15
バスを一人で乗り継いで、お母さんのいる病院へ行った。
病室の中をのぞくと、窓際のベッドの上にお母さんが座っていた。
僕は入り口に突っ立ったまま、黙ってその姿を見つめる。
細くて、今にも消えてしまいそうな横顔。お父さんが死んでから、お母さんはどんどん痩せてしまった。
――瑞希がお母さんを守ってやらなきゃ駄目なんだぞ?
ぼんやりする頭に、お父さんの言葉が浮かんでくる。
やがてゆっくりと振り向いたお母さんは、僕に気がついて、ほんの少しだけ口元をゆるませた。
「瑞希。来てくれたのね? こっちにおいで」
お母さんの声を聞くのは久しぶりだ。
今までずっとお母さんは僕のそばにいて、その声を聞くのも当たり前だったはずなのに。
僕は言われたとおり、窓際のベッドへ向かう。
ベッドの脇で立ち止まると、お母さんが手を伸ばした。僕は思わずぎゅっと目を閉じ、体を固くする。
それに気づいたお母さんは動きを止めて、僕に触れることなく、その手を膝の上に戻した。
「瑞希、ごめんね? 怖かったよね?」
目を開けた僕の前でお母さんがつぶやく。
「瑞希のこと、守ってあげなくちゃいけなかったのに……ごめんね?」
僕は黙って首を横に振る。
守ってあげなきゃいけないのは、僕のほうだ。
「会いたかった……」
僕の耳にお母さんのかすれる声が聞こえる。
「瑞希に会いたかった」
お母さんは僕にそう言って、静かに微笑む。
「こんなに頼りなくて駄目なお母さんだけど、また瑞希と一緒に暮らしたい。瑞希と一緒に生きていきたいの」
僕を見つめるお母さんの目から涙が落ちた。僕はそんなお母さんの前で黙ってうなずく。
するとお母さんが両手を伸ばして、僕の頭ごとそっと抱きしめた。
「もう泣かないって決めたのに……駄目だね、お母さん、泣き虫で」
僕はお母さんの胸に顔をうずめて、小さく首を横に振る。
お母さんのぬくもりは、あたたかくて、懐かしくて、少し照れくさい。
気がつくと僕の目からも涙が出ていて、お母さんはそんな僕の頭をずっとなでてくれていた。
あの頃の僕は泣き虫で、頼りなくて。
お母さんのことも、好きだった女の子のことも、守ってあげることができなかった。
何もできないくせに、気持ちだけが空回りして、自分で自分を追いつめていた。
――強くなれ、瑞希。強くて優しい男になるんだ。
お父さん、僕はいつになったら、そんな男になれるんだろう。
暑かった夏休みの終わり。
僕は学校の花壇の前でつぐみに会った。
つぐみは長かった髪をばっさりと切り、男の子みたいに見えた。
「久しぶりだね」
じょうろで水をあげていた僕に、つぐみが言う。
つぐみが先生やPTAのおばさんたちに連れて行かれてから、僕はつぐみに会っていなかった。
「ちゃんと世話してくれてたんだ」
つぐみが花壇のそばに座って、植えてある小さな花に触れる。
篠田に花壇を荒らされてから、僕は慣れない手つきで花を植え直し、毎日水をあげていた。
「ありがとうね。瑞希くん」
「だって僕は『水やり係』だから」
「違うよ。そうじゃなくて」
つぐみが小さく笑って立ち上がる。
「私、誰かに言って欲しかったの。『つぐみのお母さんは間違ってる』って」
あの時、僕が言った言葉。僕は黙って、僕より背の高いつぐみを見つめる。
「ほんとはずっとわかってた。わかってたけど、気づかないふりしてた。私のお母さんは間違ってる。私も間違ってるってことに」
そう言ったつぐみが僕に笑いかける。僕はさりげなく視線をそらし、空に目を向けながらつぶやく。
「ごめん……」
「なんで瑞希くんが謝るの?」
「だって僕は……つぐみを助けてあげられなかったから」
空がやけに高かった。降り注ぐ日差しが、いつもよりほんの少し柔らかい。
夏休みが、もうすぐ終わる。
「あのね、瑞希くん。私ね……」
すぐ隣から聞こえるつぐみの声。
「九月から、おばあちゃんの家で暮らすことになったの。ここからすごく遠い所。転校しなくちゃ駄目なんだ」
「え……」
驚いて顔を向けると、僕を見ているつぐみと目が合った。
「だから……今までいろいろありがとうね」
「僕は、何もしてないよ?」
つぐみが穏やかな表情で僕に笑いかける。
夏の終わりの風が吹いた。教室の前で咲いている朝顔が揺れている。
「じゃあ」
つぐみが僕に背中を向けた。
本当に? 本当にこれで終わりなの?
つぐみは転校して行って、僕はこの町でお母さんと暮らす。
僕はもう、学校でも公園でも、つぐみに会うことはない。
「あのさっ」
歩き出したつぐみに言う。
「僕、夜中に朝顔見たよ。あの公園で本当に咲いてた。つぐみの言ったこと、間違ってなかった」
ゆっくりと振り返ったつぐみが僕を見る。僕はそんなつぐみから、目をそらさずに言う。
「今度……一緒に見よう」
しばらく僕の顔をじっと見ていたつぐみが、ふんわりと笑った。
「うん。今度ね」
僕たちの『今度』はいつだろう。
新学期が始まると、つぐみはもうこの学校からいなくなっていた。




