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十一、 祭りの夜に


  



「今夜は……カンナ・マスカだな」

 夕暮れ時、水場から戻ってきたシノが、濡れた髪先から水滴を落としながら、そう言った。

「うん……そうだね」

 おれは調理場のかごを覗きながら答えた。今夜は何を食べようか、そんなことばかりを考えていた。

「今年は行くの?」

 じゃあ夕食は一人分でいいか、などと考えていると、シノの視線がこちらに向けられていることに気づいた。

「行ってみないか? 一緒に」

「…え……?」

 思わず顔を上げたおれに、シノは静かに続ける。

「カンナ・マスカの参加者は全員、仮面をつけるだろ。だから、俺もハルキも、人目を気にしなくていいし。……どうかな?」

 その声はどこまでも穏やかで。けれどどこか、請うように揺れていた。



 『カンナ・マスカ』。九の月、リオス最大の夜祭だ。

 人魚が人に恋をしたという伝承にならい誰もが仮面をつけ、自分ではない「誰か」になって街を歩く。言葉は禁じられている。代わりに、鈴や笛、身振り手振りで意思を伝える。

 海に生きる者と、陸に暮らす者。階級も、素性も、性別も。あらゆる「違い」を超えて、想いを伝え合う。たった一夜限りの祭り。

 仮面の下に、どんな顔があるかは誰にもわからない。だからこそ──その場でしか伝えられない真実があるという。


 人混みに行くなんて…不安だ。けれど……。胸の奥で、小さく脈打つものがあった。

(……本当に、おれが行ってもいいかな)

 怖い。でも、ほんの少し──『誰か』になれる夜に、自分も飛び込んでみたくなった。


「……でも仮面なんて、持ってないよ」

 おれがそう言うと、シノは口元を緩めて、まるで待ってましたと言わんばかりに頷いた。

「用意してある」



 石畳の大通りは、人で溢れていた。皆、思い思いの仮面をつけている。動物の顔だったり、大きな羽飾りがついていたり。

 たくさんの人が往来を行き交っているのに、誰も言葉を発していない。その代わりに、あちこちで鈴の音や草笛の音がする。声のないざわざわとした音は、かつて聞いたことのない独特の響きがあった。

 白く塗られた仮面で顔の上半分を覆ったおれは、初めて見る祭りの光景に目を奪われた。きょろきょろしながら歩いていると、何度も人にぶつかりそうになった。シノの手がおれの手を握る。見上げると、目の部分だけ穴の空いた、顔全体を覆う仮面をつけたシノがこちらを見ていた。赤地に金色の刺繍が入ったローブが、闇に溶け込んでいる。温かい手に包まれたまま、手を引かれ街を歩いた。


 長い石段を下り、通りを進む。大きな建物に囲まれた通路は入り組んでいて、すぐにどっちの方向から来たのか、わからなくなった。シノとはぐれてしまったら、きっと一人じゃ帰れない。そう思うと、握る手にさらに力が入った。

 何度となく角を曲がると、大きな建物が目の前にそびえたっていた。その中央には、大きな穴が空いていて、通路はそこを通り抜けていた。アーチ状の穴は、大小さまざまな大きさの石を積み上げてできているようだった。

 人がこんな大きな建物を作れるのか…と、その迫力に息を呑む。口を開けて上を見上げるおれを見て、隣にいるシノが微笑む気配がした。

 アーチの先は広場だった。左手に、先ほどの門よりさらに立派な建物があった。たくさんの灯りが灯されたその場所が、シノが通っている教会なのだと、自然とわかった。真っ暗な中、そびえ立つ鐘楼。この鐘が毎日、町中に時を知らせてくれている。

 教会の前では数人が固まり、音楽を奏でていた。小さな舞台上で、青い布を翻す華奢な踊り子を囲む人々。広場の一角では、陽気な調べに集まった人々が、抱き合ったり、飛び跳ねたり、体を揺らしたりと、好き勝手に踊っていた。

 屋台などもあって、あたりは熱気に包まれている。普段、人との交流がほとんどないおれは、あっという間に人酔いしそうになった。

少し静かなところへ行きたくて、隣の男を見上げる。シノは横を向いていた。視線を追って、同じ方向を見る。


 そこには、花飾りの仮面をつけた、若い女性の集団がいた。布の面積が少ない衣装に、キラキラと輝く薄衣をまとっている。見えそうで見えない際どくも神秘的な姿は、周りにいる男たちの視線を釘付けにしていた。


(……ま、そうだよね。すっごく魅力的だもん。つい見ちゃうよね)


 そう思いつつも、なんとなくモヤモヤするものを感じた。知らず、足取りが重くなる。おれの様子に気づいたシノが、顔を覗き込んでくる。おれは顔を背けて、視線を避けた。

 シノに手を引かれ、広場の隅に向かう。近くには木で出来たベンチがいくつも置かれていた。けれど、どこも人でいっぱいだった。座れそうな石がある場所まで行くと、シノがトントンと肩を叩いた。屋台を指差し、そしてこの場所を指差す。


「何か買ってくるから、ここで待ってて」


 と、言いたいらしい。そう察して、おれは頷いた。

 人の流れの中に埋もれていくシノの背中を、ぼうっと眺めた。

 立派な石造りの教会にはたくさんの蝋燭が灯され、堂々としたその姿を闇の中に浮かび上がらせている。

ふと、その教会の傍ら……広場の壁が、一部だけ輝いていることに気づいた。蝋燭と月の光を色とりどりに反射し、キラキラしている……。

(なんだろう……あれ)

 気になって、近くに行ってみることにした。



 それは──壁いっぱいに描かれた絵だった。

輝いて見えたのは、細かく砕かれた石や、貝殻が光を反射しているからだった。たくさんの細かい色が集まって、巨大な絵を形作っている。

 壁画には、微笑む何人かの人物が描かれていた。羽が生えていたり、体がとても小さかったり、体が虹色に輝いていたり……。おれと同じ、異種と人との間に生まれた子どもの絵だとわかった。

(どうして……こんな街の真ん中に、こんな絵が……?)

 戸惑い、思わず首に巻いた布を手で押さえていた。けれど、絵からは怖さや忌まわしさは微塵も感じられない。むしろ、描かれた人々の表情は清らかで優しく、神々しくすらあった。壁画から溢れ出る迫力に圧倒され、しばし見上げ続けた。

 絵の前で立ち止まっているのは、自分だけじゃなかった。同じように何かを感じるのか、仮面をつけた数人が、この絵の前で跪いたり、祈ったりしている。

(すごい…よくわからないけど、すごく……惹かれる)

 壁画の中の人物の目が、喜びに満たされ、誇らしげに輝いているからかもしれない。特に、中央に描かれている人物の顔は、どこかでみたことがあるような気がして……。不思議と、ちょっと親近感を覚えた。


 じっくりと絵を見たあと、元の場所に戻ろうと踵を返した。

いきなり、その肩を掴まれた。見れば、大柄な男が正面に立っている。怯むおれに向かって、何かの手振りをしてきた。鼻をつく、お酒の匂い……。

 おれに向かってしきりと両手を動かしているが、全く意味がわからない。思わず聞き返そうとして、おれは慌てて口を塞いだ。

(いけない。喋っちゃいけないんだった)

 焦っているおれの目の前に、男が親指を一本立てて見せてきた。思わず指し示す方向に目をやったが、……何もない。

(???)

 口を塞いだまま、親指を見つめていると、男はさらに人差し指と中指を立てた。全部で三本。

(どういう意味だ……?)

 首を傾げ、男の顔を見る。こちらも手振りで「わからない」と伝えようとした。だが、手を下ろしたとたん、男の口元がニヤッと笑った。

(なんだ?)

 ぬっと伸びた手に手首を掴まれる。驚く間も無く、男はおれをぐいぐいと引っ張って歩き出した。

(な……なんだ? どこへ行くつもりだ⁈)

 慌てて足を踏ん張ろうとするが、男の力は強く、引きずられてしまう。酒臭い男は、人の少ない暗い方向へと向かっているようだった。

(やめろ……やめろ、離せってばッ)

 捕まれた手首から伝わる熱が、気持ち悪い。恐怖と嫌悪で頭が真っ白になる。

(嫌だ……!)


 ガシッと反対側の手を掴まれ、振り返るとシノが立っていた。肩で息をし、その仮面は大きくずれている。慌てて駆けつけてくれたことがわかった。


(シノ! 良かった……!)


 シノはおれを背に庇い、男に向かって自身の胸を拳でドンドンと叩いてみせた。しばらく何かをやり取りしている様子だったが、やがて酒臭い男は面倒臭そうに手を振って、去っていった。

 おれの腕を掴むシノの手から、ようやく力が抜けた。

(今の、なんだったの?)

 目で問いかけるおれに、シノは険しい顔のまま軽く首を振った。人混みを避けるように肩を抱かれ、広場の隅へと移動した。



【なに、いまの人】

 棒切れを拾って、砂の地面にそう書いたおれを、無表情の仮面がじっと見返してきた。そして棒切れを受け取って、隣に書き加える。

【大陸から来た船乗り、だと思う】

 さらに詳しく知りたくて、棒を受け取るが……もどかしくなって、シノの体を引き寄せた。マントで口元を隠し、周囲に聞こえないように耳元で小さく囁いた。

「おれに、三本指立てて何か伝えようとしてきたんだ。意味、わかる?」

 おれの吐息がくすぐったかったのか、シノの肩がぴくっと震えた。そして、はぁー…っと長いため息をついた。

「……あいつは、君に交渉してたんだ」

「交渉?」

「……三シルで、どうかって」

「どうかって、……なにを?」

 シノは一瞬だけ唇を動かしかけたが、呑み込むように首を振った。

「……いや。カンナ・マスカは全員が仮面をつけるから、危ない奴も紛れ込んでいるってことだよ。暗闇に連れ込まれたら、どうなるかわからないぞ」

「おれ、今日はお金持ってきてないし。取られるものなんてないよ、大丈夫」

「……取られるのが金なら、マシなんだよ……」

 疲れた様子で呟いたシノに、少し申し訳なくなった。

「ごめん。あの場所で待っててって言われたのに……勝手に移動して……」

「いや。こんなところに、ハルキを一人残した俺が悪い」

 ヒソヒソと顔を寄せ合って囁く。少しだけ胸がドキドキした。


「広場の壁に綺麗な絵が見えたから……、近くで見てみたかったんだ」

 おれの言葉に、シノは驚いたようだった。

「あの絵か? どうだった?」

「どうって……。すごく綺麗だったよ。描かれてる人の表情がすごく優しくて、温かい気持ちになった。絵の前で祈ってる人がいたけど、そうしたくなる気持ちが、わかるような気がした」

 おれがそう言うと、シノの顔が喜色に染まった。次の瞬間、両手でぎゅっと抱きしめられた。

「よかった……」

「シノ……?」

「本当は……、あの絵をハルキに見せたくて、今夜の祭りに誘ったんだ」

「あの絵を? どうして?」

「綺麗だったろ? まだ完成したばかりなんだぜ、あの絵。あれをみれば誰だって……、異種と人間の間に生まれた子供たちが、どれだけ美しいか……言葉で説明されるより、よっぽどわかりやすいだろ?」

 なんて答えたらいいのかわからなくて、シノの顔を見つめた。仮面の奥の瞳が柔らかい光を浮かべていた。

「ハルキに綺麗って言ってもらえて、よかった。実はおれも、制作に少しだけ関わったんだ」

 そう言うシノの声は、少しだけ震えていた。でも、どうしてそんなに嬉しそうなのか、その時のおれには、わからなかった。


「おれの目的は済んだけど。……ハルキはどこか行きたいところは、ある?」

 少し照れたような口調で囁き、シノが体を離す。その途端、二人の間を風が通り抜けた。ひんやりとしたその感覚を、少しだけ寂しいと感じてしまった。

 おれは少し考えてから、再び棒切れを地面に突き立てた。

『シノの店に、行ってみたい』

 そう書くと、仮面の奥の目が丸くなった。



 シノが働いている店は、広場から石段を下った、港の近くにあった。白い壁に青い屋根のおしゃれな建物の前に立つ。陽気な音楽がここまで聞こえてきた。

 店の正面入り口は頑丈な扉で閉じられ、大きな閂がかけられている。建物の裏側に回ると、小さな扉があった。シノは懐から鍵を取り出すと、扉の穴に差し込んだ。

 ランタンの灯りを油皿にうつすと、少しだけ辺りが明るくなった。店内の様子を見渡す。二人で住んでいる家より少し狭い空間に、腰ほどの高さの棚が据えられている。

「シノは、いつもここで働いてるんだね」

 誰もいないので、声に出してそう言った。


 大きな宝石の嵌め込まれたアクセサリー。真っ青なインクで、複雑な模様が描かれた白い大皿。奥には華奢なドレスなどが並んで掛けられている。初めて見るような、珍しいものばかりだ。

「なんだか、高そうなものばっかりだね」

 仮面を脱ぎ捨てたシノが黙って微笑んだ。


(あれ、……なんだろう?)


 油皿の微かな光を反射して、キラキラとひときわ輝く布が、目が留まった。向こう側が透けるほど薄い。手に取ってみると、蜘蛛の巣のような細い糸で織られていることがわかった。一体、どうやって編んだんだろう…と不思議に思っていると、

「綺麗だろ、その生地。『銀鱗布』っていうんだ」

「ぎんりんふ……?」

「そう。特別な伝手つてで仕入れてるから、この店でしか買えないんだ」

 背後からシノが説明してくれる。なんだか、口調が少し誇らしげだった。

「『奇跡の子』にまつわる縁起物で、身につけると幸福が訪れるって言われてるんだ。今じゃ、花嫁のベールの定番にもなってる」

 言いながら、その布を手に取ってそっと広げて見せた。同じ大きさの模様が規則正しく並んでいる。キラキラと虹色に光る糸が編み出す模様が、まるでさざなみのようにも、(うろこ)のようにも見えた。


「さっきも、広場で身につけてる若い子たちがいてさ。なんだか嬉しかったなぁ」


 白い歯をこぼして笑うシノに、おれの心もフワッと軽くなった。

──ああ、なんだ。さっき女の子達をみていたわけじゃなかったのか。……よかった。


(……ん? よかった?)

 そう思ってしまった自分に首を傾げる。しかし、それについて深く考える間もなく、目の前を何かが覆った。視線をあげると、あの薄い布が頭にかけられていた。

「……なんだよ」

「……なんとなく…?」

 言いながら、シノは額と額をぶつけてきた。二人とも話すのをやめると、遠くに陽気な音楽が聞こえた。沈黙したまま、シノの両手が首に回される。ゆっくりと音楽に合わせて、シノが体を揺らし始めた。まるで、踊りに誘うみたいに。

「ま、待って……おれ、踊ったことないから……っ」

 動揺するおれに、薄布の向こう側で、シノが微笑んだ。 

「俺も。……でも、いつかハルキと一緒に、祭りで踊れたらいいのにって、ずっと思ってた。だから、今……信じられない気分だ」

 そう言われてしまうと、嫌だとも言えなくなる。仕方なく、シノの動きに合わせた。

 抱き合ったまま、波に揺れるようにゆらゆらと体を揺らした。いつしか音楽が途絶えていたことにも気付かず、寄り添い続けた。

 トクトクと心臓が強く脈打っている。心の中にある動揺も興奮も、シノにすべて伝わってしまいそうで……、それが少し、怖かった。






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