惚れ薬
朝からアリーチェは悶々としていた。
昨夜の一件は自室に戻ってから何度も脳内でリピートされて、なかなか寝付くことができなかった。そして寝たら寝たで、今度は夢の中にまででてきたのである。しかも、夢の中のアルトは現実の彼より優しく、情熱的だった。さらに、自分自身も現実より積極的に彼を求めていた。
おかげでアリーチェは、わざと朝食の時間をアルトとずらした。こんな状態で彼に会ったら、どんな反応をしてしまうかわかったものではない。彼はただ、魔力の補給をしただけなのに。
いつもより遅く現れたアリーチェを、ローマンは笑って迎えてくれた。
「おはようございます、アリーチェ様」
「おはよう。……アルトは?」
「お部屋にいらっしゃいますよ」
「魔力は戻ったのかな」
「ええ。まだお戻りにならないようなら私の魔力をお分けしようと思っていたのですが、大丈夫なようです」
さらりと言われて、アリーチェは思わず彼から後ずさった。
「ローマンの魔力を……アルトに?」
「はい」
「つまり、あなたがアルトと……キ……く……えええええ……」
「いかがされました?」
変な想像をしそうになって、それを必死で打ち消すアリーチェをローマンが不思議そうに見つめる。
「……何でもない。魔術師って大変ね。目的のためには手段を選ばずというか……」
これ以上は考えまい。寝付けず夢の中でも悩まされた自分がバカみたいだ。
遅めの朝食を食べて、なるべくアルトに会いたくないので厩の掃除をすることにした。
「あなたのご主人のせいでもやもやしっぱなしよ」
黒鹿毛の馬にそんな文句をたれてみる。彼はアルトに似た真っ黒な瞳で不思議そうにアリーチェを見た。
「魔術師って変わってる。こっちの常識が通じないんだもん。あなたもそう思うことない?」
水を替え、藁をまとめながら馬に話しかける。
「あなたもいろいろ大変じゃない?それともあなたには優しいの?私にも時々優しい……けど。……あなた、名前何ていうのかな」
「ディアゴ」
後ろから聞こえた声にアリーチェは飛び上がった。振り返ると、厩の入り口にアルトが立っている。
「な、何でここに」
「こいつは俺の馬だ。何かおかしなことでも?」
「そうじゃなくて……」
せっかく避けたのに、どうしてここで会ってしまうのかーー……。
ぽいっとアルトが何かを放った。キャッチしてみるとリンゴである。
「ディアゴはリンゴが好きだ」
「へ?……あ、ディアゴっていうの、この子」
ディアゴが前足でがりがりと地面を引っ掻いた。リンゴをねだっている。アリーチェは彼にリンゴを差し出した。ディアゴが嬉しそうにそれをかじる。
「食べたら行くぞ、ディアゴ」
アルトの言葉にディアゴが頭をあげる。何でもわかっているようだった。
「……おまえも付き合え」
アルトが厩の奥から鞍を出しながら言った。
「え」
「町に出る」
「え……あ、うん……」
リンゴを食べ終えたディアゴにアルトが馬具を装着していく。ひらりと身軽に馬上の人となったアルトがアリーチェを彼の前へ引っ張りあげた。後ろから彼にぴたりと密着され、心臓がばくばくと爆発しそうに脈打っている。
「な、何しに行くの?」
「依頼されていた薬を届けに」
「アルト、薬も作るのね。何の薬?」
「惚れ薬」
けろりと返ってきた答えに思わず馬から落ちそうになる。
「おい、気をつけろよ」
「ご、ごめん。だって惚れ薬って……本物じゃないよね?」
「さあ。俺は文献通りに作っただけだ。効果は知らねえ。試してみるか?」
後ろから伸びてきた腕が、キャンディのような丸いものが入った小さな瓶を目の前に出す。
「試すって……」
「おまえがこれを俺に食わせれば、俺はおまえに……メロメロになる。逆でもいいが」
「……あ、アルト、メロメロとか言う性格じゃないでしょ!そもそも何入ってるのよ、これ」
「イモリの黒焼きとバラの蜜、それに幻惑の術をかけてイチゴで色と味をつけた」
「……材料を聞いた時点で食べるという選択肢はなくなったわ」
「俺もこんな甘ったるいものは食いたくねえ」
アリーチェはもちろんイモリのことを言ったのだが、アルトはどうも違うらしい。魔術師と話すのは大変だ。
瓶を引っ込めたアルトが手綱を握り直した。
「不思議だったのよ。あのお城、どうやって収入を得ているのかなって。こうやってよくわからない薬を売ってたのね?」
僅かに批判をこめて言うと、後ろからは否定の返事があった。
「まさか。こんな薬でそんなに儲けられるわけがない。城があるんだ。領地もあるに決まってるだろう」
おまえはバカかと言いたそうな口調で言われ、むっとして思わず振り返る。すると存外近くにあった真っ黒な瞳と視線がぶつかり、慌ててまた前を向いた。
「領地があるの?」
「俺たち魔術師の扱いは騎士と変わらない。前の戦でそれなりに働いたからな」
「前の戦?」
「百年ほど前にあった戦だ」
ディアゴの足並みが一瞬乱れた。ぐらっと揺れたアリーチェの上半身を支えるように、アルトが腹部に腕をまわす。そのまま後ろに引き寄せられ、彼に完全にもたれかかるようになった。
平静を装って話を続ける。
「そんな戦、学校で習ったかなあ」
「習ってないかもな。隣国の内乱にちょっと干渉した程度だから。その時の武功で城と領地を貰ったから体よく引退した。戦に関わると面倒臭えってこともわかったしな」
珍しくアルトがよく喋る。しかもアリーチェを挑発することもなく穏やかに。馬に相乗りして、彼にもたれかかって話をしているなんて、端から見れば仲の良い恋人同士だ。
でも実年齢で考えたらおじいちゃんと孫かしら。実際の認識からすれば捕食者と餌だし。まあ、バリバリ食べられることはないみたいだけど。
ぼんやり考えていると、またぐらっと身体が傾いた。おい、とアルトの低い声が耳元でする。
「おまえ、バランス感覚悪すぎだろ。運動神経鈍いんじゃねえの」
「そんなことないよ!村の子どものなかでかけっこは一番速かったんだから」
「それでよくあのおっさんにこき使われてたんだろ」
「……よくわかったね」
「…………歪んでる奴はわかりやすい。おまえのバカみたいな単純さもわかりやすいし」
いつもの意地悪なアルトが戻ってきて、正直少しだけほっとする。
手を伸ばしてディアゴの首を撫でた。
「あなたのご主人様、本当に失礼なんだけど」
アルトは鼻で笑っただけで何も言わなかった。
町に着くと、アルトは薬を渡すために町の奥にある屋敷へ向かった。おとないを入れるとすぐに応接室に通される。そしてまもなくけたたましい足音と共に、妙に着飾った若い男女が入ってきた。
「できたんだね、薬が」
男の方の問いに、アルトが黙って瓶を差し出した。
「良かったわね、兄さん!すぐにマーガレットに飲ませなきゃ。そしてあたしはあなたに飲んで貰うわ、アルト」
女の方がきゃぴきゃぴした声で言うと、ソファに身を沈めていたアルトが珍しく目を剥いた。
「は?あんた何言ってるんだ」
「あら。あたしは初めからそのつもりよ。兄さんはマーガレットに、あたしはあなたに飲んで貰うの。はい、あーん」
彼女はアルトの隣に来て、薬を一粒口元に持っていく。
「あんたバカか?何で俺が食わなきゃいけないんだ」
「あら、効き目の自信がないのかしら?」
アルトの血管が切れる音が聞こえた気がした。早く何とかしないと、この二人が吹き飛ばされるか切り裂かれるかしそうだ。
「あの……」
フォローしようとしたアリーチェの前に、男の方がぬっと現れた。
「効き目、試してみようか」
「へ?」
ぽかんとしたアリーチェの口に、男がぽいっと薬を放り込んだ。キャンディみたいなものかと思いきや、それはあっという間にとけてしまう。
「ん!?」
事態を理解してパニックになりそうになる。しかし薬自体は意外とおいしい。中身はイモリの黒焼きなのだが。
「面倒臭えことしやがって」
隣でアルトが舌打ちしている。本当に面倒臭い。
面倒臭いことをしでかした張本人が、わくわくとアリーチェの顔を覗きこんだ。
「どう?どんな気分?」
どんな気分と言われても普通だ。
「おいしかった?」
それなりにおいしかったので頷く。
「僕のことどう思う?」
どう思うと言われても困る。
「僕のこと好き?」
好きか嫌いかと言われたら好きかもしれない。
こくりと頷くと、隣のアルトが深いため息をついた。どうしたのだろう。
目の前の男は嬉しそうに笑った。
「へええ、本当に効果あるんだ。さすが凄腕の魔術師だなぁ。じゃあ君、僕にキスして」
言われた通り、目の前にあった彼の頬にキスをする。「まあ!」と女が嬉しそうな悲鳴をあげた。
「すごいわ!ねえ、アルト……」
「先に言っておくと、俺には効かない。魔術に耐性があるからな」
「ええっ」
泣きそうになった女から目を逸らし、アルトがアリーチェの腕を掴んだ。
「帰るぞ」
そう言われたので、こくりと頷いて彼に従う。
男は慌てたようだった。
「え、ちょっと……」
「薬の効果は一時的だ。切れた時にどうなるか、ちゃんと考えた方があんた達のためだぞ」
「え?ちょっと待っ」
バタン!と派手に扉を閉め、アルトはアリーチェを引っ張って歩き出した。アリーチェはそれについていくだけだ。
ディアゴに乗せられて城に戻る。なぜかアルトは不機嫌だ。しかしそんなことは気にせず、アリーチェはちょこんとディアゴに跨がっていた。
城に着くと、ローマンが迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。……いかがされました?」
「道楽バカ息子がこのアホに惚れ薬飲ませやがった」
「はい?」
アルトの説明にローマンが首を傾げる。
「惚れ薬、ですか?」
「ああ。たぶん幻惑の術がかかってると思うんだが……おい、バカ娘」
呼ばれたので、はい、と返事する。なぜかローマンが目を丸くした。
「あのバカ息子のことが好きか」
「はい」
答えると、ローマンがますます目を丸くする。
「じゃあローマンのことは?好きか」
「はい」
今度はなぜかローマンが頭を抱える。
「……あのバカ息子のことを愛してるか?」
「はい」
何の躊躇いもなく答えると、ローマンは顔をしかめてアルトの方を見た。
「アルト様……これは……」
「幻惑の術が変なかかり方したな……意志がなくなってる、と思う」
「これ、いつ解けるんでしょうか」
「数日だと思うんだが……」
アルトとローマンは何やら二人で話しているが、アリーチェは全然気にしていなかった。
「しかし、どうして惚れ薬なんて……」
「このバカがぽかんとアホ面してる間にバカ息子が放り込みやがった」
「アルト様、口が悪すぎます。八つ当たりしたくなるのはわかりますが」
アルトのまわりの空気が変わった。怒っているのが伝わってくる。
この空気は知っている。叔父の機嫌が悪い時。アリーチェを叩いてやろうとしている時だ。