんなつぐみから、目をそらさずに言う。

「今度……一緒に見よう」

 しばらく僕の顔をじっと見ていたつぐみが、ふんわりと笑った。

「うん。今度ね」

 僕たちの『今度』はいつだろう。

 新学期が始まると、つぐみはもうこの学校からいなくなっていた。

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