五、再会
夢を見ていた。紺碧の水中に沈み、輝く水面を見上げる、夢。
海底の砂浜に背中をつけ、差し込む光が波に揺らめく様を見つめる。水の中にいるのに、寒くもなく苦しくもない。ただ穏やかで、心地よい。おれは体の力を抜いて、波に遊ばれるまま身を任す。
子供の頃から、何度もみた夢だった。自分の体を流れる血の半分が、海に棲む者に由来するのかもしれないと思うようになったきっかけも、この夢だった。
しかし、今回の内容は少し違っていた。夢の中のおれは、人魚になっていた。下半身がびっしりと鱗に覆われ、足の代わりに大きな尾鰭がついている。ほんの少し翻すだけで、驚くほどなめらかに水中を泳ぐことができた。
魚よりも早く泳ぎ、海中を満喫する。気がつけば、おれは陸に近いところまで来ていた。ゴツゴツとした岩場が、海面に向かって続いている。
(いけない。陸に近づいたらダメって、ママに言われていたのに)
おれはなぜか、ひどく悪いことをしている気分になった。同時に、「なぜ?」と思う。これほど海中を早く泳げる自分が、陸の何を恐れなければならないのだろう。少し興味がわいた。波間から、少しだけ頭を出す。するとちょうど、陸には小型のヒトが数匹居るのが見えた。うろうろと、うごめいている。
(小さいから、まだ子供かな?)
そう思って、もう少しだけ近づいてみる。子供ならば大して危険はないはず。だから、もう少しだけ……。そうして、岸に近い岩場にしがみついたときだった。
目の前に、ひょいとヒトの子が顔をだした。深海みたいに真っ黒な髪と瞳をしている。おれ……いいや、「私」と目が合った途端、そのヒトの目が一層大きく見開かれた。
そのとき、ようやくママの言っていた意味がわかった。
『陸に近づいたら、だめ』。
うっかりあのヒトの目をみたとき、私の魂は、あの真っ暗な海に吸い込まれてしまったのだ。
私はほとんど無意識に、一番大事な貝殻の髪留めを彼に差し出していた。彼は少し躊躇った後、笑ってそれを受け取った。そして、代わりに持っていた赤い実を差し出してきた。
──嬉しい……嬉しい! 心が通じ合った!
このヒトを私のウチに連れて帰ろう。ちゃんと贈り物の交換もしたんだから、いいよね? この可愛くて愛しいヒトを、早く私のママにも見せてあげなくちゃ!
手を引いて、夢中で泳いだ。
でも、すぐに後ろから、何かが追いかけてきたのがわかった。なにか、とてつもなく、『怖いもの』が…………
(う……ん……)
夢から覚めたはずのおれは、まだ水中にいた。濃紺の水中は、手を伸ばせば触れられるほど闇が近い。水面に揺らめく光も、今まで見た中で一番弱く、おぼろげに揺らめいていた。
(……夢のなかで夢を見るなんてこと、あるの……?)
ゴポポ…と泡沫の通り過ぎる低い音がする。沈んだ体を優しく受け止めてくれる白砂はなく、代わりにゴツゴツとした岩や礫が、強い潮の流れに耐えていた。押し寄せた波にあおられた拍子に、岩に肩をぶつけてしまう。
(痛っ! ……え?)
確かな感覚に完全に目が覚めた。これは、夢……じゃない。
(おれはいま、本当に海の底に沈んでいるんだ!)
慌てて水面を目指して水をかく。驚くほどの速さで、水面に顔をだすことができた。
時刻は夜のようだった。無数の星と満月が、空で瞬いている。しかしどういうわけか、何もかもがいつもよりも数倍、明るかった。一つ一つの星はまばゆく光り、満月はまるで太陽のようにあたりを照らしている。おかげで陸の様子がはっきりと見渡すことができた。
波間から覗き見た地上。切り立った崖の下、そこに誰かが横たわっている。あれは──おれ……?
(………なんで……)
ドクッドクッと不穏に脈打つ胸を押さえる。懸命に、今の状況を思い出そうとした。
(そうだ……おれは崖から落ちたんだ。それで……それから?)
その後の記憶が、ない。
自分の肉体を、離れた場所から見ているだなんて──。
『人は死ぬと、魂は肉体を離れ、海の底にある都市で眠りにつく』と聞いたことがある。
(おれ、死んだ……?)
恐ろしい予想に、背筋がぞくりとした。
しかし、それにしてはやけにしっかりと体に感覚がある気がする。魂だけになった経験はないが、こんなに肉感が残るものなのだろうか。
(とにかく、あそこまで行ってみよう)
そう思ったものの、少し近づくだけでもひどく時間がかかってしまった。まるで悪夢の中にいるときのように、体がずっしりと重かった。ゆらゆらと波に弄ばれながら、やっとの思いで岩にしがみつく。あともう少し。手が届きそうな距離まで近付くが、岩場が鼠返しのようにそり返っているため、これ以上は登れなかった。
岩にもたれかかりながら、しばらくゼイゼイと肩で息をした。体がだるい。まるで全ての力を使い果たしてしまったかのようだ。岩棚に両手を掛けると、顔を半分ほど出すことができた。
間近で見て、ようやく気がついた。おれの肉体は、なにか白っぽい物の上にあるようだ。目を凝らすと、白いものの正体が、見えた。
泡だ。
一つ一つが人の拳ほどもある泡が、無数に連なり岩場の窪みに張り付いている。その様は、まるで何かの巣のようにも見えた。
荒れは何だ、なぜあの泡は割れないんだ?……、と思った瞬間、知らないはずの知識が、急に脳内に流れ込んできた。
(これは産卵のための、泡のゆりかご……母の息と祈りで編まれた、海でいちばん柔らかな巣)
人魚の作る泡など、知る由もない。なのに、温もりや鼻の奥に残る甘い香り、泡を唇で形づくる感触までが、鮮やかに蘇ってきた。
(本来は海の底に作られるもの……なのに。なぜここに?)
その疑問は、驚きによって吹き飛んでしまった。目の前の体が、動いたのだ。まるで寝台の上にいるかのように、ゆるやかに寝返りをうった。
音を立てて顔から血の気が引く。
(おれはここにいるのに──体だけが動いた!)
まるで他人が、おれの皮を着ているみたい……、そう思った途端、ぞわっと背中に冷たいものが走った。
その時だった。
「…ルキ……ハルキ!」
海岸の岩場に、小さな火が一つ現れた。
浜辺の方から続く岩棚を、ランタンらしき灯りがゆらゆら揺れながら、近づいてくる。
「ハルキ……っ! 頼む、返事をしてくれ……!」
ゴツゴツとした岩に阻まれながも、何度も名前を呼びながら近寄ってくる男の姿があった。
(あの声……シノ……?)
「ハ……ハルキ⁈」
血を吐くような叫びと共に、シノが駆け寄ってきた。
「ハルキ、ハルキ……! 大丈夫か⁈」
月明かりに照らされたシノの顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。彼がどれほど心を痛めていたのか、一目でわかった。きっと必死に探し回ってくれたのだろう。髪は乱れ、服は汚れて、あちこちが破れていた。
「やっと見つけた……!」
声に反応するように、おれの体が動いた。
ゆっくりと瞼を開け、虚ろな瞳が現れる。首を持ち上げ、無言のままシノをじっと見上げた。
「ハルキ、大丈夫か……怪我は⁈」
シノが動揺もあらわに、おれの体に目を走らせている。
「まさか、ここから落ちたのか……?」
崖を見上げるシノの体が、ぶるぶる震えている。
「どこか痛いところは……?」
怪我の有無を確かめるように、シノの手がそっとおれの後頭部を撫でた。おれの体が、気持ちよさそうに目を細めたのが見えた。
「なかなか帰ってこないから心配したぞ……。今日は崖の方に行くって聞いてたから、来てみたら……、道の途中にハルキの籠が置いたままだったから、まさかって……」
青ざめた顔でシノが言う。その言葉に、そういえば山道に愛用の大きな籠を置きっぱなしだったことを、思い出した。
「この変な泡は、何なんだ……?」
ようやく他のことに気が回り始めたのか、シノが奇妙な泡に指先で触れた。
「異種の巣だったら……この近くにいるかも。……ハルキ、歩ける…? うちに帰ろう」
そう言ってシノは、横たわったままの体を抱え起こそうとした。その瞬間、だらりとしていた両手が動き、シノの頬を包み込んだ。びっくりして固まるシノの顔を覗き込み、『おれ』がしゃべった。
「やっと、あえた」
「…………ハルキ?」
シノの頬を撫でた『おれ』の指が、シノの長い髪に差し込まれる。なめらかな感触を確かめるようにゆっくりと梳いた。
「わたし、あなた」
妙に舌足らずで、つたない口調だった。シノが訝しげな顔をする。
「ハル、キ……?」
「忘れない」
(違う! それはおれじゃない!)
おれは二人の間に割り込もうとした。岩をよじ登ろうと手を伸ばし……、ようやく気がついた。
人間の手、じゃなかった。
指と指の間には、くっきりと大きな水かきがあった。ふわふわと波間に浮かんでいられた感覚の正体は、下半身の巨大なヒレのせいだった。
目の前のおれの体に『何か』が入っているように、おれもまた、なにか別の体のなかに入ってしまっているようだった。
(人魚……? 今、おれは人魚の中にいるのか……? まさか…体が入れ替わった? どうして⁈)
とにかくシノを遠ざけなければと思った。だが、どんなに叫ぼうとしても、声が出なかった。人魚はしゃべれないという逸話を思い出して、今度は岩を登ろうとする。しかし、体は鉛のように重く、手を上げることすら苦しかった。
(……さっき、たくさん泡をつくったから……もう力が残ってない)
頭の中に、時分のものではない思考が浮かび上がる。これは、この体に残された人魚自身の声だと直感した。
(でも、いい。ずっと会いたかったあのヒトにあえた。こんな機会、もう二度とないかもしれないから……)
その声が頭の中を通り抜けたとき、おれは一つの可能性に思い至った。
(こいつ、まさか……あのときの人魚か?)
子供のころ、シノを海に沈めようとした人魚がいた。
(まさか、あれから何年もずっと、シノを狙い続けていたっていうのか……?)
岩にしがみつきながら、おれはぶるりと体を震わせた。
さっきの夢。子供の頃にあった出来事にそっくりな……人魚の視点からみた、あの事件。あれはもしや、夢ではなく……この体に染みついた過去の記憶だったのではないだろうか?
──シノが危ない。
(だめだ、シノ……逃げて!)
必死の叫びも、むなしく口だけが空回りする。波の力を借りて、なんとか岩と岩の間に体を挟むように乗せることができた。だがおれが顔を上げた時。そこには、さらに衝撃的な光景が待ち受けていた。
(は?……なにを、やってんだ……?)
おれの体は、ゆっくりと服を脱いでいた。呆然とするシノの目の前で、たちまち一糸纏わぬ姿になる。そして信じられないことに、その体は……おれのものだったはずの体は、シルエットが、あきらかに変わっていた。
全体的にふっくらと丸みを帯びていて、……胸には二つの膨らみがあったのだ。
「……お前、何だ……?」
顔をこわばらせたシノが、にじり寄ろうとする女と距離を取るように、数歩下がった。
「ハルキを、どうした……⁈」
低い声が空気を震わせる。見たことがないほど激しい怒りをあらわにしたシノが、女を鋭く睨みつけていた。
「ママが、教えてくれた、こと」
海の中では会話が必要ないからだろうか。女が紡ぐ言葉は、途切れ途切れで、ひどくわかりづらかった。
「陸のヒト、とても熱い。海のわたしたち、違う。わたしたち卵産む。ヒト、違う。抱き合う。ママ、ヒトと繋いで、ゆらゆら。とろけた。……わたし、それ知りたい」
(人間と人魚の違いを話しているのか……?)
正直、おれは人魚が何を言いたいのか、さっぱり理解できなかった。だが、シノは顔を引きつらせると、言った。
「勝手にやってればいいだろ………そんなことにハルキを巻き込むなっ」
女は首を振った。
「ママ、ヒトになれた。わたし、なれない。この体、とても怖い……でも、弱ってた。嬉しい。願いかなう。体、もらう。あなたに、会えた」
拳を震わせ、蒼白の顔でシノが呻いた。
「なんで、よりにもよってハルキなんだ……!」
「この体、海に近い。わたし、近い。卵産む、できる」
そう言った後、女はさも嬉しそうに笑った。
「今度こそ、あなた、うちに連れ帰る」
「……お前、海の異種か?……俺を忘れないとか、連れ帰るとか……。まさか……、あのときの人魚…か……?」
会話から、シノもおれの中にいるモノの正体に気付いたようだった。
「だったら、お前の目的は俺だろ? なら、こんなことしてないでさっさと俺を海に沈めればいい」
シノの体が揺れ、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「頼むから……ハルキを返してくれ。これ以上、彼を巻き込むな……っ」
「あなた、海、来る?」
「……好きにしろ……」
うつむいたシノの声は力なく、掠れていた。女の唇がにぃっと吊り上がった。
「嬉しい! ……でも、わたし、ヒトになれる、今だけ。だからまだ、行かない」
「なんだと……?」
「ヒトの熱、してから。あなたと、一緒に行く」
絶望の表情を浮かべたシノに、女がすり寄った。
「…………できない……」
地面に両手を突いたまま、シノは動かなかった。女はしばらく彼の体を揺さぶったり、顔をのぞき込もうとしていた。だが、シノが動かないとみるや、いったん泡の上に戻ると、呟いた。
「わかっ、た。なら、やめる……」
意外にもあっさりと諦めた。シノがハッと顔を上げる。
「あなたが、いい。……でも、ダメ。だったら……、他のヒトでも、いい」
「……なんだと……?」
その言葉に、みるみるシノの表情が歪んでいく。
「わたし、知りたい。ママの言ってたこと……ヒトの熱。ゆらゆら。……あなたダメなら、他のヒトでも」
「ふざけるな!」
叩きつけるような怒声だった。
「そんなこと、許すか……! 絶対に、誰にも、その体には触れさせない!」
血走った目で、シノは女を睨み付ける。激しい怒りを前にしても、女は怯むどころか、むしろ嬉しそうに目を細めた。
「わたし、知りたい。……知るまで、戻らない」
「………ッ!」
ギリギリと音が聞こえそうなほど、強く歯を噛み締めたシノが、内心、激しく葛藤しているのが見てとれた。
(ダメだ、シノ! そんなやつの言うこと、聞く必要ない! 早く逃げろ……!)
声にならないおれの叫びは、シノには届かなかった。
「わかった」
暗い声で、シノが呟く。その目は瞳孔が開ききり、濁った視線はどこにも焦点を結んでいなかった。
「そのかわり、俺の好きにさせてもらう……あれこれと注文をつけるな。……終わったら、さっさとハルキの中から出て行け。……いいな……?」
女が嬉しそうにシノの首に腕を回す。二人は縺れあうように、泡のベッドに倒れ込んだ。
異形の書き方が暗中模索で、よくわからないことになっていますが。フィーリングで読んでいただければと思います……何卒。




