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中三ごろに書いたやつを発掘したので。
いらっしゃるのを心待ちにしておりました――――艶やかな紅い髪を流した女性は感慨なくそう呟いた。
オイルランプのガラスを通り抜けた柔らかな光が、暗い階段を柑子色に照らす。焔は不規則に縮まったり盛ったりと忙しない。ふとした拍子に消えてしまいそうで、私は冷や冷やした。
丸く広がる灯りが、女性と私の影を実質の身長より倍に伸ばす。早く先へ進ませようと焦っているかのようだ。
耐久性のある木材で建てられた館は一人で住むには広すぎて、生活感や人間性といったものが希薄だった。奥方自身、物静かでたおやかな気質だからだろう。誰が見ても一目で高額だと踏める純金細工が、屋敷の窓枠やドアノブ、屋根の縁、飾り棚に納められた皿秤などの様々な調度品を嫌味のない程度に飾り立てている。とてもじゃないが流行に添っているとは言えない。だが、懐古趣味な私にとっては居心地が頗る良かった。ある夏の早朝、山奥の小さな別荘で霧の涼しさを感じる感覚――――それに似ていた。
彼女のふんわりと腰回りにボリュームを持たせたドームラインドレスもレトロ感に一役買っている。普段は漆黒を好んで着用している彼女だが、今日は真紅だ。透かし模様のフィレレースは高貴な紫紺で、女性が妖精ならば、その妖精についた羽根、またはそれを取り巻く大気であった。胸元が大きく開いている肌を飾るのは、亡き夫の形見だというスターリングシルバーを土台にしたブルートパーズの首飾り。
夜分に突然女性の家を押しかけるのは紳士として大罪だが、何分時間が取れなかったのだ。しかしこの女性は怖じ気もせず温かく迎えてくれたので、くよくよと悩まないことにする。
ミゼル夫人の旧姓はフォンターナ。この辺りでは耳慣れない単語だ。なかなか舌の回らない何人かはフォンテーンと発音していた。
彼女には大陸の多民族国家の血が少なからず混じっている。十代ほど遡った先祖が、異民族同士の衝突から逃れる為にこの小さな島国にやってきたのだ。この時期からフォンターナの絵の素晴らしさは満場一致で称賛され、いつしか王家直属の絵師に任命されたのだ。多様な色彩を自在に操り、真っ白なカンバスに生を吹き込む彼らの才能は、芸術に対する鑑識が古臭かった我々に一つの感動を与えた。実に写実的で物柔らか、射し込む光の微妙な濃淡、黒以外の絵具で塗り込めた影。一目で作者の技量の度合が窺えた。
そうして今、眼前にいる美しい未亡人は宮廷画伯の一人娘だ。自身も絵画に描かれたる女神の如き美しさと才能を兼ねている令嬢として、十の時より城へ参内した。類稀な画才は、彼女を知る者全てに愛された。中でも特に惹かれたのがミゼル伯爵。人となりも己の理想像であったマリアレットに彼は熱心に言い寄り、ややあって彼女も首を縦に振ったのだ。歳の差は二十と、かなり差はあったが、祝福された婚礼と生活だったことには変わらない。子宝には恵まれなかったが、それなりに充実していた筈だ。
未婚時代の彼女は大抵、宮廷の中に与えられた一室に閉じこもり、一心不乱に普遍的な世界の創世に打ち込んでいた。城伯家の一男坊であった私は半年に一回、管轄地の報告書を書き連ね提出し退出する際、遠回りをして彼女の画室を覗き、鬼気迫るその背中を観じていた。美人は後ろ姿からその質の佳さが分かるというが、実にそうだった。表現は悪いが、鮮血を透過させたような長くたゆたう髪は春の水流に相違ない優美さを孕んでいて、声をかけようと何度決心してみても叶わなかった。それほどまでに侵し難い聖域であったのだ。
誰の目から見ても、彼女の頭を占めている大半が『絵』に関する事柄なのは瞭然だった。他のことに熱を上げないからこそ、あのような絶品を創り上げられるのだ。
人間性も欠落しているのだろうか、彼女は始終冷やかな瞳をしていた。どんなに話しかけられても必要最低限の言葉でしか応えず、そそくさと自室に戻る。仕事熱心だなどと皆は口を揃えて感心していたが、どうだろう。
しかし美術の知識に長けている者との会話では、うっすらと笑みを浮かべるのだ。同業者とまではいかないが、ありきたりの台詞でしか褒め称えられない貴族などよりは、よっぽど手応えがあるのだろう。
それを知った人々は競って美術関連の本を買い込み読み漁り、彼女と熱っぽく対話をした。ところが全て玉砕だった。彼女の求めているものは、そんな模範的な思想ではなく、独力で追及した高度な美観なのだ。果たして、そこまで辿りつける人物がこの先何人いるのか。
美学の真理の探究に断念した人々は、彼女の絵を買うことでその空虚な穴を埋めた。貴族達がパーティーを開く時、最低一枚は大々的に飾るのが一種のステータスとされた。最早今の時代、彼女の絵がなければ文化面において何も動かない。
彼女の描いた絵画は全作、とんでもない高値で取引された。それほど需要が高いのだ、我々にとって『近代的』なそれらは。




