もう一人の住人
アリーチェが逃げ出したことも、その前に口論になったこともアルトは気にしていないようだった。
アリーチェも最初は腹が立っていたものの、アルトが魔物でないなら食べられる心配もなくなりいいではないかと前向きに考えるようになった。
しかしそれなら、なぜアリーチェを城に置いておくのかがわからないが。
ローマンにおずおずと聞くと、「このお城は二人で住むには広すぎます」と言われた。
一度口論してから、アリーチェはアルトに敬語を使うのをやめた。一度「アルト様、おはようございます」と挨拶をしたのだが、彼はものすごく不快そうな顔をして「今更俺に媚を売ってどうする」と言ってきたので、バカバカしくなってやめてしまった。
置いて貰っているという自覚があるので、アリーチェはよく働いた。料理はローマンに任せ、掃除や洗濯はアリーチェの仕事だ。今まではローマンが魔術でやっていたらしく、それだけで魔力を使い果たしていた彼は喜んでくれた。
その日、アリーチェは城の広大な庭を掃除をして疲れ果てていた。毛布を被るとあっという間に眠気が襲ってきてすぐに瞼が落ちた。
夢も見ずに熟睡していたが、なぜかふっと眠りが途絶えた。
何だろう、と寝返りをうち、その瞬間にアリーチェは固まった。
知らない男がまじまじとアリーチェを覗きこんでいたのである。
「ひ……っ!……あ、……ひやああああっ!!」
アリーチェの悲鳴に、まじまじとアリーチェを見ていた男は少し驚いたように身を引いた。
バタンと大きな音がして扉が開き、左手に灯りを載せたアルトが現れた。
「うるさいぞ」
「アル……、アル、ト……」
手元にあった毛布を男に投げつけ、アリーチェは必死でアルトのところまで足を動かした。
「あ、あの、あのあの、あの人……っ」
「舌まわってねえぞ」
アルトは冷静にアリーチェの頬をつまんだ。
「だ、起きたらあの人がっ」
「何しに来やがった、フーバー」
あっさりと男に話しかけたアルトをアリーチェはものすごい勢いで振り向いた。
「あなたの知り合い!?」
「ああ」
「ど、どういう友達よ!夜中に!勝手に入ってきて!」
「友達ではない」
「重要なのはそこじゃない!」
癇癪をおこしかけたアリーチェの頭に大きな掌が降ってきた。うるさいということだろう。
男ーーフーバーはにこやかに口を開いた。
「久しぶりに出てきたらお嬢さんがいてびっくりしたよ」
「ほいほい出て来るな。さっさと消えろ」
「ええ?」
彼は不満そうな顔をしてーー……消えた。
「き……っ!」
思わずアルトの服の裾を掴む。
「消え、消え……っ」
アルトの掌が拳に変わり、再び頭に降り下ろされた。
「うるさい黙れ。フーバー、悪ふざけはやめろ」
フーバーが目の前に現れた。ぎゃっ!と猫が潰されたような悲鳴をあげ、隣のアルトにしがみつく。
「フーバーだ。見ての通り幽霊なんだけどね。よろしく、お嬢さん」
「あ……あ、あ、あ」
アルトの拳が三度アリーチェの頭を小突く。それで我に返り、しゃきっとする。
「あ、アリーチェです……」
「アリーチェか。よろしくね。さて、僕はちょっと散歩でもしてくるよ」
ふわりと舞い上がり、フーバーはアリーチェの横をすり抜けて廊下へ出ていった。
それを見送ってからアルトを睨む。
「ここに幽霊が出るなんて聞いてないわ!」
「言ってないからな」
しれっと答えたアルトが腕を組み、先ほどのフーバーのようにまじまじとアリーチェを見た。
「しかしおまえ、魔物は平気で幽霊はダメなのか?幽霊の方が実害はないだろ。変な奴だな」
「だって起きたら部屋にいたのよ。驚くじゃない!」
「それであの色気もクソもない悲鳴か。獣の遠吠え思ったぞ」
アリーチェは憮然としてアルトを睨んだ。獣の遠吠えなんて言いながらアルトがちゃんと来てくれたことになんて気づいていない。
「他にもたくさんいるの?ああいう人」
「古い城だからな。表立って出てくるのはあいつぐらいだが。あいつも十年ぶりぐらいだったし」
さらりと言われた言葉に、アリーチェは首を傾げる。
「アルト、いったいいくつなの?」
見た目は二十代後半から三十代前半に見える。しかし、村に魔物の噂が古くからあることや彼自身の言動から、もっと年上のような気がしていた。
アルトは少し考えるような素振りを見せてから答えてくれた。
「百八十」
「ひゃ!?」
思った以上の年齢に思わず声が裏返る。
「人間だって言ってたのに!」
「魔力のせいで長命だから。魔術師はみんなそんなものだぞ」
「ローマンも?」
「あいつは魔力がそれほど強くない。だからまだ人間に近い。百五十歳ぐらいじゃないか」
「アルトより年下なんだね……」
思わずまじまじとアルトを見ると、彼はアリーチェを見返して片眉をあげた。
「気味が悪くなったか」
からかうように言われて、ふるふると首を横に振る。
「ううん。若々しいなって思っただけ。百八十歳のおじいちゃんなのに」
「あ?」
からかいの言葉に、アルトが眉間にしわを寄せた。それを見て慌てて口を閉じる。
「小娘が生意気な口を聞くようになったじゃねえか」
アルトの声は不機嫌だったが、なぜかいつもより親しみやすく感じた。そのおかげで思わず調子に乗る。
「……蛙にでも変えてみる?」
「それは面白い」
アルトが口角をあげ、指を振った。
まずい、言い過ぎた。
はっと息を呑んだアリーチェの頭に、ポトッと何かが降ってくる。それはアリーチェの頭に当たって跳ね、床に落ちた。ゲコッという鳴き声でそれの正体がわかる。
え、と思った時にはボトボトとさらに落ちてくる。蛙だ。
「ひやああああああああっ!!ちょっ、止めて!!」
「じゃあな。おやすみ」
「ちょっとアルトーーー!!」
アリーチェの悲鳴を完全に無視し、アルトは部屋を出ていった。アリーチェは大量の蛙と残される。
蛙は一時間後に消えたが、それまでアリーチェは寝ることもできずにベッドの上で固まっていた。散々な夜である。
幽霊と蛙のせいで寝不足のアリーチェは、目をこすりながら洗濯をしていた。確かにちょっと調子に乗った自覚はあるが、年頃の女の子の頭の上から蛙を降らせることはないだろうに。
ふわあ、と欠伸をしてからすすいだシーツを干すために立ち上がる。その時、三階の窓にアルトの姿を見つけた。憮然として睨み付けると、彼は鼻で笑うような仕草を見せる。むっとして見ていると、ふと隣に人の気配を感じた。見るとフーバーである。昼間に見る幽霊は何だか間抜けだと思ったが、それを彼に言うのは失礼な気がした。
フーバーはにこにこ笑いながら話しかけてきた。
「アルトと仲いいんだね、君」
にこやかに言われて、一瞬何の話かわからなかった。理解したあとに慌ててフーバーを見る。
「え?何でそうなるの」
「だって昨日アルトと楽しそうに言い合いしてたでしょ?」
「楽しそうに……?フーバー、あれは喧嘩してたのよ」
「僕の知ってるアルトは喧嘩なんてしなかったよ」
にこにこ笑ったフーバーに言われ、言葉に窮する。かといって仲がいいと認めるわけにはいかない。顔をあわせば口論、もしくはアルトから一方的な嫌みである。
昨日に至っては蛙まで降らされて。
ふつふつとまた怒りがわいてきたアリーチェの後ろから「アリーチェ様」とローマンの呼ぶ声がした。
「なあに?」
「大変です。山火事が」
ローマンが珍しく慌てている。
「山火事?」
「はい。アルト様は……」
「さっきまでそこにいたんだけど……アルト!」
呼ぶと、彼は再び窓際に姿を見せた。
「何だ、蛙娘」
「変なあだ名つけないで!……じゃなくて、山火事だってローマンが」
「麓の村が危険なのです」
アルトはちょっと眉をあげ、窓際から離れてまもなく庭におりてきた。
不機嫌そうな声で冷たく吐き捨てる。
「……自然の摂理だ。捨て置けばいい」
「ですが、アリーチェ様の村です」
「こいつを生け贄に差し出した村だ。助けてやる義務はない」
「そりゃ私だってあの所業は許しがたいと思いますが……」
なぜかアリーチェをおいて、アルトとローマンが言い合いになっている。
アリーチェは驚くぐらい何も思わなかった。叔父たちが大変だとわかっても、助けたいともいい気味だとも思わない。
しかし、叔父の家族といい思い出はなかったが、両親との思い出があの村にあるのも確かだった。
「私、様子を見てきてもいい?」
アルトとローマンがこちらを向いた。アルトは心の底から呆れたような顔をしている。
「……呆れるお人好しだな」
「一応私が育った村だし。アルトに迷惑かけないから。様子見てすぐ戻るね!」
止められる前にと駆け出したアリーチェをローマンが追いかけてくる。
「アリーチェ様、私も行きます。馬で参りましょう」
「ありがとう、ローマン」
お人好しすぎる、とため息をついたアルトの横にふわりとフーバーが現れた。
「ローマン爺は相変わらずスマートだこと。アルトも見習ったら?」
「何を」
フーバーの方を見ずに素っ気ない態度をとるアルトを、フーバーは苦笑いで見つめた。
「心配なら素直に心配って言ったらってこと」
「何で俺があの村を心配しなきゃいけねえんだ」
「その発言、天然?僕はアリーチェの話してるんだけど」
「蛙娘がどうかしたか」
フーバーはため息をついて、アルトの正面にふわりと移動した。
「君、魔術師としては一流だけど人としては三流だね」
「……人間でない奴に言われたくないんだが」
「失敬だな。元々は人間だよ」
そう言ってフーバーは消えてしまった。
アルトはアリーチェとローマンが去った方に視線を向ける。もう二人とも見えなかったが。