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六、 暴走





 断崖を背にした岩場に、波音を縫うようにか細い声が聞こえてくる。

おれは岩にしがみついたまま、顔を伏せて凍りついていた。


 泣き声と、押し殺したような呻き。

 あたりには何とも言えない不気味な空気が漂っていた。


 見てはいけないという思いと、シノの身に何かあったらどうしようという焦りが、胸の奥でせめぎ合っている。どうすればいいのかわからず、指一本動かすことができなかった。


 遅ればせながらようやくおれも、おれの体を乗っ取った人魚の放った言葉の意味に、気づき始めていた。


(他人の体を使って、なんてことを……)


 意図を察した途端、怒りよりも先に、体の芯が冷えるような恐怖がこみ上げた。

 誰に教えられたわけでもない。けれど、生き物がどのように子をなすかくらい知っていた。家畜や、犬猫で見たことがあったから。

 でも、今岩場で行われていることは明らかにそれとは違っていた。


(何を……してるんだ?)

 恐る恐る岩陰から顔をのぞかせると、───白い影が、闇の中でもがいている……


「ああ……やめて……!」


 岩肌を伝って響き渡る叫びに、思わず肩が震えた。

 シノがゆらり、と体を起こす気配がした。その顔は見えない。けれど、向かい合った女の表情が、すべてを物語っていた。


「……おまえが望んだことだろうが……」


 地を這うような低い囁き。女の喉からヒ…ッと、小さな悲鳴が漏れた。

「……まだ終わってない。これからだ──」

「………ッも、もういいっ、帰るっ! もう、……かえしてぇ……っ!」

 その言葉のあと、白い影は激しく暴れ、シノの手を振り払った。こちらへ向かって這いずってくる。

目を見開いたおれと、女の視線が交錯した。女がまるで助けを求めるかのように手を伸ばしてくる。ほぼ同時に、おれも渾身の力で岩場を這い上がり、手を伸ばしていた。こいつをこのまま、逃すつもりはなかった。

(おれの体を……返せ!)


 指先が触れ合った瞬間。ドン、と地面にたたきつけられたような衝撃が走った。

「……あ……っ!……?」

 突然、目の前が白くなり、世界が回った。

すさまじい数の音が脳内をつんざき、気が遠くなる。





──やれ……、酷い目にあったわ。 



 おれの意識をかき回した猛烈な音の波は、最後に一滴、かすかな声を残して消えた。



──こんなはずじゃなかったのに……。やはりヒトなんて、関わるもんじゃないよ……。








 もう一度目をあけると、おれは柔らかな巣の上に横向きに寝そべっていた。つるりとした泡からは、鼻を抜ける甘い香りがした。


(もど……った?)


 呆然と、自分の手のひらを見つめ、何度か握ったり開いたりを繰り返す。

 急にあたりが暗くなったような気がした。さっきまで夜が異様に明るく見えていたのは、人魚の目を通していたからか、と思い至った。


 ひやり、と。風が直接、地肌を撫でる感触がする。

 ランタンの光に照らされた自分の体を見下ろせば、無防備に全てを曝け出した格好のままだった。そしてその胸には……本来無いはずの膨らみがあった。

(コレ、ちゃんと戻るのかな……)

 泣きたいような不安に駆られる。股間のほうもどうなっているのか気になったが、先ほど目の当たりにしたことを思い出してしまい、見るのをやめた。その辺が妙にジンジンしていて、確かめるのが怖かった。

 不意に、ゴリっと太ももに何かが当たる感触があった。

……そう、あえて見ないふりをしてしまったけれど……

シノはまだおれの体の上にいた。状況を確かめているのか、黙したまま微動だにしない。


 同じ男だからこそ、わかってしまう。この固いものの正体と、その気まずさを……。

(……ぅうう……)

 カァアッと顔が熱くなる。一旦、落ち着くため両手で顔を覆った。試しに、そっと体を離そうとしてみたが、未だ警戒しているようで掴まれた腕はびくともしなかった。


(……おれの不注意のせいで、シノにあんなことをさせてしまった)

 そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 でもおかげであいつを追い払い、おれは体を戻すことができた。顔を覆っていた手をそっと退ける。気まずいけれど、ちゃんと伝えなければならなかった。

「あの……シノ……おれ、」

 言いながら彼を見る。途端、ドクンッと音を立てて心臓が跳ね上がった。

おれを見下ろす、シノの目が。獲物に喰らいつく直前の獣みたいに、ギラついていたから。


 反射的に、おれは怯えたことを隠そうとした。けれど、食い入るように見つめていたシノには、全部筒抜けだったようで……

「……うッ……?……!」

 口を塞がれた。シノの、口で。

 背けようとする顎を大きな手で押さえられ、突き放そうとした手は、熱い掌で握り込まれた。

「……シ……ッ…待っ……!」

 開けた口の隙間から、ぬろっとした滑らかなものが侵入してきた。生々しい感触に体が凍りつく。

(うわっ……ど…どうしようっ……おれ、シノと……キスしちゃってる……!)

 懸命に鼻で息を吸いながら、唯一、自由がきく左手でシノの肩を何度も叩いた。その間も柔らかい舌が口内を舐め回してくる。眩暈がした。

 首を振って執拗に追いすがる唇から逃れると、必死で叫んだ。

「まっ…て、シ……ノ、シノ! おれ、おれだよっ……戻れたんだっ! だから……やめ…っ……!」

 ふ、とシノの動きが止まった。

(やっと気づいてくれた……)

 ホッと安堵して体の力を抜く。おれの耳に、熱い囁きが吹き込まれた。


「……知ってる」


「………え…?」

 シノと目が合った。欲情に潤んだ眼差しが、そこにはあった。

 目を見開いたおれの口を、再びシノが柔らかく塞ぐ。呆然と……抵抗するのも忘れて、シノの舌が這うのを受け入れていた。



自分が何をされているのか、わからなかった。

シノが何を言っているのか、わからなくて。

シノがこれから何をしようとしているのかも。

わから……



「ッや……やめて、シノ……っ!」


 シノの掌が腿に触れる。サア……ッと自分の血の気が引く音を聞いた。


「ダメッ! それは絶対に! 絶対に駄……ッァ!」




──おれ、嫌だって言った。やめてって言ったのに……。


 なのに、なんでこんなことするの?


 優しい手つきで頭を撫でられ、口を塞がれた。おれの言葉を無視して、そのくせ、まるで宝物みたいに大事に触れてくる。


──シノ…なんで……?


 心がバラバラにちぎれそうだ。揺さぶられる間中、眦から涙がこぼれ落ちるのを、止められなかった。






「ハルキ、ごめん……ごめんな……」


 シノは謝り続けた。顔を歪め、苦しそうに何度も、何度も……。


 愛の言葉は一度もなかった。


 それが、答えだった。




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