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「笑」

私の心の支えとなっている一言がある。

三年前に他界した母が、折に触れて言っていた言葉だ。

 「人間、笑って生きなきゃ損よ」。

いつも飄々としていて、どんな苦境でも弱音を見せず、樹木希林さんを思わせるユーモアと達観した雰囲気を持つ人だった。

母は昭和から令和まで、厳しい生活を淡々と乗り越えてきた。家計が苦しくても愚痴をこぼさず、私たち子どもの前ではいつも笑っていた。

仕事から帰れば、疲れた顔を一瞬で消して台所に立つ。そんな姿に、私は何度救われただろう。

「泣きたいときこそ笑っときゃいいのよ」

母が笑いながら言うその言葉は、明るく軽やかでありながら、どこか重く響くものだった。

三年前の冬、私は脳梗塞で倒れ、右手が思うように動かなくなった。

うつ病の波も重なり、心は深い闇の中に沈んでいった。

病室の天井を眺めながら、私は「もう笑えない」と思っていた。

そんなとき、母の声が電話越しに聞こえた。

「大丈夫よ。あんたはしぶといからね」

弱っているはずなのに、母はいつもと同じ調子だった。

その強さの裏にある本当の体調を、私は見ようともしなかった。


三月二日、母の誕生日が近づいた。

私は入院中の身体で、母に何か届けたい一心で便箋を取り寄せた。

右手は震え、ペンは何度も落ちそうになった。

そこで、ハンカチで手に縛りつけて字を書くことにした。

母に伝えたかったことはただ一つだ。

「ありがとう」。

それだけなのに、思うように書けないもどかしさに涙が滲んだ。

短い手紙になったが、それでも精一杯の気持ちだった。


拝啓 母上様

まだまだ寒い日が続いていますが、お体はいかがですか。

右手がうまく動かず不安な日々ですが、母上の“笑って生きなきゃ損よ”の言葉に救われています。

今まで苦労ばかりかけてごめんね。

必ず元気になって会いに行きます。

お誕生日おめでとう。       敬具


数日後、家族から連絡があった。

「お母さん、あんたの手紙読んで泣いていたよ」

母が涙をこぼしたと聞き、私は胸が熱くなった。

あの人が泣くなんて、本当に珍しいことだった。

しかし、その涙は別れの兆しでもあった。

一か月後、病室に届いた一本の電話が告げた。

「お母さん、今日逝ったよ」

 

言葉の意味が理解できず、世界が静止したようだった。

最期に会えなかった悔しさ、感謝を面と向かって伝えられなかった後悔が胸をえぐった。

退院した私は、すぐに母の墓へ向かった。

晴天の空の下、墓前に立つと堪えていた涙があふれた。

「母さん……ありがとう」

「会いに行けなくて、ごめん」

風が頬を撫で、線香の煙が柔らかく揺れた。

その瞬間、母がそばに寄り添っているような気がした。

─泣いてたら損だよ。あんたは生きなきゃ。

母の声が確かに聞こえた。

あれから三年。

私はまだ弱いままだし、笑えない日もある。

それでも、母のあの言葉が、折れかけた心をそっと支えてくれる。

人間、笑って生きなきゃ損よ。苦しみに沈む日こそ、笑おうとする心が人生を照らす。

母の笑顔とともに、その言葉は今も私の胸の灯火になっている。


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