城の主
翌朝、アリーチェは早朝に起き出した。身支度をして、そろそろと階段をおりる。厨房の方から音がするが、他に人の気配はない。
ホールを抜けて城から出ると、階段をかけおりて城門をくぐり、橋へ向かった。橋の下を流れる谷川が恐ろしいが、ここにいて喰われるよりはましである。下を見ないようにしながら橋を渡り、渡り終えたところで振り返って息をつく。
見れば見るほど立派で不気味な城だ。城主が魔物なのだからそれも道理だが。
城から目をそらし、歩き出そうとしたアリーチェは何かにぶつかってしたたかに顔を打った。
「いたっ!」
「どこへ行く気だ?」
頭上から降った声にぞわりと背中が粟立った。
おそるおそる見上げると、そこには不機嫌な顔をした魔物城主の顔がある。
「あ、あの……」
あわあわと口を開けば、黒い瞳が細められた。
「逃げる気か?」
挑戦的ににやりと笑われ、思わずアリーチェの負けん気が頭をもたげる。
「誰が!朝の散歩です」
「散歩というより山歩きだろ」
「そうよ。健康にいいんじゃないかと思って」
「そうだな。俺も不健康な人間を喰う趣味はない」
恐ろしい台詞を吐きながら、魔物城主はがっしりアリーチェの襟元を掴んだ。
「だが下手に運動されてガリガリになられても困る。というわけで城に戻れ」
有無を言わせずぐいぐいと引っ張られ、文句を言いたいのにそれもできずにアリーチェはただただついていった。
「あの……城主様は早起きですね?」
「アルトでいい。昨日はやることがあって徹夜だったんだ」
つまり、この男が夜更かしだったせいで取っ捕まったわけだ。
この魔物城主!悪魔!魔王!
悪態は全て腹におさめ、アリーチェは黙って引きずられていた。
ローマンのおいしい朝食を食べたあとにアルトは寝てしまったが、アリーチェはもう逃げる気力をなくしていた。逃げても行くところがないことに気がついたからでもある。
かといって何もしないのも暇で、何もせずにおいしいごはんを食べて太るのも嫌だった。どうせならガリガリに痩せてアルトの食欲を減退させたい。
そこでまず、自分にあてがわれた部屋の掃除をした。はたきをかけ、床を掃いて拭き掃除もする。窓ガラスと空の棚まで拭いてしまうと、少しすっきりした。
午後はカーテンを洗濯しようと思っていると、ローマンが訪ねてきた。少し困ったような顔で、手には何やら布地が載っている。
「アリーチェ様のお着替えを探してみたのですが、こんなものしかなくて……早いうちに町へ買い物に行けるよう取り計らいますので、それまでこちらでご辛抱頂けますか」
ローマンが差し出したのは、アリーチェから見れば豪華なーーしかし作りとしてはおそらく質素なドレスが三着だった。
「あ、ありがとうございます」
受け取ってみると、一番下に下着もあった。何となく恥ずかしくなるが、ローマンの紳士的な態度に救われる。
一番地味なものを寝間着にして、次に地味なものを着てみると、思ったよりも着心地は良かった。
それを着てお昼に降りていくと、ローマンは微笑ましそうに笑みを浮かべた。
「よくお似合いですよ、アリーチェ様」
「ありがとうございます」
少しはにかんで答えると、ローマンはますます頬を緩める。まるで孫娘を見るような目だ。
二人の間に流れたほんわかした空気は、突如現れた悪魔によって壊された。
「邪魔だ、小娘」
そう言ってアリーチェの頭を後ろから小突いたアルトは、アリーチェが飛び退いたのをじろりと見てから食堂へ入ってきた。
「おはようございます、アルト様」
ローマンが頭を下げる。どうやらアルトは朝にアリーチェを捕まえてから寝ていたようだ。
彼は定位置らしい椅子にどっかりと腰をおろし、黒い瞳がアリーチェを捉えた。
「小娘、コーヒー」
「はいっ」
しゃきっと背筋を伸ばし、アリーチェは厨房に駆け込んだ。挽いてあった豆をローマンに出して貰い、アルトが苛々しだす前にと急いでコーヒーをいれる。
「どうぞ」
アリーチェが出したコーヒーをひとくち飲んで、アルトは「お」と眉をあげた。
「これはいつものコーヒーか?」
「え、あ、はい。ローマンの出してくれた豆でいれました。……何かおかしいですか」
不安になって聞くと、アルトは首を横に振った。
「いや……うまい」
予想外の言葉に、アリーチェは頭をがんと殴られた気分だった。「それはどうも」と答えておずおずと厨房に引っ込むと、ローマンに怪訝な顔をされる。
「コーヒーを褒められました……」
報告すると、ローマンはにっこり微笑んだ。
部屋のものを洗濯して掃除もすませてしまった翌日は、またやることがなくなってしまった。そこで掃除の範囲を拡張し、廊下もきれいにしてしまうことにした。ローマンはアリーチェの好きにしていていいと言ってくれたが、アリーチェが掃除をしている方が楽だと言ったら承知してくれた。
城は広く、それなりに汚れていたから掃除のしがいがあった。自分の部屋のまわりから始まり、それから毎日少しずつ掃除を進めていく。アルトが主に使っている三階を掃除するのはさすがに気が引けたが、ローマンに聞くと問題ないと言うので掃除してしまうことにした。なんせ廊下は埃まみれだ。
アリーチェは掃除に必死だったので、ローマンが時々様子を見に来て微笑んでいるのも、アルトがぴかぴかになった廊下を見て目を丸くしているのも気づかなかった。
一階の食堂やホールはローマンによって磨きあげられていたので、それ以外の場所を掃除することにした。
普段使われていないような小さな部屋をせっせときれいにしていると、拭き掃除をしている時に何か床に突起があるのを見つけた。
「何だろ、これ」
思わずぽちっとそれを押す。
途端にどこかからギシギシと機械音が聞こえてきて、思わず立ち上がり後ずさる。
その後ずさった先の床が、ぽっかり開いた。文字通り、床がなくなったのである。
「ひゃあああぁぁぁ!!」
アリーチェの情けない悲鳴は穴の中に飲み込まれていった。
ずきずきと頭が痛む。背中も痛い。空気が澱んでいて気持ち悪い。
起き上がると、頭が強く痛んだ。見上げると、のぼれはしない高さのところにぽっかりと穴が見えてあそこから落ちたんだなあとわかる。
「何でこんな穴があるのよ……」
床には藁が敷いてあり、それのおかげで助かったらしい。とりあえずそこに座ったままで今後のことを考える。アルトやローマンが来てくれるならこのまま待つのだが、こんなところにいることを気づいて貰えるだろうか。
こんな陰気臭いところにずっといたくないなあ……。
その頃、アルトの「さっき何か間抜けな声が聞こえなかったか?」という問いに「いえ、私には」とローマンが答えていることはアリーチェの知るよしではない。
「そうか?あの小娘かと思ったんだが……」
アルトが首を傾げた頃、アリーチェは藁山の上で膝を抱えていた。
何回か上に向かって「おーい」と呼び掛けてみたが、特に反応はなかった。
疲れちゃったな。これからどうしよう。
拗ねるような気持ちになって藁の上で丸くなる。瞼が重くなって、寝ている場合じゃないと思いつつ思わず目を閉じてしまった。
「おい、起きろ小娘」
ぺしぺしと頬を叩かれ、アリーチェは重い瞼を持ち上げた。焦点が定まらない。ぼーっと青白い明かりが見えて、何回か瞬きしてみるとそれがアルトの左手の上に浮かぶ炎であることがわかった。
「アルト様……?」
「何でこんなところで昼寝してんだ」
「昼寝……?や、違います」
頭がすっきりしてきて、アリーチェはがばりと起き上がった。アルトが驚いたようにアリーチェから手を引く。
「落ちたんです!あの部屋に訳のわからない穴があって!」
「うるさい、喚くな」
アルトが耳を塞いでうるさいアピールをしてくる。
「訳のわからない穴って何だよ。おまえがスイッチ押したんだろうが」
「お、押したけど……まさか穴があくとは思わないです」
ふんとアルトが鼻を鳴らした。スイッチを押して勝手に落ちたのはおまえだと言いたいらしい。
むすっとしてアルトを見ていると、彼は炎を握り潰してからアリーチェの頭に手を載せた。じんわり頭の上から身体中が温かくなり、ずきずきしていた痛みがなくなる。
治してくれた、と思った時には既にアルトは立ち上がっていた。アリーチェが同じように立ち上がると、彼の腕に触れておくように言われる。躊躇いながら右肘のあたりに手を置くと、彼はぶつぶつと詠唱を始めた。途端にまわりの景色が霞み始める。白く霞むのが眩しくなって、思わず目を閉じてしまった。
「アルト様、アリーチェ様!」
慌てたようなローマンの声に目を開けると、そこは食堂だった。
「あれ……?」
ぽかんとしたアリーチェの前にローマンが駆け寄って来る。
「おけがはございませんか」
「あ、はい。ちょっと打ったんですけど、アルト様が治してくれました」
「アリーチェ様のお声に気がつかれたのはアルト様だったんですよ」
「……おまえの間抜け声はよく通る」
食堂のテーブルに置かれた夕食のおかずをつまみながら、アルトが毒を吐く。間抜けな悲鳴をあげた自覚はあるので何も言えない。
アリーチェが眉をひそめている間にアルトは部屋を出ていってしまった。