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私とミゼル夫人が初めてまともに顔を合わせたのは、友人であるオールドリッチ卿の催した娘の誕生祝宴でだ。それまで殆どの人が、どんな宴であれ夫人と会う機会はなかったということだった。結婚式は別として。
花嫁姿のマリアレットは仰々しい美しさがあった。当時十六歳であったが、祝宴に参列していた者は残らず彼女をメンルヴァと呼んだ。メンルヴァとは知恵と戦略、芸術の女神のことである。稀有な美貌と実力は元より、華やかな紅い髪が雄々しい闘いを彷彿とさせるのだ。純白のウェディングドレスとヴェール、薔薇のティアラは彼女を引き立てる地味な役割に無抵抗であり、むしろ積極的だった。八年経った今では、その優れた美点に更なる磨きがかかっている。同年代の女人を連れてきても、ミゼル夫人はさぞ若々しく見えるに違いない。
伯爵は貴族間及び自ら開いたサロンに、夫人を伴うことがなかった。聞けば彼女は描画にしか関心を示さず、人前に出ることに感興が湧かないそうである。だから伯爵は彼女が創作した数点の極上品を荷馬車に積んで運んで来、その場で売買契約を始めるのだった。とはいっても、金儲けの為に持参するのではなく、多くの貴族がそう要望しているのだ。私も二品買い取った。そのうちの一つは老体の父に贈った。
ミゼル伯が亡くなってからのサロン、パーティー、様々な催しは寂しくなった。当然である。絵の競り売りも娯楽の中に入っていたのだから。
耐えかねたオサリバン方伯夫人が、オールドリッチ卿の祝宴に招待されたのを良いことに、裕福な未亡人も誘ったのだ。財政面ではミゼル伯の方が上だろうが、爵位こそ下なので無碍にも断れない。そうした経緯で、ミゼル夫人はやってきたのであった。未発表の作品を持ち込んで。
ミゼル夫人は感情を表に現さない分、絵で表現する。その時に感じた憂いや喜びを手帳に書き留め、後で具象化するのだ。――――そう、ミゼル伯爵は語っていた。
久しぶりの作品に、誰もが我知らず手を叩いた。当の本人は皆が欣喜雀躍する様をぽつんと望んでいたが。
私はある一つの絵に魅了された。暖炉の暗がりを照らすように橙の焔が揺れ動いており、背凭れに緋のハンカチーフが掛けられた木製の安楽椅子に座る老人と、折り曲げられた膝に寄り添う紅髪の幼女が暖をとっている。招待客は暖かさが溢れる祖父と孫娘の絵と称したが、私にはどうしても夫人と伯爵にしか見えなかった。しかしながら、伯爵は均整のとれた体つきの伊達男で、夫人は重なっていく年齢を脱した美女ではあった。
次々と出される料理に貴族が舌鼓を打っている時、私はさり気なく彼女に話しかけた。これは貴方と亡き旦那様ですよねと。
彼女は頷いた。他の方は気付いて下さらなかったけれど、と付け加えて。
他の方は気付いて下さらなかった。その言葉に、優越感を覚えたのは言うまでもない。
それからは生憎、芸術に対する専門的な知識を私が持ち合わせていなかったので、平凡な会話しかできないでいたが、それでも彼女は耳を傾けてくれた。
何かの拍子で、寡婦が呟いた。
「近いうち、よければ屋敷にいらして下さい」
耳を疑った私は、もう一度聞き返した。幻聴と思しき台詞と寸分の違いがなかった。単純に私は喜んだ。よりにもよって今を栄える最高画伯の屋敷に招かれるとは。これ程の名誉はない。城伯家の分際で。
実はそれまで、私だけが彼女を一方的に知っている、しがない人間にしか過ぎなかったのだ。
無言のまま長い階段をゆっくりと登っていると、杏色の燭台が等間隔に設置されている壁に掛けられた、大きな絵画にふと目を引き寄せられた。彼女の天賦の才が凝集された色彩、構成、独創性とは懸け離れている。琥珀の額縁には、立派な彫刻師に彫らせたような『Marialette June Mizelle』という文字がぼんやりと浮き出ていた。
「主人の描いたものです」
響かなくなった足音と、私の視線の先に気付いて、先頭に立っていた彼女は振り向いて言う。声量は小さく、声色は落ちた花弁を穏やかに吹き流す微風のように静かであった。但し、温度は低かった。
彼女の瞳が芸術以外で蛍火のように仄明るくなったのを、我々は見たことがない。その上、表情も常に『無』を呈していて、非常に精巧な作りの人形を思わせていた。
ところが今ここにいる女性は、若干の和やかな空気を運んでいた。夫の遺作に眺め入る彼女の口辺も、ほんの微かだが上がっている。
彼の出来はお世辞にも巧妙だとは言い難い。乾きの遅い褐色の絵の具には罅が入っているし、酸化鉄を含有している黄色の絵の具は年月を経て変色してしまっている。質の良い画材を選べばこのようなことにはならないのだが、どうやらミゼル伯爵はこういうことにあまり頓着はしないらしい。大体、厚く塗りすぎてよく分からない派手な代物になってしまっている。
「結婚してすぐでしょうか。ご自分も絵を描きたいと仰って、絵具も画板も何もかも独自で用意して、二ヶ月自室に籠りっきりで………」
彼女の誕生日、朝一番に差し出したということだ。その前日は夜通し完成に専念していたらしく、目の下に濃い隈ができていたそうだ。じっくり観察してみると、漸く彼女の肖像画に見えた。よっぽど時間がなかったのか、肌は支持体の白さで誤魔化している。隣に飾られた夫人作の一品と並べてみても、手並みの格差は歴然だった。
夫人作の額縁に印刻されているタイトルは『イベリスに魅せられて』。ブロンドの髪の少年とブリュネットの髪の少女が前後に並んで笑いかけている。前方で三角座りをしている少女はイベリスで編んだ真っ白な花環を頭に乗せ、左右の耳の上に手を添えている。後方に立っている少年は、彼女の両肩にそれぞれ手を置き、ほんのりと白い頬を桃に染めている。彼らの戯れている舞台は草原のようで、奥には霞がかった青い空、黒に近い深緑の森が広がっている。草の色はまちまちで、基調としては浅緑だが、所々黄緑や青翠の陰影がこと細やかに編み出されている。――――まるで、風が吹けばひとりでに踊り出しそうな精妙さ。
イベリスの花言葉は『初恋の思い出』。幼い男女は互いに淡い桜色の感情を抱いているのだろう。子供に有りがちな全能さと甘さを加えた、可憐な純情。耳を澄まして感覚を研ぎ澄ませば、彼らの楽しげな笑声が高鳴って響きそうだという期待を此方に持たせかけている。
ひょいと、あることを思い出した。私の知り得る限り、彼女は出来上がった作品の数々を夫の手によって王侯に振り撒いていた。それに以前の会合で全て持って行ったはずだ。何故唯一これだけ、私邸に置いてあるのだろう。より優良な作品だってあったのに。
言外の問いを察知したのか、彼女は静謐に、だが頑とした含みを持って切り出した。
「これだけは、手離したくないのです」
少しだけ、熱がこもっていた。
自作のものとはいえ、何らかの記念にとっておきたいと保存する芸術家は多数いる。だが、あらゆる欲から切り離された寡婦がそうするというのは、私にとって信じられなかった。
「主人が亡くなった夜に描き始めたものなのです。完成に手間はかかりましたが」
秀作を創り上げるとすると、一カ月はかかることがざらである。下絵、配色の決定、下塗り、上塗り、乾燥などで作成期間を喰ってしまうからだ。彼女の場合、もっと短時間で仕上がることは周知の事実だけれど。
余計な道草を食ってしまった。もうすぐ日にちも変わる頃合いだろう。夜更けまで付き合わせている奥方に申し訳ない。どうもこうも、元を辿れば遅い時間に尋ねた私が悪いのだが。
ゴーン、ゴーン。一階のどこか――――恐らくは応接間だろう――――から柱時計の重い音が鳴り響く。日付が一つ進んだのだ。新しい日を迎えたのは良いが、些かあの音は不気味だ。
奥方は今から行く書斎へ続く、闇に包まれた階段の奥を眺め遣った後、再び私と目を合わせて問うた。
もう遅いですから泊まっていきますか? 一人になってから、沢山の部屋が未使用のままですし。
伯爵が亡くなると、素知らぬ顔で次々と使用人達は去っていった。いかに夫人には抗えられぬ魅力があるとはいえ、跡取りのいない家はまもなく絶えてしまうのが必定だ。火の粉が飛んでこないようにとの自己防衛だろう。
奥方の厚意を、私は丁重に断った。朝にこの邸から出ていくのを誰かに見られたら、たちまち変に色づけされた風聞が流れるだろう。それでは家の名誉に泥を塗るし、何より彼女にも迷惑がかかる。絶対に避けたいところだ。
そうですか。
余所余所しい相槌を打って、夫人は歩みを再開した。
未だに荘厳な振り子時計の平坦な音調が耳を擽る。逃げるように、私は奥方を催促して先を急いだ。
「あと三十分ほど、お時間をとらせて頂いても宜しいでしょうか」
ええ、と私は頷いた。
前へ前へと狭い歩幅で両足を止め、再度夫人は私を振り返った。だが怒っているようではない。私はこの人を前にすると、どうしても臆病になるきらいがあるようだ。
「お荷物になるでしょうが、貴方に渡したいものがあるのです」
私は身を固くした。初対面にも等しい私に、渡したいもの?この日の為に、友好の証として特別に絵画でも描いてくれたのだろうか。
書斎の照明器具がこぞって明るみを呈した時、私のうきうきした期待は儚いものとなってしまった。
灰色を基調にしたライティングビューローの大きな表面積の六分の一を占める壺。それが母親の花瓶だと視認するのに二秒かかった。
滑らかな磁器には刷毛塗りが施され、下方には聖人が夢で見た『十字架の花』だと信じられてきたトケイソウが疎らに咲き誇っている。母親のコレクションの中でも五指に入る名品だ。
植物嫌いな母親は、代わりに花瓶収集に凝っている。聖杯をモチーフにしたエメラルドの花器があると聞きつければすぐさま購入に走り、割高であっても好みのデザインであれば喜んで買い取るのだ。一年間の増加量は二十を超えており、父親もほとほと舌を吐いている。うちを花瓶屋敷にする気かと、執拗に咎め立てている。
去年の初夏頃に、母親は泣きそうな顔で私に縋りついてきた。理由がお気に入りの花瓶が一部欠けてしまったという子供じみたそれで、流石の私も父親に同情したことを覚えている。だがその三日後、母親が妙に上機嫌だったことを思い出す。今となって、母親が彼女に頼んだことは容易に知れた。
夫人の話によれば去年、ミゼル伯爵がこれを修復してほしいと依頼人の名も言わずに託したのだ。
彼女の専門はあくまでも絵画であって、破片も紛失してしまっている花器の復元ではない。白漆で欠片を作り、接着にも漆を流し込み、はみ出ればアルコールで拭き取る。東洋の文化で『金継ぎ』と呼ばれる修復法だが、漆は季節に左右されやすく、乾燥に数カ月もかかるのだ。この手の修繕にこなれていなければ、十二カ月を丸々費やしても不思議ではない。
だが、次に耳にした彼女の台詞に、私は最前の思いを撤回せねばならなかった。
「本当はもっと早くにできたのですけど、なにぶん主人がお墓にまで依頼主のお名前を持ち運んでしまって………。貴方とお話をした時、お母様のご趣味が花瓶収集だと知って、もしかしたらと」
夫人は怜悧だ。語り手の私でさえ記憶に留めていない他愛もない話題も、しっかりと清聴してくれているのだから。
『よければ屋敷にいらして下さい』といった理由はこの点にあったのだ。何に期待していたのだ、自分は。
「貴方が話題を振って下さって良かった」
愛おしげに、彼女は小振りな花瓶の括れを撫でる。細くしなやかな指の一本一本が、ギリシャ神話の『ピュグマリオン』に登場する、元は彫刻であった乳白色の肌を持つ者の如く柔らかだった。
何故芸術がお好きなのですか。馬鹿馬鹿しく浅薄な質問を、どうにか恥ずかしい雑念を振り払おうとして投げかけてしまった。必死な気持ちとは真逆に、彼女は真面目に答えた。
芸術は裏切りませんから。陶器も絵画も、作者の心を投影した作品だけは、一生。
このような美術の先駆者となった女性にも、辛い経験があったのだろうか。敢えて聞かないことにした。
丁度その折、パタパタパタと必死に地を踏み締め駆けてくる可愛らしい音が鼓膜を揺さぶった。床と足が接した時の靴音がごく軽いことから、幼児のものだと想定できるが―――
「ママぁ!」
さっぱりしたブロンドの髪に、黄の混じった緑の双眸。四、五歳ほどの愛らしい少年が、夫人の膝元に飛びついた。紺のシャツにベージュの半ズボン。どこかで見た子供だ。そう遠くない過去に。
突然の少年の登場に、夫人も些か虚を突かれたようだ。手を口元に運んでまあ、と声を上げる。
「坊や。もう出てきてしまったの?」
「ママ。この人だあれ?」
不安げに男の子はぴ、と私を指差す。駄目でしょう。ミゼル夫人は窘めた。
これ以上ここにいてはお邪魔虫だな、とおのずから思った。
私は膝を折り曲げて、男の子の頭を撫でた。ふさふさと触り心地が良い。
「何でもないよ。……おいとまさせて頂きますね」
「お気をつけて」
母の花瓶を持って、私達は深夜の長い階段を下り続けた。その際、私は壁に掛けられた『イベリスに魅せられて』を横目でちらりと見てみると――――
三角座りの女の子が、花環を頭に嵌めて微笑んでいる。何ら変わりはない。背後に立つ少年の姿がないという事実を除いて。
けれども私は別段驚きもしなかった。大地が雨雪に晒されると濡れるように、私には自然のことのように受け止められたから。後ろについてきている夫人と男の子も澄ました顔でいる。
青地に金糸でキンセンカの刺繍がなされたカーペットを敷いた玄関に辿り着き、私は不意に思った疑問に衝き動かされ、夫人を見返った。
「再婚のご予定は?」
ありもしないことを口走る。そういえば、彼女より二つ上の王子はマリアレットに執着している。婚礼でも一人はしたなく歯がみしていた。結婚後、早々に王宮の一室を引き払った今でも、あれこれ呼び出しの手紙をしたためているという噂だ。
マリアレットは否定的に首を振る。
無意識に、私は彼女の左肩へ零れた紅髪の一房を指に絡めていた。夫人は眉一つ動かさない。一口で何色とは答えられない暖色の瞳が、物遠く私を見据えていた。
「こんなにお若くてお美しいのに……」
言いかけて、はっと手を引っ込める。幾ら憧れの高嶺の花といっても、不躾に近づくのは賢くない。
夫人は気にしていない風で、依然として心情の読み取れない面差しをしている。不可解な行動をとった私と不動の女性を見比べて、男の子は小首を傾げた。小さな子供は純粋すぎるが故に男女の機微に鈍感なのが救いだ。
私は花瓶を小脇に抱えて姿勢を整え、それから深く一礼した。つられて男の子も頭を下げる。
「ミセス・マリアレット・ジェイン・ミゼル」
扉を開けると、外の空気は肌寒かった。これから冬に移り変わってゆくのだ。けれども、この女性は思うがまま描き続けるのだろう。
「また、訪問してもよろしいでしょうか?」
「……お待ちしております」
ドレスの裾を控え目に摘まみ、恭しく頭を垂れる。背筋を隠すように流れる髪が、扇のごとくファサ……と広がった。
一点の曇りもない朗らかな笑みを浮かべて、男の子は手をひらひらと振ってくる。それに応じながら、私は扉を閉ざした。
馬車は元々手配していなかった。夜更けに従者を叩き起こすのも忍びなかったし、ミゼル邸を訪問するということを知られるのも嫌だったからだ。
短い間だったけれど、とても興味が湧いた。見えないところでの意外な繋がり、夫人の絵画、絵から飛び出した男の子……。
強めの風が木の葉を揺らし、月色の街路灯が照らす闇夜の街道にざわめきの音楽を奏でる。左右に震える一葉の中に、私は男の子がまた手を振ってきている幻を確かに見た。
―――――どうやら、通い詰めることになりそうだ。




