十三、 襲来
「なんで……ここに……」
シノの顔から血の気が引き、かすれた声が漏れた。
その尋常でない様子に、ベラナの目が『誰?』と問いかけてきた。
「……シノの……お母さんです……」
小声で答える。語尾の震えを抑えられなかった。島を出るときの、あの強烈な眼差しが脳裏に蘇った。
アウレン島で、シノの家は最も裕福で、群を抜いて大きな影響力を持っていた。女主人リンシアもまた、島の女たちを束ねてきた。災害や飢饉の折には、誰よりも先に立って人々を支えた。住人をまとめ導く才覚に長けた人物と評判だった。
──ただし、シノに関することを、除いて。
「会いたかったわ、シノ」
妖艶な微笑みを浮かべ、しっとりとした声が空気を震わせる。不惑を超えてなお艶めきを増した美貌は、シノとの血の繋がりを感じさせた。
「あなたを迎えに来たの」
ジリッと音を立てて、シノが一歩後ずさった。
「は……? 何、言って……」
「シノ、もう十分でしょ? お父さんたら、今年の夏頃から体を壊しちゃってて……今うちは大変なの。お願いだから、戻ってきてちょうだい」
シノの手を両手でぎゅっと握りしめ、柔らかく、しかし有無を言わせぬ笑みを浮かべた。
シノが幼くして記憶を失って以降、母としての愛情は歪み、いつしか執着へと変わった。
他の兄弟たちはその目に映らず、彼女の関心はすべてシノひとりに注がれた。彼の行動の一つ一つを把握しようとし、交わる人間すべてを吟味し、時に排した。
シノが幾度も危険な目に遭っていたせいもあって、幼い頃は近所の人々も『仕方がない』と笑っていた。ところが、彼が成長するにつれ、支配は苛烈さを増した。
そして、彼女が最も忌み嫌っていた相手は、間違いなくおれだった。シノの関心が向けば向くほど、彼女の憎悪は増した。彼女のあからさまな嫌悪は、やがて村全体に広がり、おれを更なる孤立へと追い込んでいった。
シノは必死に抗おうとしていた。だが……家族という絆は、おれが思う以上に厄介なものらしい。彼女の前に立つたび、シノの顔が苦悶に歪むのを、何度も見てきた。
「母さん……」
何かを堪えるようにシノは片手で顔を覆った。うめくような声で、
「……父さんのことは聞いてる。腰を痛めたから、安静にしてるって。戻らなくても大丈夫だって連絡をもらってるよ……それに、うちには兄さんがいるだろ」
「あんな頼りない子は、ダメよ。うちはあなたがいなきゃ駄目なの!」
大きな声が周囲の視線を引く。シノに気づいた人々が、ざわめき、集まり始めていた。
「ねえ、シノ。家族が困っているのよ。……あなたは優しい子だもの。見捨てたり、できないわよね?」
「こんな場所で……やめてくれ、母さん……」
腕に縋られ、シノは絞り出すような声で言った。自らの腕を握る拳が真っ白になっている。
「街の暮らしは、そんなに楽しい? でも、もう十分遊んだでしょ? 私と一緒に村に帰りましょう。みんな待ってるわ」
息子の言葉など耳に入らないかのように、リンシアは畳みかける。
「あなたがいなくなって、本当に寂しかった。……だから、私、あの時は間違えたって、後悔したのよ」
「……後悔…だって……?」
「そうよ。あなたがあの夜、あんなに怒るなんて思わなかったの。私が悪かったわ。だからこの数年間、会いに来るのも我慢してた。本当はすぐに会いにきたかったのに」
言葉を重ねるごとに、シノの顔色は失われていく。もう限界まで白いはずの顔が、さらに蒼褪めていくのがわかった。
「何を…言って……」
「でも信じて。すべて、あなたのためを思ってしたことだったの。大人になったあなたが、おかしな女に惑わされないように……。でも、あなたに冷たくされて、私は十分に反省したわ。だから、もう許して。一緒に帰りましょう。ねえ、……シノ」
信じられないものを見るような目でシノは唇を震わせた。今にも倒れてしまいそうで、見ていられなかった。そっと手に触れると、シノは強く握り返してきた。まるで溺れる者が、浮木にしがみつくみたいに。
ふと、リンシアの視線がこちらを向いた。おれの姿を捉えた途端、その眦がみるみる釣り上がった。そして、
「……この、化け物め!」
金切り声とともに、突然おれに向かって手を伸ばしてきた。
「汚らしい化け物! お前……お前がうちのシノを唆したんだろう‼ こんな遠くまで連れ出すなんてっ! 村で育ててもらったくせに、恩知らずが‼︎」
慌てて周囲が止めに入るが、大人の男でも引き剥がせないほど、ものすごい剣幕だった。
「やめろっ」
あまりの恐ろしさに震え上がったおれの体を、シノが背中に隠す。
「なんてことを言うんだ……ッ」
「ああ、どうしてそんなに優しいの、シノ。こんな惨めな子のことまで気にかけてあげるなんて……。子供の頃にうけた恩なんて、もう十分返しただろうに」
引き剥がされて尚、燃えるような目が睨んでくる。……と。その口許が急に、ニタリと歪んだ。
「お前のために、人を連れてきてあげたよ」
「…人……?」
誰のことか、と尋ねる必要はなかった。彼女の背後、人の輪の少し離たところにその人はいた。明るい色の髪と海のような目の色で、一目で大陸の人間だとわかった。
粗末な修道服の胸には正教の印が刺繍され、腰には場違いなほど大きな剣が吊られている。布越しでも伝わる鍛え上げられた体躯、そして常人とは隔絶した気配……。
彼の周囲だけ、まるで目に見えぬ壁があるかのように、人混みが避けて空白をつくっていた。
「あの人はね、お前を探してはるばるアウレンまで来たんだそうだ」
おれを、探して?……なんのために?
戸惑い、男を見ると目があった。厳しい……けれど、妙に熱を持った眼差しだった。
「そりゃ、アンタが化け物だから。教会が捕えに来たんだろうさ」
ひひっと笑って言う。思わず男の腰に下がる剣を見つめた。
男が動いた。近づいてくる。彼の周りにいた人々が道を開け、彼は真っ直ぐにおれに向かって歩いてきた。
「Se lenia, repicia’ta?」 (あなたがレピシアか?)
男が口を開く。──レピシア、だけが聞き取れた。青ざめるおれを、シノが背に庇ったまま、低い声をだした。
「Se’vian tu?」 (おまえは誰だ)
問いかけを無視して、男は尚もおれに向かって話しかけてきた。
「I’sar ve’lenia. Ka’thial en deriv valra elin’Ar.」
(私はあなたを探していました。偉大なる神の血を引くお方)
それを聞いたシノの表情が変わった。
「なんだと……?」
「……なんて言ってるの?」
シノが躊躇っているうちに、男はなんと、目の前で片膝をついた。おれの手をとって、
「Mael’iven.」(我が主)
と呟き、指を自らの額に押し付けたのだ。
「な……なに、なに?」
周囲が唖然と凍りつく中、おれは訳が分からずキョロキョロと辺りを見回した。
戸惑っているのは、オレだけではなかった。シノの母親も、驚いたように男を背後から見ている。
「なんなのよ……」
苛立ちもあらわに呟くと、彼女はおれを指差した。
「どうして捕まえないのよ……あいつがアンタ達が探してたっていう化け物だよ!」
通訳らしき人に向かって、母親が怒鳴る。
通訳は小首をかしげ、抑揚の乏しい声で答えた。
「私たち、探す。大事な任務」
「だから、そいつを捕まえに来たんだろう⁉︎」
「レピシア──神の子。教会、保護する」
「な…っ!」
長いまつげに縁取られた双眸が、カッと見開かれた。
「保護だって⁈ アレを探しに来たなんて言うから、私はてっきり……っ!」
納得がいかない、とばかりに、今度は周囲の人々に向かって叫んだ。
「ねぇ、あんたたち。まさか知っててこれと付き合ってるのか? これはね……レピシアなんだよ! ほら見てごらん、首を! 見苦しい布で隠してるじゃないか。あの下にはね、鱗があるのさ。化け物の証拠がね!」
その一言に、しん、と場の空気が張り詰めた。
ざわり、と人々の間に波紋が広がる。誰かが小さく「本当か……?」と呟いたのを皮切りに、疑念の色が広がりかける。
子供を抱き寄せる母親、
視線を逸らす者、
眉をひそめる者……。
冷たい視線が、矢のようにおれに突き刺さった。
(ああ……嫌だ……)
胸の奥がぎゅっと掴まれ、呼吸が浅くなる。足元からじわじわと世界が遠ざかっていくような気がした。
おれは……他の人とは違うことを、忘れていた。最近は、優しい人たちに囲まれていたから。勘違いしてしまった。レピシアであることを秘密にしたまま、誰かと仲良くなろうだなんて。……間違ってた。
(また昔みたいに軽蔑される日々が始まるくらいなら……いっそ、今ここで、息が止まっちゃえばいいのに……)
「……だから……?」
訝しげな一つの呟きが、静かな空気を揺さぶった。
マーサだった。彼女は今まで見たことがないくらい、険しい顔をしていた。
「だからなんなんだい? この子がレピシアだと、何か困ることがあるのかい?」
「は…? いや、だから……」
思ってもいない反応をされて、母親が戸惑った声をあげる。人々も驚いたように、ぱちりと目を瞬かせた。
「なんなんだい、あんたは。さっきから、聞き苦しいったらないよ。人に向かって化け物だなんだと……いい大人が口にする言葉とは思えないね!」
ベラナが鋭く声を張ると、空気ががらりと変わるのを感じた。
「そ……そうだそうだ!」
「この子は、化け物なんかじゃないぞ……!」
「薬を分けてくれる、優しい子だよ!」
「この前は、うちの子のためにわざわざ熱冷ましを届けてくれたんだから!」
口々に賛同の声が上がり始める。さっきまで冷たく刺さっていた視線が、一つ、二つと和らぎ、やがて全体に広がっていった。
「あんた、いい歳して子離れも出来てないのかい? 息子に擦り寄って甘えるなんて、みっともない!」
ベラナの一言が決定打となった。人々の間にざわざわと笑いが起き、空気が一気に母親から離れていく。リンシアの顔が、羞恥と怒りで真っ赤に染まった。シノを溺愛してきた彼女にとって、それは最も聞きたくない言葉の一つだった。
きりきりと眉がつり上がる。燃える目がおれを睨み、吐き捨てるように叫んだ。
「獣の血を引いてるなんて……人間じゃないだろうが! 気持ちが悪い!」
「実に醜い──」
いつの間にか、母親のすぐ後ろに、豪華な衣を纏った司祭が立っていた。その顔は厳しく母親を見つめている。
「あなたは……、あなたのご子息がもっとも大切に説いている、『愛の一説』をご存じないようですね」
「は……? あ、愛……?」
突然の司祭の言葉に、彼女は困惑したように顔を歪める。
次の瞬間、その場にいた子供たちが、声をそろえてその一説を朗じた。
「他者の異な姿を嘲るとき、汝の魂は少しづつ削れていく。
愛を拒むことは、神の業を拒むことなり。心を閉ざし、耳を塞ぎ、
己を正しき者とせんとするとき、神は静かにその背を向けられる」
「……己と違うものを嘲り罵ることが、いかに醜く愚かしいか。この島では、幼子でも知っていることですよ」
呆然とする彼女にむかって、司祭は続けて言った。
「鏡をご覧なさい。あなたのほうが、よほど恐ろしい獣の顔をしておられるようだ」
場に沈黙が訪れ、人々の視線が一斉に母親に注がれた。彼女は「なによ…」と震えながらも、縋るようにシノを見た。彼が顔を上げないのをみて、顔をぐしゃりと顰めると、身を翻した。
走り去っていくその背を、誰も追わず、誰も声をかけなかった。
呆然と立ちすくんでいた俺の足に、何かが触れた。見れば、幼い子供がしがみついているではないか。
「え……」
狼狽するおれのそばに、いつの間にか若い男が立っていた。目が合った途端、男は微笑み、低く何かを告げた。
「Seren’al miran “de lunéa”, envalis ti’rein.」
(『愛の奇跡』にお目にかかれて、光栄です)
言葉の意味は分からなかった。ただ、敬意と親しみが入り混じった空気だけが伝わってきた。男はおれを見たまま、足元の子を指さし、
「Lenia so, maren’ta vola.」
と言った。シノを見る。彼は軽く笑い、おれに向かって、
「『抱っこしてあげて』……ってさ」
と訳した。恐る恐る、抱き上げる。小さな体はとても温かかった。不思議そうにおれを見つめた子が、何のためらいもなく頬に触って……笑った。
父親も嬉しそうに微笑んでいる。
(ああ……なんの抵抗もなく…触ってもらえるんだ)
俺には特別な力なんてなにもない。でも、こんなに嬉しそうにしてくれるなら……
「どうか……元気で、大きくなってね」
精一杯の想いを込めて、囁いた。




