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八、 出会い

  


 卸商には、今まで何回も行ったことがあった。その時は独りじゃなかったけど……。

言葉が分からなくても、物を見せればきっと通じるはずだ。

(大丈夫。たいしたことじゃない)

 なんとかなる。大丈夫。そう自分を励ましながら、つづら折りの長い石段を下った。

 途中、すれ違う人々にぎこちないながら挨拶を返す。そうこうするうち、なんとか街の入り口まで到着した。なのに……、

 おれはとうとう、そこから一歩も動けなくなってしまった。


 街の中からは陽気な音楽が聞こえてくる。子どもの楽しそうな笑い声があたりに響き渡り、大通りをたくさんの人々がせわしなく行き交っている。

(……進まなきゃ……)

 そう思う心とは裏腹に、足は地面に張り付いたように動かなかった。

 向かう先が、和やかで楽しそうな雰囲気であればあるほど、近づけない。自分が近づいた途端、その温かな空気を壊してしまいそうで、──怖い。

「なんで……おれは……」

 こんなこともできないんだ。

 恥ずかしい。情けない。おれ以外の人なら、苦労せずにできるのに。どうして……。


 その場にいることさえ耐えられなくなって、脇道に逸れた。古びた建物と建物の間の、細い石段に逃げこむ。息がくるしい。人の気配がするたび、情けないくらいビクついた。薬草の入った籠を両腕で抱えたまま、長い時間そこにじっとしていた。

 やがて日が沈み、あたりが薄暗くなってきた。卸売はもう閉まってしまっただろう……。結局、できなかった。何も成せなかった一日が、終わろうとしていた。


(シノがいなきゃ、おれは何もできない……とんだ役立たずだ……)


 薬草を独りで売りにいけない理由は、人が怖いから、だけではない。アウレンや他の島々では、島言葉が使われている。けれど、交易都市エランテの公用語は、船乗りたちが使う大陸の言葉だ。しかも、彼らは数種類の言語を相手によって使い分けているらしい。

 驚いたことに、シノはこの島に来て間も無く、その言語を難なく習得した。おかげで今まで、物の売買や交渉は、全てシノが担ってくれていたのだ。


(おれだって……一人でできると思った)

 言葉が通じなくても、いつも薬草を卸している店だ。現物を見せれば、なんとかなるはず、と。

 なのに……。おれはその場所に近づくことすらできなかった。


 今まで不自由なく生活できていたのは、シノが助けてくれたから。なのに、おれは……意地を張って、彼の手を跳ね除けた。

(おれは今までシノにしてもらうばかりで、何も返してこなかった)

 これではとても対等な付き合いとは言えないのではないか。


(こんなことなら………いっそ……)

 しおれた心に、冷たい考えが忍び寄る。

 シノが欲しがっていて、おれが持っているもの。そんなの、一つしかない。

(シノの望み通り、……この体を差し出せばいいんじゃないのか?)

 そうすればシノを引き留められる。現状は、シノの厚意に甘えて生活できているようなもの。シノが『もういい』と思えば、そこで終わってしまう。不安定な関係。

 だったら、好きにさせてやる代わりに、今まで通り協力してもらうほうが話は単純なのではないか……?


(どうせ、一度したことだ。二度も三度も変わらないだろ)

 半ば捨て鉢の気持ちで自分にそう問いかける。

 ……けれど、やっぱり自分の気持ちはごまかせなかった。

(嫌だ。そんなこと、したくない)

 仮にお金が稼げなくなって、他に方法がなかったとしても。赤の他人ならまだしも、シノとだけはイヤだった。

 だって、シノは……たった一人の友人だ。そんなことをしたら、今度こそ完全に関係を壊してしまう。それが何よりも──怖かった。


 でも……もしも、シノがおれから離れていくつもりなら……そのときは……


(なに考えてんだ!)

 おれは思わず、両手で頬を強く叩いた。ぱちんっと大きな音がする。

(シノには、幸せになって欲しい)

 そう遠くない未来、可愛くて働き者のお嫁さんをもらって、元気な子供を授かって……。たくさんの家族に囲まれて賑やかな毎日を過ごす。そんな生活の方が、彼にとって『幸せ』に違いない。

 シノはモテるから、相手なんて選びたい放題だ。きっと、お嫁さんになる人は島で一番の美人だろう。


(……あんないい奴に、いつまでもおれの面倒なんかみさせてたら、かわいそうだ)

 腐れ縁で、彼を縛ったりしちゃいけない。

(シノのためにも、おれは早く自立しなきゃ)

独りで何でもできるようになって、シノを自由にする。離れて生活するようになれば、きっと、シノの気持ちも変化するはずだ。

(今はおれに……興味があったとしても。ちゃんとした恋人ができれば、きっとすぐに正気にもどるさ……)

そうだ。間違いない。

 頭ではそう思うのに、なぜか胸の奥が締め付けられるような痛みを訴える。

(おれは一体、どうしたいんだ……⁈)

 考えれば考えるほど、わからなくなってしまった。

抱えた籠に頬を寄せ、ぼんやりと思いを巡らせていた。


 結局、どれだけ偉そうなことを言っても、おれはシノに依存している。

あの夜だってそうだ。


(おれはシノの言葉一つで、この島にくることを決めたんだっけ……)


 


 あれは成人の儀の、数日後のこと。夜半過ぎに、シノが突然、おれの家を訪れた。

 寝入っていたおれは物音に飛び起きた。真っ暗な中、誰かが扉を開けて入ってきたのがわかった。息を殺して凍りついていたおれに、人影は「ごめん、ハルキ、俺だ……ごめん、」と言った。

「シノ、なの? どうしたの、こんな夜中に…」

 おれの近くまで来ると、シノは崩れ落ちるように、その場にうずくまった。

「ど…、どうしたの? 何かあった?」

 驚いて、丸まった彼の背中をさすった。シノの体はしっとりと汗が滲み、小さく震えていた。

「シノ……?」

「大丈夫…大丈夫。ごめん……なんでもない。少しだけ、このままでいさせて……」


 結局、シノは何があったのか話さなかった。ただ、思い詰めたような口調で、おれに言った。

「ハルキ……、一生のお願いだ。おれと一緒に、エランテに行こう」

「エランテ……?」

 名前は聞いたことがあった。島々の中心地で、一番栄えている大きな島だ。そして一番賑やかで、多くの人が住む島。

「急にどうして?……おれ、この村からも出たことがないのに……そんな遠いとこに行くのは、怖いよ」

 おれがそういうと、シノは少しの間黙った。そして、

「……エランテに住んでる叔父さんに聞いたんだ。あの島には人がたくさん住んでるから、他人との付き合いが、ここよりも希薄なんだって。それに、大陸から新しい考えがどんどん流れ込んでくるから、この村みたいに古い考えにいつまでも囚われてないんだ……って」

 ハルキの肩を両手で掴んで、すがるような口調で言った。

「ハルキは、こんな田舎より、賑やかな都市の方が生きやすいと思うんだ……!」

 壁の隙間から差し込む月明かりに照らされた、シノの顔。その眼差しは真剣だった。

 この村でおれに親切にしてくれるのはシノだけだ。そんなシノの頼みなら、おれはなんでもきいてあげたかった。でも……。

「……ごめん…やっぱり、……」

 おれの答えに、シノの瞳が悲しげに揺れた。

「そっか……」

 再び、沈黙が落ちた。おれは不安が抑えられず、俯いているシノに尋ねた。

「ねぇ、シノはいつエランテに行くの? すぐに帰ってくる……?」

「……帰ってこない」

「えっ?」

「俺は、もうこの村では暮らせない」

 がつんと頭を殴られたような衝撃が走った。……シノが、いなくなる……?

「待って…まってよ……。そんな…なんで……?」

「ハルキ……」

「やだよ…シノがいなくなるなんて、おれ、やだ……」

 気がつけば、ボロボロと涙がこぼれ落ちていた。

「行かないで」

 子供のように泣き出したおれを、シノの腕が引き寄せ、ぎゅうっと抱きしめてくれた。

「ハルキ、泣かないで……」

 困ったような声が耳元で響いた。返事の代わりにしゃくりあげてしまう。次々と溢れ出す涙が、シノの胸元を濡らした。

「俺も…、ハルキと離れたくない……」

 シノは苦しそうに呟いた。

「ハルキが人の多い場所が嫌いなことは、よく知ってる。だけど…それでも、俺と一緒に来てくれないか? 絶対、ハルキに辛い思いはさせない。頑張って、俺が守るから……」

 苦しくなるくらい、力一杯抱きしめられた。おれはグスグスと鼻を鳴らしながら、何度も何度も、頷いた。

 出立は数日後のことだった。故郷をたつ朝。おれは村長に、今までお世話になったお礼を言って、早々に船に乗り込んだ。持ち出す荷物もなく、別れを告げる相手もいなかったから。

 船は、今まで目にした中で、一番大きかった。いつも村人が漁で使っている船とは比べものにならないくらい。細長い二隻の船体を海に並べ、その上に厚い板を渡して繋いである。真ん中には三、四人が並んで腰を下ろせるくらいの広さがあった。前方には潮風をはらんで膨らむ、大きな布の帆。

(これに乗って行くんだ)

 そう思うと、改めて胸がドキドキするのをおさえられなかった。

 シノは出航の直前まで、家族に囲まれていた。別れを惜しんでいるのか、今だ引き留められているのか……。ただ、シノの態度が妙に素っ気ないのが気になった。素っ気ない……というよりも、露骨に母親を避けているのが、傍目にも明らかだった。

 やがてシノも船に乗り込んでくる。いよいよ、出発を待つのみになった。

 船員が忙しそうに駆け回る姿をぼんやりとみていたおれは、ふと、誰かに見られているような気がした。視線の方向を見ると、シノの母親と目があった。凍り付いたように動きを止めたおれに気付いたシノが首を傾げ、声をかけてきた。

「ハルキ?」

 おれは視線を外して、そっとシノの陰に隠れた。

「どうしたの?」

 シノに尋ねられ、『なんでもない』と答えた。

 今まで、嫌悪や軽蔑の眼差しは、数知れず投げられてきた。でも、あんな……射殺されそうなほど、憎しみに満ちた目を向けられたことはなかった。

 その時のおれは、まだ知らなかった。その後、何年にもわたって、あの恐ろしい表情を、夢に見ることになるなんて。



「そうだよ…あの時、もうおれを不安にさせないって、いってたじゃないか」

 シノの嘘つき……。

やるせない呟きは、袖の中に吸い込まれていった。




   ***




 いよいよあたりは暗くなり、街全体に夜の帳が下らされた。

(もう帰らなきゃ……)

 そう思うけれど、体の力が抜けたように立ち上がれない。思った以上に、今回の失敗に打ちのめされているようだった。

「シノ……」

 つぶやいたとたん、じわっと目頭が熱くなって視界が滲んだ。目いっぱいに溜まった涙が一雫、溢れた。一度関をきってしまうと止めようがなく、次々と頬をつたい落ちていく。子供のようにしゃくりあげながら、しばらくその場でうずくまっていた。


「ねぇあなた。具合が悪いの?」


 優しい声に顔をあげる。白髪をひとつに束ねたおばあさんが、すぐそばに立っていた。慌てて涙を拭く。

「いえ、大丈夫……です」

「泣いてるじゃない。怪我をしたの?」

 買い物帰りなのだろうか。手に下げたカゴからは山盛りの野菜が顔をのぞかせている。シノ以外の人と話すのは久しぶりだった。暗闇で姿が見え辛いことが幸いして、すんなりと言葉が出てきた。

「いえ、本当に…大丈夫ですから。どうもありがとう」

 そう言って、立ち去ろうとした。しかし、彼女はあわてたようにおれの服の裾を掴んだ。

「待って。大丈夫じゃないことくらい、見えてなくてもわかるわ」

 その言葉に振り返る。心配そうに、こちらを向くその目は空を見つめていた。

(あ……この人……)

 目が見えてないんだ。戸惑いを感じ取ったのか、おばあさんは明るく笑った。

「私の家、すぐそこなの。ちょっとお茶でも飲んで行きなさい」

「いえ、そんな……」

「遠慮しなくていいの。それに、雨の匂いがするから、じきに降り出すわよ」

 そう言われて空を見上げるが、真っ暗でよくわからなかった。

「今日はね、とってもいいお茶が手に入ったの。一人で飲むなんて、もったいないでしょ。ここで会った縁と思って、少しだけうちに寄ってって。ね?」

 穏やかに、重ねて誘われる。知らない人から、こんな風に優しい声で話しかけてもらうのは、初めてだった。嬉しい反面、おれは申し訳なさで胸がいっぱいになった。

「ごめんなさい、おばあさん。おれ……」

 告げた後の反応を見るのは、怖い。けれど……親切にしてくれた人を、騙すようなまねもしたくなかった。

「おれ、実は……レピシアなんです。だから……」

 関わらないほうが……と。そう告げた声は情けないくらい震えていた。

 おばあさんはちょっと目を大きく開いた。そして……、

「あらあら、珍しい。じゃあ、特別なおもてなしをしないといけないわね」

 と言った。

「え……? い……いえ、そうじゃなくて……」

 あまりに予想とかけ離れた反応に、おれは言葉を失った。

「……気持ち悪く、ないんですか……?」

 鳴り響く鼓動に不安をかき乱されながらそう言うと、おばあさんはちょっと首を傾げた。

「……あなた、他の島のご出身?」

「はい」

 おばあさんは少し長く息を吐いた。

「そう……。きっと今まで、いろんな体験をしてきたんでしょうね」

 そう言って、手探りでおれの手をとった。

「さあ、急いで。もうすぐ降り出すわ。続きはうちで話しましょう」

「……でも…っ」

「大丈夫。きっとただの通り雨よ。それに、うちには今、私しかいないから遠慮もいらないわ。いつもは一緒に暮らしている子がいるんだけど、今日は出かけてて……」

 楽しそうに、絶え間なく話をするおばあさんに手を引かれ、おれは唖然としたまま薄暗い道を歩いた。


 いくつか角を曲がった先にある、小さな一部屋がおばあさんの家だった。ドアをくぐっていくらも経たないうち、石畳を叩く雨音が聞こえてきた。

 勧められた椅子に身を縮めて座る。家の中の品はどれも古めいていて質素だったが、丁寧に手入れがされている様子だった。部屋には、不思議と落ち着く匂いがした。

 湯気の立つカップが卓に置かれる。

「お隣さんが、お客さんだって言ったらお湯を分けてくれたの」

 そう言って、おばあさんがテーブルの向かいに腰掛けた。

「さあ、召し上がれ。今日はとっておきのお茶が手に入ったの」

「ありがとうございます」

 勧められ、口をつけると、甘い。蜜草の蕾を使ったお茶だった。

「私はこのお茶が大好きなんだけどね。原料を集めるのがとても難しいの。だから、専門の人が売りに来てくれたときしか飲めないのよ」

 にこにこと笑って続ける。

「あなた、今日は本当に運が良いわ」

「そう……なんですね」

 嬉しそうに語るおばあさんを見ているうち、ふと気付く。自分が久々に笑顔を浮かべていたことに。

自分の仕事が、知らない誰かを喜ばせていた。些細なことかもしれない。しかし、しおれていた心に温かい光が当たったような気がした。


「さあさあ、あなたがあんなところで泣いていた理由を、私に聞かせてちょうだい」

「……でも……」

「ちなみに、そのお茶にはね、口の滑りがよくなる効能があるのよ」

 蜜草にそんな効能があるなんて、聞いたことがなかった。

「苦しい時は、一度、声に出してみるといいわよ。一人で抱え込まずに、誰かとおいしいお茶でも飲みながらね」

 にこやかに一口、お茶を飲んだおばあさんは、

「あらやだ、どうしましょう。また私のおしゃべりがとまらなくなっちゃうわ」

 と、言った。思わず吹き出してしまう。胸の奥の固いものが、少しほどけた気がした。


 この人は、何か怪しい術の心得でもあるんだろうか。それとも彼女のいう通り、蜜草の知られざる効能がそうさせるのか。

 いつしかおれは、ずっと胸に抱えていたことを、打ち明けたくてたまらなくなっていた。

「友達と……喧嘩したんです」

 ぽつり。一言こぼれ落ちれば、あとは止めどなかった。 

「あいつは、すごくいい奴で。おれもあいつをすごく大事に思ってたんです。だから……あいつにされたこと、全部なかったことにして、昔のままの関係に戻ろうとしたんです。でも、どうしても……上手くいかなくて」

 洗いざらい事情を話すわけにもいかず、ふわっとした表現になってしまった。

「……どうしたらいいのか、わからないんです」

「あらあら」

「あいつ、何も言わないんです。でも……多分、おれに好意があるんだと……思うんですけど……」

 おばあさんが頷いている。その優しい笑顔に励まされて、続けた。

「でも別に、それはいいんです。……どうせ、おれには応えてやることはできないし……」

「あら、どうして?」

「……あいつは、おれにとってすごく大事な奴です。だからこそ……おれがあいつの気持ちを受け入れたら、だめなんです」

「だめ?」

「はい。あいつには幸せになって欲しいから……」

 普通に結婚して、普通に家庭をもって……。

「おれには、あいつの家族を作ってやることは……できないから」

 そう言うと、おばあさんはちょっと首を傾げて微笑んだ。

「……しあわせって、何なのかしらね


 一口、お茶を飲むとおばあさんは口を開いた。

「私の話も聞いてくれる?」

 おばあさんは、昔のことを語った。若い頃、周囲に勧められるままに結婚したこと。そして……子どもができず、離縁されたことを。

「どちらが原因かなんて、調べようともしなかった。彼は私のせいだって決めつけてたから」

 男女の夫婦でも、子供が出来るとは限らない。その事実を突きつけられ、おれは言葉がでなかった。考えてみれば、当然のことだったのに。

「生まれた家に帰って……私、ホッとしたの。ああ、もう一緒に居なくていいんだって、安心した。変よねぇ。親が勧めたとは言っても、結婚したいって望んだのは私自身だったのに」

 雨音が石畳を叩く音がする。おばあさんは淡々と続けた。

「別れを切り出されて、すごく悲しかったし怒りもあった。でも、一人になった途端、心のどこかで、子供ができなかったことに安堵している自分がいたの」

 薄情者って言われそうだから、あんまり人にはいえないけどね、とおばあさんは照れたように笑った。

「あの人はね、いい人だったわ。でも、あの頃の私は『普通の幸せ』に合わせようと、無理をしていたの。でも、結婚が悪いんじゃないのよ。私たちが『合わなかった』だけ」

 私はおしゃべりで、彼はとても無口。私は下戸で、彼はお酒が大好き。ほんの些細な…けれど、譲れない大きな違いが、徐々に二人を遠ざけていた……と話してくれた。


「若い頃は、結婚して家庭を持てば、いつか必ず幸せになれるって信じてた。でも、それが大きな間違い。だって、誰かの言う幸せが、私の幸せとは限らないじゃない」

 ふと、柔和な彼女の目が天井を向くと、何かを思い出すように細められた。

「時々、思うの。もし、あのまま結婚生活が続いてたらどうなってたかしらーって。……ねぇ、どうだったと思う?」

「どう……なっていたんですか?」

「若い娘さんたちに、結婚しなさいって熱心に勧めていたと思うわ。多分だけどね」

 長年一緒に暮らせば、夫ともいずれは仲睦まじく暮らしていたはず……という話かと思ったが、違った。

「結婚生活が本当に幸せでも、そうじゃなくても、結婚は『幸せなもの』じゃなきゃならないのよ。自分の選択を後悔しないためにもね。人生は一度しかないのに、幸せじゃなかったなんて、誰も思いたくはないでしょ? 『苦労もあったけど、夫婦っていいものよ、結婚こそが幸せなのよ』って言って、お節介をやくおばあさんになってたわ、きっと」

 まぁ勿論、そう言って勧めてくる人の中にも、本当に幸せな結婚生活を送った人も居るんでしょうけど。彼女はそう言って、静かに器を置いた。

「運良く、私はどちらの生活も体験することができた。だから……私はたとえあの頃に戻れるとしても、やっぱり選ばないわね、あの結婚」

 おばあさんは口を手で押さえて、うふふ、と笑った。

「こんなことを言うと強がりだって思われちゃうかもしれないわね。だって、今の私は家族もいなくて、老いて目も見えなくなってる。周りからみたらとても幸福そうには見えないでしょ?」

「そんな……」

「でも……どうしてかしら。何気ない時、急に『ああ幸せだなぁ』って思うのよ。私にとって何が幸せで、どう思うかは私だけが決めていいことだから。他の人から見てどうかなんて、どうだっていいの」


 おれはその言葉に胸が詰まって、言葉がでなかった。

おばあさんは自分の話をしているだけなのに、答えをひとつ渡された気がした。


「今、このおうちでお友達と一緒に住んでるの。最近は、お友達が煮込んでくれたスープがねえ、ちょっと塩辛くて……でも笑っちゃうほど美味しいのよ。なんでも言い合える人が隣にいてくれるだけで、心ってふわふわするの。不思議よね」


 そう言って、ふんわりと笑った。





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