10
次の日、僕は普通に学校へ行った。
伯父さんが僕を病院に誘ってくれたけど、僕は行かないと答えた。
きっとお母さんは怒っている。僕がお母さんから逃げたこと。きっと怒っているから――僕はお母さんには会えない。
梅雨が明けたような朝だった。夏休み前だからか、なんとなくみんなの足取りは軽い。
教室に入ると僕の席の隣で、篠田やクラスの男子たちが集まって何か話していた。
「え、それホント?」
「ホントだって、俺、見たんだから」
僕が机の上にランドセルを置くと、みんなが一斉にこちらを向いた。
何だよ? 一瞬動きを止めた僕の前で、篠田がわざとらしいほど大きな声で言う。
「うわー、マジか! それって趣味悪くね?」
そして僕の顔を見上げてにやりと笑った。
「なぁ上原って、西村と付き合ってんの?」
「えっ」
「だって浜屋が見たって。お前と西村が公園で手つないでるとこ。な! そうだろ、ハマ!」
「あ、ああ、うん」
僕が浜屋の方を向くと、浜屋はさりげなく視線をそらした。
「上原ってやっぱ、西村のこと好きだったわけ? どこがいいんだよ、あんなくさいやつの」
周りのみんながおかしそうに笑う。僕は黙って前を見た。
つぐみはいつもの席でいつものように、ひとりぼっちで座っている。
「くさくなんか、ないよ」
「は?」
隣を向いて篠田に言う。
「西村はくさくなんかない」
僕の言葉に篠田がくっと笑う。そして立ち上がり僕に体を近づけ、内緒話でもするかのようにささやいた。
「でもあいつんち、お父さんいないんだろ? お母さんも西村ほったらかしで、男と遊び歩いてるらしいじゃん?」
だったら? だったらなんだっていうんだよ?
「西村も同じなんじゃね? 男と遊び歩いてるってとこ。家に帰らないで、夜中も出歩いてるって噂だし」
立ち尽くしたまま、両手をぎゅっと握りしめる。教室内にチャイムの音が響き、それと同時に篠田の声が耳をかすめた。
「うちの母さんが言ってた。やっぱり『ぼしかてい』の子は駄目よねぇって」
その瞬間、ずっとこらえていたものが、僕の中でぷつりと切れた。
「キャー」
教室内に悲鳴が聞こえる。椅子の倒れる音がして、床にしりもちをついた篠田が頬を押さえて僕のことを見上げている。
「な、何すんだよ!」
握りしめた右手が痛い。人を殴ったのなんて初めてだ。
「西村のこと、何にも知らないくせに……」
「あー?」
「お父さんがいなかったら悪いかよ! お母さんにほったらかしにされたって、一人でちゃんとやってるんだ!」
僕の声が教室中に響き渡って、周りのみんなが引いていくのがわかる。
「母子家庭で悪かったな!」
そう言って目の前にあった机をひっくり返した。篠田が床にお尻をついたまま、あわてて後ずさりをしている。
「上原っ! やめろ!」
「先生! 上原くんが!」
教室中が大騒ぎになったけど、僕は自分を抑えられなくなっていた。
近くにあるものを片っ端からつかんで投げた。机も椅子も足で蹴った。
女子が悲鳴をあげて、篠田が逃げ出したのがわかった。
「上原! どうした? やめなさい!」
駆けつけて来た担任に体を抑えつけられた時、ぼんやりとこちらを見ているつぐみの姿に、僕は初めて気がついた。
「お父さんを亡くして、学校が変わって、お母さんも入院されて……上原くん、本当に大変だったわね?」
担任に連れられて行った相談室で、スクールカウンセラーの先生にそう言われた。
「だけどもう我慢しなくていいのよ? つらいことがあったら先生に全部話して? ね?」
我慢なんかしていない。ただもう何もかもがどうでもよくなっただけだ。
僕は何も答えずにうつむいていた。カウンセラーと担任が何かこそこそと話をする。
その時いきなり部屋のドアが開いて、中に伯母さんが飛び込んできた。
「上原瑞希の伯母です! この度は本当に申し訳ありませんでした!」
部屋に入ってくるなりそう言って、先生たちに向かって頭を下げると、伯母さんは僕に近づき怒鳴った。
「あんたって子は! どうしてそんなこと……」
「伯母さん、落ち着いてください。子どもたちにはすでに指導をして、相手の親御さんもわかってくださりましたから」
担任が僕と伯母さんの間に入る。
「すみません! すみません! この子の母親は入院中ですし、もう私の手には負えなくて……」
僕は頭を下げ続ける伯母さんのことを、ただ黙って見つめていた。
伯母さんと一緒に学校から帰った僕は、すぐに家を抜け出して、ずっと公園のブランコに座っていた。
キイッとブランコを揺らして考える。僕は今、哀しいのか、悔しいのか、寂しいのか、と。
だけど今の僕には、どの気持ちも当てはまらない。
生きる気力がなくなったって、こういうことを言うのかな。一日中布団から出られなくなったお母さんは、「もう無理みたい」と言ったお母さんは、こんな気持ちだったのかな。
だったら僕もあんなふうになってしまうのだろうか。お母さんみたいに、「死のう」と思って海に入ったりするのだろうか。
急に鼓動が激しくなって、それを打ち消すように立ち上がった。滑り台に向かって走り、一気に階段を駆け上がる。
――ここからなら、海が見えるんだよ。知ってた?
つぐみの声が頭をよぎる。
僕の視線の先に広がる青い海。それはもう夏の海だ。
――真夜中に咲く朝顔って、見たことある?
そういえばつぐみが、そんなことを言っていたっけ。
真夜中に咲く朝顔なんて、本当にあるんだろうか?
いや、あるわけない。そう思った時、コツンと金属を叩く音が聞こえて、僕は下を見下ろした。
「つぐ……西村」
僕を見上げているつぐみが、もう一度滑り台をコツンと叩いてから、こう言った。
「なんであんなことしたの?」
体に似合わないランドセルを背負ったまま、つぐみは僕のことをじっと見つめる。
「あんなことする人とは思わなかった」
つぐみの声に、僕は滑り台の上からふっと笑う。
「西村が知らなかっただけだよ。うち、お父さんいないから……母子家庭の子は駄目な子なんだってさ」
「篠田に言われたの?」
僕が黙っていると、じっと僕を見つめていたつぐみが小さな笑みを見せた。
「だったら私も駄目な子だ」
そして軽やかな足どりで階段を上って、僕の隣に来た。
「ごめん。私なんかと一緒にいたから、からかわれたんでしょ?」
僕は黙って首を振る。
大丈夫。僕は知っている。つぐみが悪い子なんかじゃないってこと。
だからもう、どんなことを言われたって平気だ。
「昨日、お母さん大丈夫だった?」
僕の隣で、つぐみが遠慮がちに聞いてきた。
「うん。大丈夫なんだけど……しばらく入院すると思う」
「そうなんだ……」
つぐみの顔から笑みが消え、すっと僕から視線を外し遠くを見つめた。
僕はそんなつぐみの横顔に向かって言う。
「あのさ、昨日西村が言ってたことだけど」
僕の声に、つぐみがまた視線を戻す。
「真夜中に咲く朝顔。家を抜け出してきたら、本当に見せてくれるの?」
つぐみがふっと小さく笑う。
「いいよ。私はよく真夜中、ここにいるから」
「真夜中に?」
「お母さんが男の人を連れてきた夜とか、さ」
そう言ってつぐみは滑り台の手すりをつかむと、気持ちよさそうに体を伸ばした。
空がすごく青く晴れていた。その日梅雨が明けたと、あとからニュースで聞いた。




