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深淵監査局  作者: XΛKURΘ
1/1

第一部:発見

世界は、長いあいだ“偶然”という言葉で保たれてきた。


説明のつかない出来事は、誤差と呼ばれ、錯覚と呼ばれ、統計の外れ値として処理される。

人は理解できないものを、理解できる形に削ることで生き延びてきた。


それは合理的で、正しい選択だったのだろう。


だが、もし。


もし人類が、幾度も繰り返される“まぐれ”に気づき、

それを偶然ではなく「傾向」として認識してしまったとしたら。


もし、その認識が世界に形を与えるのだとしたら。


深淵は、最初から存在していたのか。

それとも、我々が名を与えた瞬間に固定されたのか。


観測不能領域。

そう呼ばれた場所に足を踏み入れた者は、皆同じ言葉を残している。


深く、底知れない空間だった。


だが、それが空間であると断定したのは、誰だろうか。


区切りを与え、階層を想定し、理解可能な構造へと押し込めたのは、

深淵そのものか、それとも観測者か。


本書は、ある一人の学生が遭遇した出来事から始まる。


彼は特別ではない。

予言も、使命も、神託もない。

ただ一度、世界の輪郭が歪む瞬間を見ただけだ。


その瞬間から、彼の視界はわずかに変わった。


他人には分からないほどに。

しかし本人には、決定的に。


これは英雄譚ではない。

力を得る物語でもない。

深淵に抗う戦いの記録ですらない。


これは――


観測が、世界をどこまで変えてしまうのかという問いの、

最初の証言である。


そしてその証言は、

まだ名前を持たない時代の深淵について語る。


区切られる前の、

まだ階層を持たなかった“深さ”について。


ここから先を読むかどうかは、自由だ。


ただ一つだけ、忠告がある。


見れば、深くなる。


それでも読むのなら――

どうか、区切らないでほしい。

世界が“偶然”で満ちていると信じられていた時代は、思い返せば、幸福だったのだろう。


当時の僕は、世界が変質しうることを知りながら、それでも尚、日常の輪郭に身を預けていた。

教室の蛍光灯は一定の周波数で明滅し、窓際の席には午後の光が差し込み、誰かがシャーペンの芯を折って舌打ちをする。

そういう無意味なことの積み重ねが、世界の安定を証明しているように見えた。


僕は冷静だと言われることが多かった。

感情は必要なときに必要な分だけ使えばいい。判断を鈍らせる雑音は削るべきだ。

世界は観測と検証で成り立っている。そう信じていた。


――その日までは。


きっかけは、極めて些細な“ズレ”だった。


放課後、理科準備室の鍵を返しに行く途中、僕は廊下の掲示板の前で立ち止まった。

掲示物の端が、わずかに反っている。

ただそれだけのことが、妙に気になった。


掲示板の隅に、見覚えのない紙が貼られている。


A4を四つ折りにした紙片。鉛筆書き。

濃淡が揺れている。


見ないほうがいい

見たら“深くなる”

でも、たぶん君は見る


周囲を見回す。誰もいない。


紙は新しい。

貼られたばかりだ。


それなのに、誰が貼ったのか、気配がない。


“深くなる”。


その単語だけが、紙の上で異様に重かった。


悪戯だ、と結論づけるには材料が足りない。

だが真面目に受け取るには、根拠がない。


僕は紙を剥がそうとした。


指先が触れた瞬間、紙は乾いているのに、触れた部分だけ温度が落ちた。

汗でも結露でもない。

ただ、欠けた。


裏に、さらに薄い文字があった。


校舎裏のフェンス沿い

音が消える場所がある


僕は合理的に考えた。


確認すればいい。

何もなければ、それで終わる。


そう判断して、歩き出した。


校舎裏のフェンス沿いには、誰もいなかった。


運動部の声が遠い。

風は吹いているはずなのに、葉が動かない。


音が、薄い。


フェンスの向こうは雑木林。

排水溝の手前に、妙に濃い影があった。


影というより、そこだけ“黒が増えている”。


その瞬間、音が消えた。


運動部の声も、車も、風も。

僕の呼吸音だけが、内側で反響する。


世界が、薄膜に包まれた。


退くべきだ。


そう思った。

だが目は黒を追う。


“深くなる”。


黒は穴だった。

縦に裂けた、空間の破れ。


幅は拳ほど。

長さは胴ほど。


向こう側に、別の暗さがある。


僕は距離を保ち、スマホを取り出した。


――撮影。


画面には、普通の校舎裏が映る。


裂け目は映らない。


肉眼では確かに見えるのに、画面では通常の影に置換される。


理解しようとする脳が、拒絶される。


吐き気がした。


“観測できない”。


その言葉が、喉で止まる。


裂け目から、冷気が来た。


温度の移動ではない。

熱の“欠落”。


視界の隅で黒が増える。


裂け目の向こうで、落下の音がした。


音は消えているはずなのに。


裂け目の縁が、わずかに広がる。


まるで、僕を認識したように。


離れるつもりだった。


しかし、足が前に出た。


自分の意思か、落ちたのか、分からない。


触れるな。


理性が命じる。


触れなければ、分からない。


好奇心が囁く。


指先が、縁に触れた。


世界が消えた。


音も光も匂いも消え、“深い”という感覚だけが残る。


落ちていないのに、落ちている。


上も下もないのに、下がある。


底がないのに、深い。


矛盾が成立している。


空間ではない。


空間として理解しなければ、壊れる。


僕は歩いた。


硬さの定義が揺れる。


視界の中に、黒がある。


黒は色ではなく、情報の欠落。


柱。壁。天井。


脳が勝手に形を当てはめる。


遠くで、単語が浮かぶ。


“深い”。


反復するほど、深くなる。


思考を止める。


ここは何だ。


どうやって戻る。


僕は気づいた。


深淵を観測しているのではない。


深淵に観測されている。


光があった。


情報の集中。


その中に、学校の机があった。


落書きのある机。


深い場所にある。


紙が置かれている。


区切るな

区切れば階層になる

でも区切らないと生きられない


理解した。


人は区切る。


区切って理解する。


理解しなければ壊れる。


その合理性が、ここを固定する。


階層が、生まれかける。


思考を止めろ。


だが思考そのものが形を作る。


目を閉じる。


意味がない。


そして、見た。


底がないのに、底が見えた。


見えたことで、底が生まれた。


そこに、何かがいた。


意思ではない。


ただ、先に観測された痕跡。


僕より先に、ここを深いと定義した存在。


最初の観測者。


その瞬間、右目が変わった。


焦点がズレる。


世界の“見方”が変わる。


僕は入口を思い浮かべた。


校舎裏。


フェンス。


裂け目。


強く、鮮明に。


空間が揺れた。


引き戻された。


音が戻る。


校舎裏。


裂け目はない。


時計を見る。


ほとんど時間は経っていない。


だが僕の中では、深さが残っている。


スマホに記録はない。


だが記憶はある。


右目の奥に、何かが残っている。


焦点が、世界の隅に合う。


壁の影。


廊下の端。


言葉の欠落。


そこに、黒がある気がする。


僕は理解した。


戻ってきたのではない。


持ち帰ってしまった。


翌日も世界は平穏だった。


だが平穏は、偶然の上に乗っている。


もし多くの人が、同じ“ズレ”に気づき、それを偶然ではないと認めたなら。


世界は、その認識に合わせて形を変える。


深淵は固定される。


階層として。


僕は決めた。


これを、管理しなければならない。


管理しなければ、増える。


増えれば、誰かが落ちる。


そして、その誰かは戻らない。


深淵は、まだ名を持たない。


階層も、まだ確定していない。


それでも確かに、そこにある。


深く、底知れない空間だったと、誰かがいつか言うための場所が。

あの日のことを、私は正確に説明することができない。


時間は一分しか経っていなかった。

記録は残らなかった。

物理的な証拠も存在しない。


それでも、私は確かに“深い”場所に立っていた。


あれを空間と呼ぶのは、今でも正しいとは思っていない。

空間と呼ばなければ、理解が崩れるから、そう呼んだだけだ。


人は、理解できないものを、そのままでは保持できない。

枠を作り、境界を引き、段差をつけ、構造に落とし込む。


あのとき、私はただ生き延びるために、それをやった。


区切らなければ、壊れていた。


だが、区切った瞬間から、

“深さ”は固定される。


あの場所が本当に階層を持っていたのかは分からない。

もしかすると、私はただ、自分の思考の癖を投影しただけなのかもしれない。


合理性は、時に刃になる。

世界を守るための道具が、世界を形作ってしまう。


私の目は、あの日から変わった。


他人には分からない。

鏡に映しても分からない。

だが焦点の合い方が、以前とは違う。


世界の隅にある“濃さ”を、拾ってしまう。


見ないほうがいい。

そう分かっている。


だが、見てしまった。


そして一度見たものは、なかったことにはできない。


あの出来事は、偶然だったのか。

それとも、私が見ることを前提に存在していたのか。


答えはまだ出ていない。


ただ一つ確かなのは、

あの日を境に、私は“観測する側”になったということだ。


深淵は、まだ名を持たない。


階層も、体系も、管理も、存在しない。


だが、確かにそこにある。


深く、底知れないまま。


そして私は知っている。


区切れば、階層になる。


それでも人は、区切らずには生きられない。


だから物語は、ここで終わらない。


これは始まりに過ぎない。

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