逃亡
「山へ?私が?」
自分の顔を指差して聞くと、アルトは片方の眉を持ち上げた。
「薬草とるぐらいできるだろ」
「はい……あの、一人で?」
「当たり前だろうが」
なんとまあ、向こうからチャンスが転がり込んでくるなんて。
アリーチェは小躍りしたい気分だったが、平静を装って「そうですね」と答えた。
アルトは図鑑を広げてアリーチェに見せた。
「これを探してこい。日没までに」
「わかりました」
「やけに素直だな」
アルトは少し怪訝な顔をした。
「下手に反抗して食べられたくないもの」
「は?……ああ、そうだな」
そう言ってアルトが近づいて来たので、アリーチェはぎょっとして身を引いた。彼はアリーチェの頭に手を置いて、何やらぶつぶつと呟く。
「な、何ですか」
「獣よけだ。俺より先に熊に喰われてはかなわん」
そうですね。
山に入るというアリーチェをローマンはやたらと心配した。
「大丈夫ですか。コンパスは持ちましたか。水と食料を……」
「ローマン、アルト様はそんなにお城から離れなくていいって言ってたし平気です」
実際は城から離れる気満々なのだが。
しかしそれならコンパスも食料も貰っておこうと考えを変える。胸の奥が痛んだが、食べられるよりましだ。
「熊よけは城からあまり離れると効果がなくなりますので、ご注意くださいね」
「はーい!」
ローマンが出してくれた食料を持って、アリーチェはくるりと振り返った。
「ローマン、いろいろありがとうございます」
「……いいえ。何です、改まって」
「ううん。何でもないです」
そう言って手を振り、城から出る。着てきた服を置いてきて、買って貰った服を着ていることに気づいたが戻るわけにもいかない。
町へ出る方の道をできるだけ早足で進み、途中で振り返るともう城は見えなかった。
そこから少し歩くスピードを落とすと、ふと道端にアルトが取ってこいと言っていた薬草が生えているのを見つけた。思わずそれを摘んで、摘んでしまってから手の中にある薬草の処理に困る。そのまま捨てるのも躊躇われて、荷物の中にそっとしまった。
それからなぜか気持ちが重くなって、とろとろ歩き出す。町に出てからどうしようかな、と思っているとますます足が重くなった。
そうやって俯いて歩いていたからか、目の前に飛び出してきた影に気づくのが遅れた。
「止まれ、娘」
低い声で言われ、はっとして顔をあげる。そこには二人の男が立っていた。
ぐるぐるに縛られ、猿轡をかまされたアリーチェは何とかそれらから逃れようと身体をよじった。しかしそれは無意味だった。
小屋の中にはアリーチェを拐ってきた二人の男がいて、アリーチェをどこに売り飛ばすかを相談している。
魔物から逃れたかと思ったら次は人身売買だなんて。魔物の餌から奴隷か娼婦に昇格である。昇格なのかすら怪しい。少なくとも喰われることはなくなりそうだが。
なぜか城に帰りたくなってきた。優しいローマンが懐かしくなるのはわかるが、アルトまで懐かしくなるのは我ながら驚きだ。
「足がつく前にそのへんでさっさと売ってしまおう。連れてこい」
男の一人がそう言って、もう一人が無理矢理アリーチェを立たせた。呻いて抵抗すると、したたかに頬を打たれる。口の中を切って思わず涙が出た。
「大事な商品だ。あまり傷つけるな」
苦々しげに男が言った。殴った男が舌打ちして、ひょいとアリーチェを担ぎ上げる。
その時、バン!と大きな音がして扉が開いた。
「日没までに帰って来いって言っただろうが」
苛立たしげな声に、アリーチェは男の肩の上で身体をよじった。この不機嫌そうな声を聞いてほっとする日が来ようとは。
「何だてめえ!」
扉の近くにいた男がアルトにナイフを向ける。しかしアルトは、掌を向けるだけで彼を吹き飛ばした。壁にぶち当たった男は呻き声をあげて気を失う。
「な……」
男が思わずと言ったようにアリーチェを落とした。床に思いきり打ち付けられ、思わずまた呻く。
「クソッ」
男が自棄のようにアルトに殴りかかる。アルトはそれをひょいと避け、男の鳩尾に拳を叩き込んだ。
倒れた男をまたぎ、アリーチェを起こしたアルトが少し乱暴に猿轡をとってくれる。
「面倒かけやがって」
アルトの指が頬をつねった。しかも思いきり。
叩かれて切れた口の中が痛んで涙が滲む。
「痛っ!はなして!」
痛みで思わず感情が昂る。
「こんなところまで来させやがって。俺に手間をかけさせるな」
「助けてなんて頼んでません。あんたに喰われるぐらいなら売られた方がましだったわ」
「へえ。じゃあ売られろ」
「売られます」
アリーチェは立ち上がろうとして、手足が縛られていることを思い出した。
バカにしたように鼻で笑ったアルトがそれをほどいてくれる。
「あ、ありがとうございます」
「ああ。じゃあ売られて来い」
この悪魔!
アリーチェは立ち上がり、失神している男を揺さぶった。
「ちょっとすみません。私のこと売って頂きたいんですけど」
ゆさゆさと肩を揺らすのだが、男は目を覚まさない。
「……もう!起きてってば!」
胸ぐらを掴んで揺すると、男の目がうっすら開いた。あ、と思った時に傍まで来たアルトが男の脳天に拳を振り下ろした。うっと呻いて男がまた失神する。
「何するのよ!」
「おまえバカだろ」
「バ……で、でも元はと言えばあなたの熊よけが効かなくて……」
「熊よけだっつってんだろ。こいつらは人だろうが」
そうだった。
「しかもおまえ、城からだいぶ離れただろ」
ばれてる。
つうーっと背中を冷や汗が伝う。
目を逸らすと、アルトはまたバカにしたように鼻で笑った。
「で、どうする?逃げ出したいなら目をつぶってやってもいいぞ」
挑戦的な目を向けられ、思わず応戦してしまう。
「そんな真似しません。山では薬草を探してちょっと迷っちゃっただけよ」
「ふうん?それで、見つかったのか?」
維持悪く言われて、アリーチェは小屋の隅に放られていた荷物を取りに行った。中を漁って薬草を取り出す。
摘んでおいて良かった!
「見つかったわよ。ほら!」
アリーチェが突き出した薬草をアルトは「ご苦労」とあっさり受け取った。
負けた気がするのはなぜだろう。やはり後ろ暗いことがあるからだろうか。
アリーチェは少し口を尖らせてアルトを睨むしかなかった。
それを見て見ぬふりをしたアルトは、アリーチェの頭にバシッと手を置いた。
「痛っ」
「うるさい黙れ」
ぎろりとアリーチェを睨み、アルトはぶつぶつと何か呟き始めた。
身体がじんわり温かくなり、次に以前のようにまわりが霞み始めた。どうやらまた瞬間移動する気らしい。
眩しさに思わず目を閉じて、再び開けた時には城の食堂にいた。
「アリーチェ様!大丈夫でしたか」
ローマンが厨房から飛び出してくる。
「あ……うん、大丈夫です」
「お怪我は?」
「ちょっと口の中切っただけで……あれ?」
そういえば不快な痛みが消えている。何で、と不思議に思ってからふと思い至ってアルトを振り向いた。しかしアルトはもうアリーチェからは興味を失ったかのように食堂から出ていった。今の彼の関心は薬草らしい。
時々変に良くしてくれるからたちが悪いのよね。
その背中を見つめ、アリーチェは小さくため息をついた。