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 紫陽花の花が濡れている、雨上がりの朝。僕は新しい学校に、たった一人で登校する。

 見知らぬ街並み、初めて歩く通学路。

 まわりの顔は知らない顔ばかりで、僕は目を合わせないように、水たまりを避けるふりをして歩く。

 蒸し暑い風に乗って流れてくる、かすかな潮の香りを鼻先に感じながら。


「えー、今日は新しい友達を紹介する。東京の小学校から転校してきた『上原瑞希(うえはらみずき)』くんだ」

 青いジャージを着た男の先生が、大きすぎるほど大きな声でみんなに言った。

 何人かの子どもが「はぁい」なんて間の抜けた返事をして、他の子どもたちは僕のことを物珍しそうに眺めている。

  僕はその視線に耐え切れず、すぐに目をそらしてうつむいた。

「上原くんはまだ、小田原のことをよく知らないそうだから、みんないろいろ教えてあげるように。今日からみんなと同じ六年一組の仲間なんだからな!」

 そう言って熱血っぽい担任の先生は、ランドセルを背負った僕の背中をぽんぽんっと二回叩く。

「では上原くん。何か一言どうぞ」

「え、あ……よろしくお願いします」

 僕が小さく頭を下げると、パチパチ……とまばらな拍手が聞こえた。

「よし! じゃあ上原君はあそこの空いている席に座って。おーい、篠田! お前隣なんだから、いろいろ教えてやれよ!」

「あーい」

 ざわめきだした教室の中、僕は黙って先生に言われた席へ向かう。

 名前も知らない女子がじろじろと僕のことを見ている。にやにやと笑っている男子もいる。

 ランドセルをおろして席に座ると、隣の男子がやけに馴れ馴れしく話しかけてきた。


「お前なんで引っ越してきたの?」

「え?」

「東京にいたのに、なんで小田原なんかにきたんだよ?」

「親戚の家で、暮らすことになったから」

「ふーん?」

 先生が『篠田』と呼んだその男子は、わかったようなわからないような曖昧な返事をする。でもそれ以上のことは聞いてこなくて、僕はちょっとホッとした。

 けれどランドセルの中身を出し終わった頃、篠田は再び聞いてきた。

「なぁお前、サッカー好きなの?」

「えっ、なんで?」

「だってそれ」

 篠田が僕の持っていたペンケースを指さす。そこには僕がお父さんと、日本代表の試合を観に行った時に買った、サッカーボールのキーホルダーがついていた。

「す、好きじゃないよ」

「じゃあなんでそんなのつけてんの?」

 僕はペンケースをじっと見つめると、キーホルダーをはずして、それを篠田の前に差し出した。

「こんなのいらない。欲しかったらあげるよ」

「え、マジか? ラッキー!」

 篠田の手が、さっと僕の手からキーホルダーを奪った時、先生の大きな声が響いた。

「おーいそこ! さっそく仲良くなったのはいいけど、授業始まってるぞ! 篠田、上原に教科書見せてやれ!」

「あーい」

 篠田がポケットの中にキーホルダーをつっこんだ。僕は黙ってそれを見ていた。

 いいんだ、これで。

 僕はサッカーなんか好きじゃないから。


 六時間目終了のチャイムが鳴って、新しい学校での初めての一日が終わる。

 できるだけ目立つことなく、息をひそめるように過ごしていたからか、今日一日、数人の男子に話しかけられた以外は、特に誰からも声をかけられなかった。

 でも僕はそれで満足だった。転校生というだけで、ただでさえ目立っているんだ。これ以上目立ちたくはない。

 しかしランドセルを背負って家へ帰ろうとした僕のことを、隣の席の篠田が呼び止めた。

「俺たちこれから、校庭でサッカーするんだけど。お前も来ない?」

 僕はちらりと篠田を見た。こいつ、人の話を全然聞いてないな。サッカーは好きじゃないって言ったはずなのに。

「僕はちょっと……」

「なぁ来いよ。他のクラスのやつらもいるからさ。紹介してやるよ、お前のこと」

 そう言って篠田は強引に僕の腕をつかむ。

 どうしよう。やっぱりここは付き合うべきか。断って、後で悪口を言われるのだけは避けたい。

「じゃあちょっとだけ……」

「よし。来い!」

 篠田に引っ張られるようにしてついて行く。教室の後ろで待っていた同じクラスの男子と一緒に、僕は校庭へ飛び出した。


 校庭の隅の鉄棒の所に、数人の男子が集まっている。ランドセルを地面の上に転がして、みんなサッカーボールを蹴飛ばしている。

 校庭で遊ぶのは一度家に帰ってから、っていう先生の言葉を思い出したけれど、よそ者の僕にそんなことを言う資格はない。

「こいつ、うちのクラスに転校してきた上原……上原なんだっけ?」

「上原瑞希」

「ああ、そうそう、それそれ。メンバー足りないから連れてきた」

 ああ、なんだ、そういうことか。

 他のクラスの男子たちは「へぇー」とか「ふーん」とか言って、僕の顔をじろじろと見たけれどそれは一瞬のことで、すぐにサッカー遊びが始まった。

 じゃんけんで二つのチームに分けて、校庭を走り出す。僕もみんなのあとについて走り出した。


 昨日まで雨が続いていたせいか、地面はかなりぬかるんでいた。

 転校するなら新学期からのほうが、なにかと都合よかったのだろうけど、引っ越しの準備が遅くなり、こんな梅雨の季節になってしまった。

「上原っ!」

 名前を呼ばれてハッと振り向くと、篠田が僕に向かってボールを蹴っていた。

 僕はそのパスを受け取り顔を上げる。僕の前に人はいない。このままドリブルで突っ走って、ゴールするのは簡単に思えた。だけど――。

 僕は周りの誰かにパスするふりをして、適当にボールを蹴った。

 下手くそと思われない程度に。だけど上手いヤツとも思われないように。

「あっ」

 けれど僕の蹴ったボールは予想外に勢いよく、校舎の前に並んでいる花壇の中に突っ込んだ。

「おい、どこ蹴ってんだよー」

「ご、ごめん」

 自分の蹴ったボールを自分で追いかける。今のプレイ、ちょっと不自然だったかな? そんなことを考えながら花壇へ向かうと、一人の女の子の姿が見えた。

「あ……」

 女の子は花壇の向こう側にしゃがみ込んでいる。花の世話でもしていたのだろうか。

「すみません。あの……ボールが花壇に……」

 花壇の前で立ち止まる。すると長い髪を後ろで一つに結んだ女の子が、顔を上げて僕をにらむように見た。

 とっさに胸についた名札に目を移すと、六年一組という文字が見える。

 同じクラスの子?

 僕はさらに視線を動かして花壇を見た。植えてあった小さな花が、サッカーボールでぺしゃりとつぶれている。

「あっ、ごめん。花が……ごめんなさい」

 手を伸ばしてボールを取ろうとしたけれど、花壇に足を踏み込まないと届かない。

 入っていいのかな? ダメだよな。これ以上花をつぶしたら……。


「何やってんだよ?」

 振り返ると篠田と数人の男子がそこに立っていた。

「なんだ西村じゃん」

「クソ村だろ」

「くせー、クソ村! 寄るな寄るな!」

 男子たちの、からかうような笑い声が響く。僕は振り返ってもう一度『西村』という女の子を見た。

 いつの間にか西村は立ち上がっていた。背が高い。花壇を挟んで立っている僕よりも。

 背筋をピンっと伸ばした西村は、両手をぐっと握りしめ、大きな目で僕たちのことをにらみつけている。

「あの……」

 僕がつぶやくと、西村は勢いよく顔をそむけ、そばにあったランドセルを背負って歩き始めた。

 中学生のような体格の西村に、ランドセルはなんだか似合わない。

「ちょっ……ちょっと待って!」

「やめとけよ、上原」

 追いかけようとした僕のことを篠田が止める。

「あいつには近寄るな」

「な、なんで?」

「くせーから」

 そう言ったあと、篠田は他の男子たちと下品な笑い声を上げた。

「あいつほんと、マジくせーの」

「だって風呂入ってないんだろ?」

「あいつんち電気も水道も止められてるって、うちの親が言ってた」

「マジか? チョービンボーじゃん」

 笑い声が膜のように、僕の周りを包む。

 この感覚……忘れかけていた過去の感覚がじんわりとよみがえり、吐き気がしてくる。

「だからあいつには近寄んなよ、上原」

「そうそう。お前もくさくなるぞー」

 僕は篠田の顔を見て、黙ったままうなずいた。

「いこーぜ。サッカーの続き!」

「おう。やろやろ」

 篠田が僕を押しのけるようにして花壇の中へ入り込む。けなげに咲いた色とりどりの花たちが、篠田の靴にぐしゃりとつぶされる。

 篠田はボールを手に取ると、それを僕に向かって投げつけた。

「ちゃんと蹴れや。下手くそ!」

 はははっと軽く笑った篠田が僕を追い越し走って行く。他の仲間もみんな、何事もなかったかのように校庭へ走り出す。

 泥だらけになったサッカーボールは、新しく買ったばかりの僕のTシャツに染みを作った。

「上原っ、早く持って来いよ! ボール!」

「……うん」

 僕はみんなの後を追うように駆け出した。その時一瞬だけ振り返ってみたけれど、もうそこに西村の姿はなかった。

実際にある地名が出てきますが、現地とは異なります。

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