不穏な気配
それは腹を空かしていた。
食糧としてしか認識していなかった存在からの思わぬ反撃。
保存食も失いバラバラに引き裂かれたそれは回復のためにエネルギーを欲していた。
食糧の分際で自分をこんな状況に貶めたアレ。忌々しい糸屑の塊への苛立ちを燃やしながら、それは闇の中を進む。
そうしてやがて一匹の原生生物と鉢合わせ。
尾を立て威嚇する生物にそれは躊躇なく飛びかかる。
それは背を向け逃げ出した獣をあっさりと捕えて、痩せ細った毛むくじゃらの体にかぶりつく。
同時に赤い光が食いついた場所から広がり、まるで紙くずを燃やすかのように有機生物の体を消す。
ソコデナニヲシテイル?
不意に背後からかかった音に振り返る。すると二本足で立つ原生生物がこちらを見ていた。
ヒミタイナノガミエタゾ? ホウカカ!?
その原生生物はぎゃんぎゃんと喧しく音を吐き出しながら近づいてくる。
さっきの四足とは比べ物にならないサイズの二本足。その姿に赤い光が漏れ出る。
ちょうど食い足りなかったところに自ら寄ってきた追加にそれは飢餓感のままに燃えあがる。
ナ、ナンダ! ナンナンダッ!? ア、アァアアアアアアアッ!?
尻もちをついた原生生物の口に飛び込む赤。燃えるように揺らぐそれは内側から二本足の原生生物を食い荒らす。
やがて身を震わせていた有機生命体は痙攣を止める。
微動だにしなくなったその内から赤い光が明滅。そして糸の切れた操り人形のようになったその体を二本の足で支えて立ち上がらせる。
それは奪い取った原生生物の肉体の具合を身をくねらせるて確かめると、再び闇の中を進みだす。
糸屑の塊を今度こそ食い尽くすため。その力を取り戻すための食糧を求めて。
鼻をくすぐる香り。それに引っ張られるように、一矢は深い眠りの海から意識を浮上させる。
目覚める前に食事が整っているなんて何年ぶりだろうか。
まどろむ意識の中でそんな事を思いながら、一矢はベッドわきの時計に目をやる。
「はあぁッ!?」
見慣れた目覚まし時計の指していた時間に一矢は思わず声を上げる。
七時十五分。
いつもならすでに涼を起こしてる時間であった。
眠気と一緒に布団を蹴飛ばし跳ね起きる一矢。
シャツを放り出して制服に着替え、カバンと上着を掴んで部屋を飛び出す。
「あ、おはよう一矢」
「は?」
だがそんな一矢を迎えたのはがらんどうの台所ではなく。エプロン姿で髪を結い纏めた律だった。
「もう大丈夫なの? どこか痛かったりしない?」
心配そうに覗きこむ律。
対する一矢は状況が飲み込めず、ただ目を白黒させる。
「ちょ、おい。なんでお前がこんな時間から?」
「おいおい、それはないだろう? 昨日気を失ったお前を律ちゃんが面倒見てくれたんだぞ?」
「それにりっちゃんは兄ちゃんがまだ起きないかも、って今日わざわざ早起きしてきてくれたんだぜ?」
すでにダイニングに揃っていた父と弟からの突っ込み。
「あ、ああ……そうか、そうだったか」
それを受けて一矢は意識を失う直前のこと、より糸の巨人と一体化して空から落ちてきた化け物と戦ったことを思い出した。
体に甦る戦いの手応えと心臓を掴むような恐怖感。
一矢は心身を縛つけるそれを抑えて平静を装う。
「悪いな、律。助かった」
そうして恋人に礼を言いながら、一矢はテーブルに深くしまわれた自身の椅子を引き出す。
「まったくだな。本当にお前にはもったいなくらいのいい娘を見つけたもんだ」
「そんな。いいんですよ直隆さん。わたしが好きでやってるんですから」
直隆の言葉に照れ笑いを浮かべる律。それを横目に一矢は椅子に腰かけて食卓に並ぶ朝餉に目を向ける。
ベーコンエッグにトマトとレタス、アスパラのサラダ。そして食パンにコーヒーと、スタンダードな洋風の朝食が直隆と涼の前に並んでいる。
「あ、一矢はちょっと待ってて。すぐにトーストするから」
そう言いながら律が一矢の分のカップにコーヒーを注ぐ。
湯気を立てる黒で満たされたカップを受け取りながら一矢は頷く。
「頼む。せっかくお前が用意してくれたのに遅刻するわけにもいかないからな」
だがその一矢の言葉に、父と弟からあきれ顔が向けられる。
「な、なんだよ……?」
そのなんとも言えない視線と顔の集中に、一矢は唇を尖らせて返す。すると直隆は苦笑を浮かべ、寮がため息交じりにある方向を指差す。
「兄ちゃん……見てみなよ」
「あ?」
促されるままに涼の指差す先を見る一矢。
そこにあったのは一台のテレビ。
何の変哲もない家庭用の薄型。その画面に映っているのは、これもまた何の変哲もないニュース番組だ。
だが問題はその内容だ。
《……湊市を直撃した二つの隕石について、調査は進んでいますがその本体の所在は依然として不明のままです。落着現場と見られる県立津向高校付近では巨大な人型のものと、虫のようなものを見たという証言もあり……》
一矢が中核にまで巻き込まれた戦いに関する報道。
「この一件で、この近くの学校はみんな臨時休校だ」
「当然、中心にあった私たちの学校もね」
直隆の言葉を継ぐ律。
一矢は彼女の出したきつね色にトーストされた食パンを受け取る。
「……そりゃあ、そうだよな……」
一矢は半ば呆けながらも、どうにか声を絞り出す。
これは考えるまでもないほどに当然の結果だ。校舎が完全崩壊こそしなかったものの、津向高校はあの騒動の中心点だ。少なくとも授業のできるような状態のはずがない。
律の姿もエプロンの下は長袖のシャツにスカートの私服姿で、学校へ向かう格好ではない。
ようやく気がついた一矢に直隆の心配そうな目が投げかけられる。
「一矢、本当に大丈夫か?」
「あ、ああ……まだ頭が回って無いみたいだ」
一矢が頷き返事をすると、直隆は軽く眉根を寄せる。
「まあ、無理もない。あの騒ぎで律ちゃんを庇って気を失ったんだからな」
そう言って直隆はコーヒーが湯気を立てるカップを手に取る。
「父さんは仕事に行くから、お前はゆっくり休め。律ちゃん、すまないが一矢のことをよろしく頼む」
「はい。もちろん」
朗らかに応える律。それに直隆が微笑み頷く。そのやり取りに一矢は頬杖をついて苦笑を浮かべる。
朝食の終えてからしばらく。
一矢は大半の食器の片付いたダイニングキッチンで、コーヒーのお代わりを手に、台所に立つ律の背中を眺めていた。
「ん~んんん~、ふぅふ~ん……」
鼻息交じりに洗い物を進める律。洗い物は一矢がやるつもりでそう伝えたのだが、律は自分がやると頑として譲らずに一人でキッチンを占拠していた。
髪をまとめたために露わになったうなじや、時折覗く楽しげな横顔がまぶしい。
一矢はそんな恋人に見惚れていた自分に気づいて、軽く鼻を鳴らしてコーヒーを一口。
《……ほぼ同じ場所に、巨大隕石が落ちるなんて確率上は有り得ませんよ。現に隕石そのものは見つかっていないんでしょう?》
《そうは仰いますが、現場近くでは巨大なものが落下したという目撃証言があるんですよ? これはどうお考えですか?》
テレビから出る音声の内容こそ物騒ではあるが、こうしてゆっくりと過ごしていると昨日の騒動がまるで悪い夢だったかのようだ。
《錯覚でしょう。出てきた話によれば二つとも直径50メートル? ナンセンスですよ。本当にそんなサイズがあればこんなものではすみませんよ。すごい迫力だったでしょうからね。実際のサイズ以上に錯覚しただけですよ》
だがあれは、あの戦いは決して夢などではない。
重いモノを打ち砕く手応えも、焼かれるような痛みも鮮明に思い出せる。
一矢は間違いなく、あのより糸の巨人と共にあの巨大な敵と戦ったのだ。
「……どこに行っちまったんだろうな、あいつ……」
マグカップを置き、右手を眺め呟く一矢。
その瞬間。一矢の右手のひらの上に糸の塊が現れる。
「なに?」
右手に乗った糸はより固まり、小さな人型を成していく。
昨日の光景を手のひらサイズにまでミニチュア化したその現象は、やがて鳥のような足を持つ小人を作る。
「お前……なんでこんなトコに?」
かすれ声でたずねる一矢。それにおよそ200分の1程度にまで縮んだ小人は、虫に似た頭を傾げてまばたきする。
「どうしたの? かず……それって!?」
そこで振り返った律も縮小したより糸の人型を認めて声を上げる。
より糸はそれに驚いたのか飛び跳ねて一矢の腕の陰に隠れる。
青い目をまたたかせて、腕に隠れながら律の様子を覗くより糸。
それを律は眉を吊り上げてにらむ。
「消えたフリして一矢にくっついてきたってコト!? まだ一矢を昨日みたいなのに巻き込む気なの!?」
敵意をあらわに問い詰める律。対するより糸は小さなその身をさらに縮ませる。
「りっちゃんも兄ちゃんも、二人してなにさわいでんの?」
そこで不意にドアが開き、涼が顔を見せる。
「悪い、涼」
「あ……ごめんね? うるさくして」
そう言って一矢と律は揃って小さなより糸の人型を涼の目から隠そうとする。
「あれ? なにそれ? プラモ?」
だがそんな二人の考えと行動をよそに涼は目ざとく一矢の手元にあるものを見つける。
「あ、いや、これは……」
涼の言うように、20センチ強の今のサイズではプラモデルのようにも見えるだろう。
だがこれの本来の姿は40メートルを超える巨大生物なのだ。
「なんだよ兄ちゃん。おれにも見せてくれたっていいじゃん」
唇を尖らせて手を伸ばす涼。するとより糸の小人は跳び上がってその手をかわし、一矢の肩に乗る。
「え……? 今、ひとりでに……?」
その動きに涼は目を見開く。ぱくぱくと口を開け閉めする涼の目の前で小人は糸に分解。目に見えないほどの細かなものになって空に溶ける。
「き、消えた!?」
涼は立て続けの奇妙な現象に声をあげて、分解消滅した小人を探す。
その一方で、不意に一矢の脳裏にビジョンがよぎる。
「うっ……!?」
「一矢?」
「どうしたんだよ!?」
ざらつく重い映像。それに頭を押さえた一矢を二人が心配そうにのぞき込む。
「ぐ、うぐ……!」
次々と押し込むように流れ込んでくる映像と知識。脳が歪むような膨大なそれを一矢は苦しみながらも受け止める。
やがて波が流れ切るかのように脳をさいなむ重みが薄れて、一矢は顔を上げる。
「大丈夫? 頭が痛むの?」
「兄ちゃん……」
「ああ、いや……大丈夫だ」
一矢は覗き込んでくる二人にそう返して、軽くかぶりを振る。
怒濤の勢いで襲いかかった情報のほとんどは一矢の頭の中で雑然と転がってまだ整理が追い付いていない状態だ。
今の段階でかろうじて理解できたのは、あのより糸の生命体がひとりぼっちで、自分に迷子のようにすがってきているということだけだった。
「……放り出しては、おけないよな」
胸中に浮かんだ言葉をそのままに呟く一矢。
「なあ兄ちゃん……さっきの、何なんだよ? いきなり消えたりして、それから兄ちゃんも苦しそうになって……」
そこへ涼がおずおずと遠慮がちに問いかける。
「涼くん、あれは……」
たずねる涼に口を開く律。だが一矢がそれを手で制して遮る。
「お前が見たアレが、今ニュースになってる隕石の片割れ、その本体だ」
「は?」
呆然と半開きにした口で聞き返す涼。それに構わず一矢は話を続ける。
「と言っても、今のはその一部だ。今ササメのヤツから聞いた話だと、ほとんどはナノサイズ以下……とにかく見えないくらいの細さになって町中に散らばってるんだと」
「え、えぇ……?」
兄の説明にわけがわからないよと言わんばかりに涼は首をひねる。
そんな涼を避けて律が身を乗り出す。
「ねぇ、ささめ……って、アレの名前?」
「ああ、今つけた。いつまでもアレとかアイツとかじゃわけわかんないだろ?」
律の問いかけに、そう言って首をかしげる一矢。
すると律はかぶりを振ってさらに一矢へ詰め寄る。
「そんな、あれのせいで危ない目にあったの忘れたの?」
鼻先がぶつかりそうなくらいに近づく恋人の顔。一矢はその彼女の肩を片手で押えて止める。
「昨日の今日で忘れるわけがないだろ。孵りたてのヒヨコみたいに妙に懐かれたんだから、おれが面倒見るしかないだろ」
一矢がさも当然といった調子でそう返す。
「動物を拾ったのとはわけが違うんだよ!? また戦わさせられるかもしれないのにそんな軽く!?」
だが律は納得せずに抑える一矢の手にさらに体を押し込む。
しかし一矢はそんな律の目を真正面から見返して、口を開く。
「そんな軽い考えで面倒見るって決めたわけじゃない。それに、巻き込まれるうんぬんの話ならとっくに手遅れだ」
「でも……だからって……」
反論の言葉を探して目を泳がせる律。そこへ一矢は軽く息を吐いて言葉を重ねる。
「知ったササメを見捨てられない。もう巻き込まれてるなら、せめてお前と家族を守れる力を持っておきたい。これは、両方抱えこんだおれのわがままだ」
一矢の言葉に律は口を閉ざして押し黙る。だが沈黙したものの、その眉根を寄せた伏し目がちな顔は納得してはいないと無言で語っている。