十二、洗い粉
以前、街の片隅で震えていたところを救ってくれた老女は、マーサという名前だった。ランタンを返しに来たと言うと、家の中へ温かく迎え入れてくれた。
「お礼に…」と自作した洗い粉を手渡すと、想像以上に喜んでもらえた。再び甘いお茶を振る舞われ、話し込んで帰りが遅くなったおれに、またランタンを貸してくれた。
二度目にランタンを返しに尋ねたとき、マーサの隣には、同居人のベラナがいた。
「あなたからもらった洗い粉、ほんとうにすごいわ!」
開口一番、そう言われ、おれは人見知りする間もなく、大絶賛の嵐にさらされた。
「汚れが落ちるのに、肌が全然荒れないの! こんな魔法みたいな粉、どこで手に入るの? 教えて! 私も欲しいの!」
「あ、あれは……おれが作ったので……」
「まぁ、なんてこと! あなた天才なの⁈」
気圧されて言葉がでないおれの代わりに、マーサがやんわりと笑って彼女をいさめてくれた。しかし、自分が作ったものをそこまで褒められれば、悪い気はしない。おれはむずむずする胸を抑えながら、「また今度持ってきますね」といった。
喜んでもらえたことが嬉しくて、おれは家に着くなり石臼の前に腰掛けた。気合いが入ったせいか、その日はたくさん作りすぎてしまった。
そして後日。布の袋に詰めた粉を届けると、彼女たちは思いのほか真面目な顔で言った。
「それで、お代はおいくらなの?」
「お金なんていらないですよ」
その言葉を聞いた途端、二人の表情が一変する。
「それはダメよ!」
「そうよ、こういうことはきちんとしないと。あなただって、材料を買ったりしているんだから」
「いえ、貝殻は拾ったものだし、薬草も山にいって自分で採っているので……」
お金なんてかかってないんです、といいかけた言葉を遮るように、二人が驚愕の声をあげた。
「あなた、薬草採りの仕事をしてるの⁈」
「まぁなんて危険な仕事を……!」
そう言って、二人は顔を見合わせ、おれの手に十分すぎるほどの銀貨を握らせてきた。
「あなたの作った物は素晴らしいわ。そして、あなたのお仕事も。だから、絶対に安売りなんてしちゃだめ。ましてや、無料だなんて」
「いい物には、きちんとした対価が必要なの。胸を張って、受け取ってちょうだい」
二人の迫力に、思わずおれは頷いていた。
その後……彼女たちの話をきいたお隣さんや、近所の人々からも買いたいと依頼されるようになった。マーサたちを窓口に、おれの手元の銀貨は増える一方だった。なんとなく申し訳ない気がして、個人的に作っていた虫除けや塗り薬を『お礼に』と持って行ったが、彼女たちは決して無料では受け取ろうとしなかった。
頼まれた品を届けるため、たびたび街に足を運ぶようになると、マーサやベラナ、そして時々隣の家の奥さんも交えたお茶会に、いつしかおれも加わるようになっていた。
お隣の旦那さんは船乗りで、留守にしていることが多いらしい。『昨日は久々にお土産をたくさん抱えて帰ってきたの』、と嬉しそうに話してくれた。
その隣で、三歳になるお子さんがおれの膝に遠慮なくよじ登り、楽しそうに話しかけてきた。おれが大陸語をわからないと知ると、熱心に教えようとさえしてくる。多分、母親からいつもそうやって教わっているのだろう。澄ました顔で、舌足らずに言葉を繰り返す様子は、見ていて愛らしかった。正直、子供はちょっと苦手だったけれど、こうして懐かれると……やっぱり、可愛いと思ってしまう。
「I’rel an mela.」
「イレル……アン、メア?」
首を傾げると、小さな指がテーブルのりんごを指差した。
「mela! mela!」
「melaは、りんご。『りんごが好き』なんですって」
ベラナがにこにこしながら、りんごの乗った皿を引き寄せてくれた。
甘いお茶をごちそうになり、話し相手になってもらい、収入を増やす手伝いまでしてもらった。
何か彼女たちにお礼がしたいのに……、と煩悶しているおれに、マーサが一つの提案をした。
「じゃあ、ハルキちゃん。今度の語り部のお祭り、一緒に舞台を見に行きましょうよ」
「いいわね! じゃあ、観覧料を奢ってもらおうかしら?」
「わ……わかりました!」
恩返しのチャンスをもらえたのが嬉しくて、おれは力強くうなずいた。舞台を観るなんて初めてだった。自分には縁のないものだと思っていたけど……彼女たちと一緒なら、少しだけ自分もそこにいていいような気がした。
そしてお祭りの当日。
張り切って支払いに立ったおれは、観覧料が干し魚一本分程度と知って、盛大に拍子抜けすることになった。
(そっか、教会主催だから安いのか……)
入口の混雑のせいで、うっかり二人の姿を見失ってしまったおれは、必死であたりを見回した。
「ハルキちゃん、こっち、こっちよ!」
雑踏の中、おれを呼ぶ声に振り返る。恰幅のいい中年女性が手を振っていた。人の波をすり抜けながら近づく。中年女性のそばには、上品な身なりの細身の老女が腰掛けていた。石の座席がずらりと階段状に並べられたここは、街で一番大きな演芸場だ。
「よかったわぁ、すぐに見つかって。はぐれたときはどうしようかと思った!」
中年女性……ベラナは、確保してあった席をあけて、おれに座るように促した。
「ここまで来るの、大変だったでしょ」
老女──マーサは、労るようにそう言うと、膝に抱えたバスケットから焼き菓子を取り出して、おれに差し出した。
「ありがとうございます。それにしても、……すごい人ですね」
海辺に作られた演芸場は、老若男女、様々な人であふれかえっていた。
「そりゃあ当然よ。なんたって今夜の舞台は特別だから。誰だって見に来るわよ」
ベラナは興奮を抑えきれないといった様子で、まだ誰もいない空の舞台を見つめながら、言った。
十一の月、カニス。年間を通して温暖な気候のこの島も、冬には日没が早くなる。もっとも夜が長くなるこの月、島では灯火と語り部の催しが頻繁に行われる。
海を背にした野外舞台の周りには、たくさんの松明が据えられていた。ステージを取り囲むように作られた観客席は、すでに人でいっぱいだった。舞台袖は白い大きな幕で覆われており、時折、演者らしき人が入っていくのが見えた。
たくさんの人々が、開演を今か今かと待ち望んでいる。熱っぽい空気に、胸が高鳴るのを感じた。
いつもこんなに人でいっぱいなのかとマーサに聞いてみると、今日は特別だという。
「みんな、彼を見に来てるのよ」
陽が落ち、潮騒と虫の音が混じり合う。司祭が舞台に上がり、祈りの言葉を述べると、演奏家が曲を奏で始めた。
幕開けとともに登場したのは、小さな子供達だ。白と青の衣装を着た彼らは、島の伝説を元にした物語を懸命に演じる。台詞は少しぎこちなく、動きもたどたどしい。けれど、そのひたむきさと緊張に震える声は、観客の頬を緩ませ、ときに目頭を熱くさせた。
やがて中盤……。村に災厄が訪れる場面。灯台が壊れ、島の光が消えた夜、「祈りの歌を届ける詩人」が舞台に現れる。
登場したのは、シノだった。
真っ白な衣をまとい、煌めく飾り一つない姿。それなのに、ただ立っているだけで息を飲むように美しく、見る者の目を惹きつけた。彼は観客を見ず、遠く海の方を見やった。やがて静かに口を開く。
──この島が 君の灯火であるように このうたが 君の夜明けであるように……
声が空気を震わせた。決して大きくないはずの声が、見る者の心にまっすぐに届き、響き渡る。
──遥けき風を その身に孕み 秘めたる潮の 名を帯びし者よ……
彼の周りに子供達が建ち並び、口をそろえて合唱を添える。
小さな声が、シノの澄んだ歌声に重なると、その響きはまるで祈りの波のように、観客席の奥まで届いた。
息をすることも忘れて見入っていると、ふと、シノの顔が観客席に向けられた。その目が大きく見開かれる。目が合ったような気がした。でも、こんなにもたくさんの人に囲まれているのだ。しかも観客席に明かりは灯されていない。きっと気のせい…そう思い込もうとした、次の瞬間。
シノは蕩けるように……嬉しそうな微笑みを浮かべた。
──願いも、ことわりも越えて この世に生まれ落ちた ただひとつの光よ
このまなざしと この祈りと この命と 今こそ 君へと捧げよう……
一層艶やかな声が歌い上げると、声にならない嘆息があたりを満たした。拍手が沸き起こる。
舞台の両端に立っていた子供達が、最後の台詞を放つ。その声に、シノの歌に心を奪われていた観客たちははっとして子供達をみた。詩人の祈りに奮起した村人を、懸命に演じる子供達の姿に、驚きと感動が波のように広がっていく。舞台の照明が静かに落ちる頃には、シノ目当てできた者たちの表情も、すっかり変わっていた。
呆けたように座っていると、肩を軽く叩かれた。
「素敵だったわねぇ……」
「いつもの劇もいいけど、やっぱりこっちのほうが私は好きだわ」
本来、教会ではカルス神の討伐譚を多く上演はずだった。しかしシノが舞台に立つと、観客は皆、彼の演じる島の物語を……アズラオス讃歌を望む。司祭もそれを制することはできないらしい。なぜなら、その夜の献金は倍に膨れあがるから。
「シノちゃん、自分自身はあんまり舞台に上がりたがらないそうなのよ。でも、この歌だけなら……って、引き受けたらしいわ」
「意味深だものねぇ……誰のことを想っているのかしらーって、深読みしたくなっちゃう。ね、ハルキちゃん?」
「……え?……ええ……そうですね」
まるで魂が抜かれたように、ぽーっとしたまま答える。二人は、やれやれ……と言いたげに肩をすくめた。
「こんなにあからさまなのに……」
と。不意に、背後から誰かに肩を叩かれた。振り返ると、深々とローブをかぶった男が立っていた。緊張するおれの耳に、よく馴染んだ声が聞こえた。
「見に来てくれたの? ……ハルキ」
「し、シノ? こんなところにきて、大丈夫なのか、お前」
興奮状態の観客席に現れるなんてっ……とキョロキョロ周囲を見回すおれに、シノは顔を隠したまま言った。
「……びっくりして、歌詞を間違えそうになった」
「ああ、やっぱり目が合ってたんだ。気のせいかと思った」
「わかるよ。ハルキが居るところくらい、すぐに」
声を潜めたまま、ふふ……と笑う。
「でも、知らなかった。マーサさんたちと知り合いだったなんて」
「えっと……」
なんと説明すればいいのか迷うおれの横で、マーサが穏やかに笑って言った。
「私たち、お茶のみ友達なの」
隣でベラナがコクコクと頷いている。その顔は、まるでトマトのように真っ赤だった。
なるほど……と呟いたシノが、恭しく頭を下げる
「ハルキが、いつもお世話になっています」
「とんでもない。お世話になっているのは、こっちのほうよ」
顔を見合わせてうふふ、と笑う。そんな二人が、むずがゆくて口を開こうとした、そのときだった。
「シノ」
どこかで聞いたことのある声に振り返った。思わず目を疑ったが、間違いない。
そこには約五年ぶりに見る、シノの母親が立っていた。




