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十、 沈黙





 おれたちの関係は、表向きには以前と変わらなかった。

ただ──満月の前後、欲求に飲まれてしまうおれのために、体を繋ぐ夜があるというだけ……。言葉すら必要最低限しか交わさない、義務的で素っ気ない変化。


 満月が近づくと、夕食の席に果実酒が置かれる。シノは酒を好まない。けれど、その日だけは小さな杯に自ら注ぎ、少しだけ口をつける。そして食卓に置かれたその杯に、おれが手を伸ばせば……、その夜、彼が寝室を訪れる。

 いつしか、それは二人だけの無言の取り決めになっていた。

 行為の最中、シノは決して強引ではなかった。おれの表情や息づかいを細やかに探りながら、粛々と進めていく。まるで、何かの儀式のように。

 おれの熱さえ鎮まれば、自分のことなどどうでもいい、と言わんばかりに。


 おれが恐れていたような、糧の代わりに体を差し出すといった関係にはならなかった。むしろ、身を差し出しているのはシノの方のようにすら見えた。

 熱を宿した瞳で見つめながらも、最後まで穏やかに。終われば布を湿らせて、おれの体を静かに清めてくれた。

……そして気付いたときには、もう傍らに彼の姿はなかった。



  ◇




 冬のお祭りで、シノが文字を教えている子供たちが劇をするらしい。

 その話を聞いたときは、まさか自分にも影響があることだなんて、思ってもみなかった。

 普段の仕事に加え、教会の奉仕活動や劇の稽古、打ち合わせなど……詳しくはわからないが、最近のシノは忙しさに追われている。無理をして体を壊さないか心配になるくらいに。

 何か出来ることがあるなら、手伝いたい。そう思う一方で……どうにもならない欲望がある。理性の通じない、わがままな性欲だ。

 シノに余計な負担をかけたくなくて、おれはひと月の間、彼を誘わなかった。

我慢できると思っていた。──そのときは。

 けれど、解放されない熱は満月が過ぎても体に残り、次の満月が近づいた頃には、とうとう理性が崩れ落ちた。


 帰ってきた音がしたとたん、寝台から飛び降りた。暗い家の中を駆け抜け、入り口に立つ男が目を見張るのを見て、その胸にしがみついた。

「……助けて……」

 恥ずかしさと疼きに頬を染めながら、男の服の胸元をぎゅっと握りしめた。

「……俺の部屋で待ってて。すぐに行くから」

 そう言われて従ったものの、じっとしていられなかった。部屋をうろつき、目についたものを手に取っては戻す。

 その時ふと、壁に据えられた棚に、玻璃の器があるのを見つけた。この島に移住してきたばかりの頃、二つ揃いで買った器だ。いつのまにか、一つ見当たらなくなっていたから、割れたものとばかり思っていた。

 器の中には、乾いた花びらが入っていた。色あせて縮んだそれをよく見れば、高山だけに咲く花のものだと気付いた。

 島では花真珠という名で呼ばれていて、初夏に白くて綺麗な実をつける。花は一日で散ってしまうため、麓で見かけることは滅多にない。

 なんでこんなものを……と思った時、一つの記憶が蘇った。

(あのときの……?)


 春先、山からの帰り道、満開の花をつけた枝をうっかり折ってしまったことがあった。可哀想なことをした…そう思ったおれは、その枝を持ち帰った。

「やるよ」

 そう言って差し出したおれを、シノは驚いた顔で見つめた。

「あ……ありがと……」

 花を受け取ったシノは、少し声を詰まらせて……はにかむような微笑みを浮かべていた。


(あの時の花なのか……? どうして?)

 どうしてとってあるんだ? もうすっかり乾いて、変色して、ちっとも綺麗じゃないのに。

 まるで大切なものみたいに、綺麗な器に入れて仕舞っておくなんて……。


 花びらを元の場所に戻すと、寝台に腰を下ろす。さっきまで体の中で暴れ回っていた熱が、なぜか少し落ち着いているような気がした。

 ほどなくして、シノが部屋に戻ってきた。急いで体を洗ってきたのか、まだ襟足が濡れている。シノは無言のままおれの腰紐を解き、寝台に横たえようとした。

おれは手でその胸を押し返した。

「シノも……脱いで」

 おれの言葉に、一瞬、迷うような顔をみせたが、やがて決意したように自らの服を脱ぎ捨てた。



「…ハルキっ…?」

 暗闇の中、シノがひっくり返ったような声をあげて、飛びのく。おれは構わず、追いかけるように手を伸ばした。

「そ、んなこと、しなくていいからっ」

「どうして?」

 おれだって……そう言おうとした瞬間、シノの手で遮られた。

「ハルキは今、普通の状態じゃないだろ? 満月のせいで苦しんでる。俺はハルキを楽にしてあげたい。ただそれだけだよ」


(……まただ)

 また、まるで自分のことはどうでもいい、と言わんばかりの態度。淡々としたシノを見るたび、なぜか胸のあたりが締め付けられるように痛んだ。

 おれはただ目をつぶって寝転んでいればいい。なぜかそれが、今夜はすごく……寂しく感じた。





 火を落とし、真っ暗になった室内。差し込む月明かりに、向こうをむいて横たわる男のシルエットが浮かび上がっている。

 熱を吐き出し、汗がひいた後も……おれは部屋に戻らなかった。シノも出て行けとは言わず、同じ寝台で横になっていた。

 一つの寝床で眠るのは、初めてのことではない。でも、今日は少しも眠気が来なかった。シノも同じ気持ちなのだろうか。眠っていない気配があった。

「シノ」

「……なに?」

 少し、間があった。まるで、おれの問いかけを予感しているみたいに。


──おれのこと、どう思ってるの?


「……なんでもない」

 聞きたいけど、聞けない。


 シノはきっと、おれにそれなりの好意を抱いている……はずだ。でなきゃこんなに親切にしてくれないだろう。

 それが友情からなのか、過去の罪悪感や責任感からなのかは……わからないけれど。


(おれのこと、どう思ってる?)

 聞きたい。…でも聞けない。

 もし好きだと思ってくれているなら、そう言って欲しい。その言葉が欲しい。

(だって……おれはまだ、誰からも言われたことがないから)

 態度を見ればわかることでも。

(おれは言葉にして欲しいんだ……)

 本当の望みを自覚して、おれは唇を噛み締めた。





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