七、 葛藤
ゆらゆらと、視界が揺れる。
蒸れた肌と、生臭い体液の匂い。
髪が顔に張り付いて……キモチワルイ……。
汗で湿った肌がぶつかり合う、濡れた音。
「ハルキ……好きだよ」
繰り返し、低い声が耳元で囁く。
「好きだ……」
目が、覚めた。
窓から見える空は抜けるように青く、庭木の小鳥が賑やかに囀っている。いつも通りの、朝。
けれど、おれの心は苦々しさで満ちていた。
(……また、あの夢を見てしまった)
もう幾月も前の出来事なのに……。
ついさっきまで彼が隣に居たかのように、内腿を掴まれた指の感覚まで、生々しく残っている。
──でも、あのときは……
シノは「好き」だなんて言わなかった。それだけは確かだ。なのに、なぜか夢の中の彼は、必ずその言葉を囁いた。繰り返し、繰り返し……。
おれは寝台から降りると、調理場に行って火を起こす。水を沸かして、乾燥させた蜜草を煮出した。背後で音がする。振り返ると、シノが立っていた。彼を目にした途端、胸の内に黒々とした苛立ちが湧き上がる。そんな気持ちとは裏腹に、おれは明るく笑った。
「おはよう、シノ」
「ハルキ……」
なぜか、シノは戸惑ったような顔をする。
「ハルキ、あの……」
シノが何か言いたそうに口を開く。遮るようにおれは、言った。
「お茶、いる?」
ドンッ、と音を立てて器をテーブルに置く。ただそれだけ。なのに、彼の目には影が落ち、みるみる萎れていく。
「ああ…ありがとう……」
そんな彼を見るたび、おれは暗い愉悦に口の端を歪ませた。
向かい合って朝食をとる。……でも、会話はない。シノはずっと物言いたげな目でおれを見てくる。
「……前から聞きたかったんだけど」
シンとした空気の中、おれの声はよく通った。ピクッとシノの肩が震える。
「シノって、いつも教会ではどんなことしてるの?」
「あ、ああ……」
拍子抜けしたように、シノが目を丸くした。
「……子供たちに字を、教えてる」
「へぇ。そうなんだ」
「あとは、読み聞かせや、簡単な計算を教えたり。みんなで劇なんかもして……」
急に饒舌になった彼からは、おれに興味をもってもらえて嬉しい様子が見て取れた。
「ふーん。すごいね」
シノが緊張したように唇を舐める。そして、言った。
「ハルキも……良かったら一度、見にこないか? いろんな人が集まるから、意外と閉鎖的な雰囲気じゃないんだ。初めてでも参加しやすいと思うし……」
おずおずと囁かれたその言葉に、おれはクスッと笑い返した。
「遠慮しとく。おれ、子供って苦手だから」
「……そう、なのか?」
「だって、思ったことを言うし、全部態度に出すだろ。正直すぎて、残酷だから」
ちらり。とシノに目をやり、続けた。
「……それでいて都合の悪いことは、すぐに忘れちゃう。……だろ?」
シノの手が止まっていた。揺れる目が、誰のことを言っているのか気付いていると明かしていた。その顔を見て、おれは鬱屈が吹き飛んだ気がした。ガラリと声のトーンを変えて、ことさら明るく続ける。
「でも、すごく大事なことだと思うよ。シノは立派だね」
ニコッと笑ったおれを、シノの沈んだ目が見つめ返していた。
あの日。
あの悪夢のような出来事の後──……目が覚めたおれは、自分の寝室にいた。
一瞬だけ、すべてが夢だったのかと思った。けれど、ベッドの傍らにいるシノの顔を見て、まぎれもなく現実だったのだとわかった。
彼は、捧げられる直前の羊のように怯えた目で、おれを見つめていた。
「ハルキ……ごめん。謝って済むことじゃないけど……それでも謝らせてくれ」
彼が何か言っていたが、急に全てが馬鹿馬鹿しく感じたおれは、目を閉じた。
「俺はどうかしてた……。おまえに、あんなこと……するなんて」
今は声を聞くのも嫌だった。
うるさい。出ていけ。
口を開く代わりに、おれは黙って掛け物を頭からかぶった。
それから二日ほど、おれは家の中で何もせず、ただ虚ろに時を潰した。シノが枕元に水や食事を運んできても、視線すら向けなかった。ふらふらと家の中を歩けば、影のように彼がついてくる。それでもおれは、一切反応を返さず、空虚なままでいた。
三日目の夜。とうとうシノは膝を折り、おれにすがりついてきた。
「お願いだ、ハルキ。俺が悪かった。ハルキの望む形でいくらでも謝罪する。だから……少しでいい、食べてくれ。頼む……」
「何か言ってくれ。殴ってくれ。気が済むまで叩いて、好きなように罵ってくれ。どんな償いでもする。だから、君自身を追い込むことだけはやめてくれ」
「ハルキ……お願いだ……。俺から離れていかないで……」
懇願は哀れな旋律となって耳にまとわりついた。足元に縋りつく姿を見ても、胸の奥には何の波も立たない、ただ、静けさばかりが広がっていた。
そして、四日目。
通常通り、朝食の準備をしてテーブルについているおれを見たシノは、驚きのあまり戸口で固まっていた。
「おはよう」
「お……おは……よう」
「立ってないで、座ったら?」
「あ……ああ……」
動揺し、混乱しまくっている彼の顔に、おれはやっと空っぽの心の中で、何かが流れ出すのを感じていた。
── 責めてほしい? 殴れば気が済む?
(じゃあ、おれはなにもしない)
おまえもせいぜい、苦しめばいい……
いままで経験したことのない真っ暗な奔流。それは怒りと、ひどく冷えた喜悦がない交ぜになったかのような感情だった。
「全部なかったことにして、元通り生活したい」
おれがそう告げたとき、シノはしばらく抵抗した。だが、揺るがない態度を前にして、結局は諦めるしかなかった。
彼をこのまま赦すつもりはなかった。けれど、失いたくもない。
ならば……怒りは腹の底に沈めたままでいい。その怒りこそが、シノを罪悪感という縄で縛りつける。そう考えたとき、胸の奥にひどく冷たい満足が芽生えた。
どちらにせよ、生活を続けるためには『なかったことにしたふり』をするしかない。
怒り、苛立ち、恨み、恐れ。何もかも抱えたまま、すべてを忘れたような顔をして、今まで通り暮らし続ける。──すべては自分のために。そう言い聞かせた瞬間、不思議なほど全てが滑らかに回りはじめた。
その考えがどれほど歪んでいるのか、わかっていても。
こうして、おれたちは再び、狭い家で二人きり、ぎこちないながらも以前と同じ生活を、送り始めた。
***
背後から、大きな体がのしかかってくる。逃げることもできないおれは、不埒な手のひらが身体中を這い回るのを受け入れるしかない。
指がうなじに触れた瞬間、おれの体がビクッ、と大きく跳ねた。
「やだ……ソコは…っ…触らないで……っ」
制止しようともがく体を抑え込み、無防備にさらされた鱗を、男の指先がそっとなぞりあげた。
「やめて……ッ」
おれの言葉が終わらないうちに、柔らかな舌がうなじを這う。ビリビリと甘い痺れが全身を駆け抜けた。
強烈な感覚に声が抑えられない。
「あァ…っ………は…っ……!」
あまりの快感に、手足を硬直させたままぶるぶると痙攣した。どこもかしこも痺れてしまって、自由が効かない。
そんなおれをあざ笑うかのように、男の歯が鱗に食い込んだ。
「ん────……ッ!」
たまらない。気持ちいい。もっとして。もっと、もっと……!
「ハルキ……好き。好きだよ……」
「シノ……ぉ……!」
……
………
…………。
目を開けると、長椅子の上だった。
「…………」
夢の余韻に縛られ、しばらく身動きができなかった。
(なんて所で……なんて夢を見てるんだ、おれは……)
興奮の余韻を訴える下半身に、情けなくて泣きたくなる。まるで欲求不満の獣だ。
(どうして、こんな夢……)
自分のことなのに、まるでわからない。頭がおかしくなりそうだった。
シノに無理やり快感を刻みつけられて以来、おれの心と体には、明らかな異変が起こっていた。
繰り返し夢を見る。彼に抱きしめられる夢を──。
最初は愕然とした。何かの間違いだと思った。
怒っているはずなのに、憎んでいるはずなのに。どうして彼を求める夢なんて見てしまうのか。夜ごと目を覚まし、混乱した。
しかもそれは、一度や二度で済まなかった。気づけば幾夜も続き、しかも不思議と月が満ちていく頃に限って、夢は妖しさを増した。夢には、現実そのものの感触があり、与えられる快楽に逆らえず、体が昂った。鎮めようと、自らの手で試みたこともあったが、上手くいかなかった。
満たされない欲求が燻り、体の奥に熱がこもる。いつか、どうしようもなく彼を求めてしまう日がくる予感がして、恐ろしかった。
(なんなんだ…おれは……)
情けなくて、吐き気がする。
彼を傷つけては鬱憤を晴らしている裏側で、夢の中の自分は別人のように淫らに彼を求め、彼の腕の中で歓びの声を上げる。
(なんて、惨めなんだ……)
吐き気と一緒に、怒りが喉までせり上がってきた。どうして、こんなふうにされなきゃならないんだ。おれが一体、何をした……?
おれは腹立ち紛れに汚い言葉を吐き捨てて、立ち上がった。
幸い、シノはまだ帰ってきていないようだ。濡れた下履きが擦れて、気持ちが悪い。よちよちと不自然な歩き方で、外の洗い場へと向かった。
庭に出ると、虫の声が一斉に鳴き止んだ。しばらく間をおいて、すぐに大合唱が始まる。満月に近い月が、庭の草花を照らしていた。
バシャバシャと音を立てて下履きに水を掛けた。足で踏んで汚れを絞り出す。ついでに全裸になると、自分の体にも水をかける。水は震えるほど冷たい……けれど、ほてった体にはちょうどよかった。
洗い粉を少し手に取って、体に擦り付ける。夏用に少し清涼感のある薬草を加えた、新しい配合だった。肌触りも悪くない。我ながら会心の出来に、ほんの少しだけ気分が良くなった。
(……今、何時くらいだろう)
手早く水をかぶり、体を拭こうと布に手を伸ばした。その時だった。
ふと、虫の声が鳴り止んでいることに気付く。振り返ると、暗がりの中にシノが立っていた。驚いて、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
(……あっ…)
我ながら、あからさまな反応に胸がざわつく。
「びっ…くり、した。おかえり……」
取り繕うように声をかけると、シノは無言のままおれの横を通り過ぎた。そのまま家の中に入っていく。
(な……なんだよ……、あの態度)
彼の消えた戸口を見つめるうち、胸の奥で怒りがふつふつと沸き上がった。
(なんでお前が、おれにそんな態度をとるんだ? こんなに気まずくなったのも、おれが変な夢を見るようになったのも、もとはといえば全部、お前のせいだろ……!)
──お前が無理矢理あんなことさえしなければ……。
衝動を抑えきれず、布を腰にまきつけたまま、おれはシノの後を追った。
「シノ!」
振り返ったシノは、おれを見て顔を歪めた。
「なんて格好で……」
視線を逸らしながらそう言うシノに、おれはわざと近づいた。
──どうせあれは、女だったから起こったこと。
「なんだよ。別にいいだろ、男同士なんだから」
男同士、を強調して言った。シノは手で顔を覆うと、長いため息をついた。長椅子に崩れるように座り込む。
「シノ、お前さ……最近ずっと変だよ」
俯いたままのシノの頭を見下ろしながら、おれは言った。
「おれ、元の生活に戻りたいっていったよな? 何もなかったことにしようって。なんでそうしてくれないんだ」
ずっと胸に溜め込んでいたムカつきを、一気に吐き出した。体が女に変わるなんて、二度とないことだ。あんなの、事故だと思えばいい。
──あのとき、おれが男だったら、きっとシノは手を出さなかった。
「おまえはずっと……意識しすぎなんだよ。なんでもっと、普通にできないんだ」
以前、彼が『どうかしてた』と言っていた通り、あれは一時的な気の迷いだったんだろう。
でも、そのせいでおれはおかしくなってしまった。
お前のせいだ。
だから……お前が責任をとって、元の生活に戻さなければならない。
「おまえのせいで、ずっと息苦しいんだよ」
何もなかったことにしようと言った同じ口で、苛立ちのままシノを責め立てる。矛盾に気づいていても、止められなかった。
「どうすればいいんだ。おれに何かさせたいのか?」
シノは黙ったまま、何も答えなかった。
ただ、はぁ……と、長いため息をひとつ吐いた。その瞬間。おれの中で、苛立ちがプチッと音をたてて弾けた。
「ああ……でも、『もう一度女になれ』ってのは無理だから。あんなの、あの一回っきりだ」
口だけが勝手に動く。頭の中がひとつの感情に支配されて、止められなかった。
「女なら、相手がおれでもその気になるんだな」
シノを傷つけたい。おれが傷ついたのと、同じくらいに。
「体が戻って残念だろ。男のままじゃ、なんも出来ないもんな?」
一拍おいて、刃のように吐き捨てた。
「……最低だよ、お前」
沈黙。シノは顔を覆ったまま動かない。
(どうせ何も言えないだろ)
ふん…と鼻を鳴らした。その時だ。
「じゃあ……」
不意に、シノが口を開いた。
「抱かせてくれるの?」
「……え?」
「俺に、またハルキを抱かせてくれるの?」
重ねてシノが言った。聞き間違いなんかじゃないと分かって、おれは凍りついた。シノがゆっくりと顔を上げる。情欲に濡れた眼差しが、無遠慮に向けられた。
「そんな格好で俺の前に立って……誘ってるの?」
舐めるような視線が体中を這いまわる。無意識に腰に巻いた布をきつく握りしめていた。薄く小さな布の心許なさに、全身に鳥肌がたった。
「ち…違う……ッ! だって、おれは、……」
あの時とは違う。おれはちゃんと男で、シノもそれをわかっていて……わかっているはずなのに。
(嘘、だ)
シノの体に、欲望の兆しがはっきりと現れていた。
(なんで……?)
「女だったから、とか…。……本気で言ってるの?」
シノが低く呟く。
「違うよ。俺は、むしろ───」
淫らな眼差しが胸から腹へ、平らな肉体を舐めるように滑り落ちる。
俺はようやく、根本的な間違いを悟った。
──シノはずっとおれを……そういう目で見ていた? ……いつから?
「元の生活に戻りたい、なんて言うけどさ……できるの?」
言いながら、シノがのそりと立ち上がった。思わず後ずさるおれとの距離を、どんどん詰めてくる。
「元通りの生活ができるの? 今まで通り、俺の前で水浴びできる? 俺を信頼して、隣で眠れる……?」
背中が壁にぶつかった。どん、と音をたててシノの手が顔の横を打つ。
「……俺がそばに立つだけで、怖くて震えてるくせに」
シノの目には、怒りの色が漂っていた。
「俺に襲われたくないなら、試すような真似をするな」
シノに睨まれたのは、何年ぶりだろう。おれは呆然とシノを見つめたまま、反応ができなかった。胸の中で、ゾクゾクするような強烈な感情が膨れ上がる。喉元に何かが迫り上がってきて、声が出せなかった。
シノが険しい顔で見下ろしてくる。怖い……怖いのに。
なぜかそれは甘ったるい……喜びに、似ていた。
おれの思い込みと勘違いで引き出してしまった、予想外のシノの反応。
おかげでおれは、自らの怒りに隠されていた感情にまで、気付かされることになった。
──おれは……抱かれたことが嫌だったわけじゃ、なくて……
女になった途端、手を出されたから……性欲の捌け口に、されたのだと……。
それが、許せなくて。
でも。本当にシノが欲しかったのは……。
「嘘だ……そんなの……」
信じられない。信じたくない。おれは現実から逃げるように、部屋にかけ戻った。
その夜は、一睡もできなかった。
それからも二人の間には、言葉にできないような隔たりが続いた。ただ、おれが苛立ちを爆発させていた時とは違い、同じ家にいながら顔を合わせないことが増えた。
「何もなかったフリ」が無意味だと分かって、おれが意図的にシノを避けるようになったせいもある。
シノも無理に関わってこようとはしなかった。ただ、今まで通りおれが生活で困らないよう気遣ってくれた。なんなら、必要な時は街に付き添ってくれさえした。
会話がなくなったことを除けば、ほとんど以前と変わりなく、暮らせている。
それなのに。おれは自分が望んだはずの現状が、息苦しくてたまらなかった。
このままじゃいけないと分かっている。
けれど、どうしたらいいのかわからないまま、心は彷徨い続けていた。
***
いつしか月が変わり、光茸の季節になっていた。
光茸とは、その名の通り、光りを放つキノコの一種だ。山の入り口付近や沢沿いの半日陰に群生する。その光る胞子には痛みを麻痺させる効能があるため、薬屋からの注文も多い。
光を放つため、薄暗くなってからの方が探しやすい。なので、その日……、おれはいつもより少しだけ、帰りが遅くなっていた。
家に近づくと、薄暗い小道に人がたたずんでいることに気付いた。こんな暗がりで何を……と怪しみ、道を逸れようとした時、その人影が近づいてきた。歩き方でシノだとわかり、おれは知らず知らず肩の力を抜いていた。ランタンの明かりに照らされたシノの顔はこわばっていた。思い詰めたような表情を浮かべているのを見て、不安になる。
(何かあったのか?)
おれは日頃の気まずさも忘れ、小走りに駆け寄った。
「どうかしたの……?」
シノは答えず、ただジッと見つめ返された。しばらく間をおいてから、ようやく、
「ハルキが……なかなか帰ってこなかったから……心配で」
と口を開いた。
「だって、光茸は暗くなってからじゃないと採取できないから」
おれの言葉に、「そうか……」と呟き、シノは俯いた。
「……なぁ、ハルキ」
「なに?」
声をかけたくせに、なかなか続きを話そうとしない。焦れて口を開こうとした時、シノがようやく言った。
「薬草採りの仕事……辞めないか?」
「え……?」
思わず顔を見返す。俯いたままの彼の目は暗く、その表情はどこか張り詰めているように見えた。視線を逸らせたまま、シノは続けた。
「街で一緒に働こう。大陸の言葉を使わなくてもできる仕事はたくさんあるし……俺もできるだけ手伝うから」
「……なんで急に、そんなこと……?」
「心配なんだ。ハルキの帰りが遅くなるたび、またどこかで怪我をして倒れてるんじゃないか、動けなくなってるんじゃないかって……不安で……、居ても立っても居られなくなるんだ」
「そんな、心配しすぎだよ。怪我なんてあの時だけで……」
「たった一度でも!」
遮るような叫びに、おれは息をのむ。
「一度でも、あんな思いをすればもう十分だ! ……あのまま、ハルキを失ってたかもしれないって想像するだけで……耐えられない……」
最後の方は震える声だった。俯いた彼の横顔を見つめながら、おれは胸の奥に刺さる痛みを覚えた。
(……どうしてそんなことを言うんだ)
思い出すのは、数か月前のことだ。二人で町に出たとき、シノはおれを「薬草に関して、この島で右に出る者はいない」と紹介してくれた。商会長の耳にも名前が届いている、と。
あのとき、おれは初めて認めてもらえた気がした。
薬草採りは命知らずの仕事だと誰もが言う。
けれどおれには、子供の頃から薬草に触れてきた時間があった。アウレン島にいた頃、島で唯一の薬草採りの老人に教えを受け、よく頼まれて山に入った。彼の死後、初めて知ったのは、あの薬草の多くが異種の棲む危険な領域にしか生えないこと。そして、かなりの高値で取引されていたという事実だった。
利用されていただけかもしれない。けれど、あの経験が今のおれを作ったのは確かだ。
薬草を採るようになって、おれは初めて「厄介者」ではなくなった。だから思った。おれのやってきたことは間違ってなかった。おれもちょっとは誰かの役に立てるんだ……って。
あのときのシノの言葉に、どれだけ救われたか。どれだけ嬉しかったか。
(おまえには、きっと……わからないだろうな)
「なんでそんなことまで、命令されなきゃならないんだ?」
硬い声が自分の口から零れる。シノがはっと顔を上げた。
「命令だなんて……ただ頼んでるだけだよ」
「頼んで、それでもおれが言うことを聞かなかったら? おれを脅す? それとも……また力ずくで言うことを聞かせる?」
その言葉で、シノの表情が凍りついた。おれはその横を通り抜けながら、
「おれ……、絶対に辞めないから」
と呟いた。
翌朝。目が覚めた時、すでにシノは出かけた後だった。シンと静まり返った家の中を歩く。以前は二人で朝食を取っていたテーブルの上に、何かが置いてあることに気がついた。
『ハルキ、昨日はごめん。俺の身勝手な不安を押し付けたりして。でも、せめて今日どこに行くかだけは、ここに書いてくれないか? どうか、お願いだ』
小さな黒板には、白墨でそう書き残されていた。
もやもやとした気持ちでその書き置きを見つめる。隣には、シノが町で買ってきてくれた干した果物が置いてあった。モソモソとそれをかじりながら、心の中で迷っていた。
光茸の胞子は日持ちしない。なので、なるべく早く街へ売りにいかなければいけない。
しかし、昨日あれだけ偉そうに宣言した手前、シノに『街まで一緒に来て欲しい』とお願いするのは、さすがに気が引けた。
「仕方ない……」
おれは意を決すると、
『今日も光茸をとりにいく』
と黒板に書き残した。そして薬草をまとめて背負うと、山とは反対側に向かって、石段を下り始めた。




