生け贄
その村には伝説があった。
村を見下ろすようにそびえ立つ山の奥には古い古い城があり、この世のものならざるものが住んでいる。山に入った者は、二度と戻って来ることができない。城の主に生き血を飲まれ、身体を喰われてしまうからである。
真か嘘かはわからない。確かめようという勇気のある者はおらず、村人は決して山には近づくことはなかった。
村長の娘だったアリーチェも、子どもの頃からその伝説を聞いて育った。両親の言うことを聞かないと、「山に置いてきちまうよ!」と脅されて泣いたものである。
実際にそんなことは一度もなく、アリーチェは大事に大事に育てられた。
しかし、アリーチェが十三歳の時に平穏は乱された。叔父の娘、アリーチェの従妹が山に入ってしまったのである。その直前、アリーチェの父が彼女を厳しく叱ったからだと叔父は父を泣きながら責めた。父は責任感が強い人だったため、彼女を探しに山へ入った。
翌日、従妹が見つかった。彼女は山ではなく、山の反対側にある森に行っていたらしい。
そして父は、二度と帰って来なかった。
村長の椅子に座ったのは、叔父だった。叔父はアリーチェと母に厳しくあたった。家を明け渡すように言われ、代わりに与えられたのは村のはずれーー最も山に近い場所にある掘っ立て小屋だった。それでもアリーチェと母は、「父さんが帰ってきたらすぐにわかる」と励まし合ってそこで暮らした。
それから八年。
体調を崩した母は、みるみる衰弱していき、一年後に亡くなった。その頃には村人たちも疎遠になっていて、葬儀はアリーチェだけでおこなった。叔父の家族も顔は出したものの、形式だけのものだった。
その後、アリーチェは叔父に引き取られた。
そしてその年、山からおりてきた熊に田畑は荒らされ、村人が襲われた。さらには大規模な山崩れが起き、村は大きな被害を受けた。
村の間では山に巣くう魔物の怒りだという噂が広まり、それは魔物が生け贄を求めているという噂に変わった。そしてその生け贄には、当たり前のようにアリーチェが選ばれた。
アリーチェは馬車に乗せられ、村人に連れられて山へ入った。もちろん村人は嫌がり、村長である叔父が強制的に命じたのだが。
山を半日ほど進むと、古めかしい城の前に出た。城の前には谷川があり、橋がかかっている。馬車はその橋の前で止まり、アリーチェはもちろん、村人たちも声を発することもできず立ち尽くし、その立派な城を見つめた。
「おやおや、お客様でしょうか?」
突然背後からそんな声が聞こえ、一行は文字通り飛び上がった。そこには初老の男が立っており、興味深そうな顔でアリーチェたちを眺めている。
「ローマンと申します。我が主にご用でしょうか」
男に聞かれ、村人の一人が早口で口上を述べた。要は、「この娘を好きにしていいので、村に手を出さないで下さい」である。そして男の返事を聞かぬまま、村人たちはその場から逃げ出した。
ローマンは彼らをきょとんとして見送り、それから馬車に残されたアリーチェをまじまじと見つめた。
「あなたがその、生け贄、ですか」
「はい……。アリーチェといいます」
頷くと、彼は優しく微笑んだ。
「とにかく我が主にお会いください。そろそろお目覚めになりますゆえ」
日はもう傾いてきている。今から起きるということは、魔物だけあって夜行性なのだろう。
ローマンは、村人のかわりに馬車を引いて城へ向かった。城門をくぐると、アリーチェは妙に諦めた気持ちになった。
私はここで生き血を飲まれ、身体を喰われて死ぬのだ。
ローマンはアリーチェを食堂に通してお茶をいれてくれた。
この優しげな紳士も魔物なのだろうか。それとも魔物に捕らわれ、召し遣いにされているのだろうか。
これが人生最期のお茶かもしれないと思いつつカップを傾けていると、バンッ!と音がして食堂の扉が開いた。驚いて見ると、黒髪の青年が不機嫌そうな表情で食堂に入ってくるところだった。
厨房にいたローマンが顔を覗かせる。
「アルト様、おはようございます」
青年は欠伸をしながら「ああ」と答えた。
きっと彼がこの城の主なのだろう。そう思ったアリーチェはカップを持ったまま固まった。
「腹が減った。飯は?」
そう言った青年の目がアリーチェをとらえた。思わず喉の奥で「ひっ」と悲鳴をあげてしまう。
「アリーチェ様です。麓の村の者があなたへの貢ぎ物として連れて参りました」
「貢ぎ物?俺に?」
青年の眉間にしわが寄る。
「奴ら、バカにしているのか?俺がそんなに飢えているとでも?」
そう言いながら大股で近づいてきた青年は、長い指でアリーチェの顎に触れ顔をあげさせる。
このまま血を吸われるかもしれない。
アリーチェは必死に口を開けた。
「あの……、起き抜けに人間を食べたら胃にもたれると思います。ちょっと待ちませんか」
「は?」
青年はますます眉間にしわを寄せた。
「村の者は、彼女は生け贄だと申しておりました。煮るなり焼くなり血を吸うなり好きにしてくれと。かわりに村には手を出さないで欲しいとのことでした」
ローマンが淡々と説明する。
そんなことを言って、この魔物が本気になってしまったらどうしてくれよう。
青年はしばらく不機嫌そうな顔のままでアリーチェを見ていたが、やがてバカにしたように口元を緩めた。
「なるほど、わかった。おまえの言うことも一理あるな。確かに朝から人間を食うのは胃にもたれる」
もう夜ですけどね、とローマンが呟いた。
アリーチェとしては、余計なことを言うな!と叫びたい。
「しばらくここで飼ってやろう。気が向いたら食ってやるから、それまでに少し肉でもつけておけ」
青年はアリーチェから手をはなし、ローマンに夕食を要求した。なぜかローマンは苦笑いで頷く。
成り行きで夕食は三人一緒にとることになった。ローマンの料理はおいしくて、一瞬自分の身分を忘れそうになる。
「アリーチェ様はおいしそうに食べて下さいますねぇ」
ローマンが目を細める。
「おいしいですから。ローマンさんはお料理が上手なんですね」
「ローマンで結構です。話し方も普段通りで構いませんよ」
そう言う彼は、長いこと家令を務めたので今の話し方が一番楽らしい。アリーチェ様と呼ばれるのはくすぐったかったが、そう言われて了承してしまった。
「アルト様、アリーチェ様のお部屋はどちらにしましょうか」
訊ねられた城主はパンをちぎりながらぶっきらぼうに答えた。
「部屋なんぞ腐るほどある。適当に使え」
「それでは二階のお部屋をアリーチェ様に使って頂きましょう。あとでご案内しますね」
「あ、ありがとう」
何だか客になった気分である。
夕食後、ローマンは約束どおりアリーチェを城の二階へ連れていってくれた。真っ暗な廊下におののいたアリーチェを見て、ローマンは「そうでした」と言って掌を上に向ける。何かと思えば、そこにふわりと小さな火の玉が現れた。思わずぎょっとして身体を引いたが、そういえばここは魔物の住む城だ。きっとローマンも魔物の一種なのだろう。それなら魔術でも妖術でも使えるはずだ。
彼は「行きましょう」とアリーチェを促して、廊下を進んで行った。
案内された部屋はところどころ埃がたまっていた。ローマンが部屋の燭台に掌の火を移しながらすまなそうにする。
「掃除が行き届いておらず申し訳ありません。明日致しますので、今夜だけ辛抱して頂けますか」
「大丈夫よ、これくらい。それに掃除なら明日自分でするわ」
ローマンは恐縮しつつ、ベッドのシーツだけ換えてくれた。
ベッドに入り、生け贄にしてはいい待遇に複雑な気持ちになる。しかし、明日には食べられるかもしれないのだ。
ふと、逃げ出そうかなと思った。それから、なぜ今までそれを思い付かなかったのか不思議になった。
明日、ここから逃げよう。
そう決めて、アリーチェは毛布の中で目を閉じた。