九、 恐れ
「聞いても、いいですか?」
「どうぞ」
「旦那さんのこと……今でも恨んでいますか?」
おれは彼女の幸せな人生に不要となった男が、今どうしているのかと少し気になった。
「いいえ。あの人、私と別れた後、あっさり死んじゃったの。港の荷物の積み下ろし中の事故でね」
「えっ……」
「私がいつまでも恨んでいたら、海の底で休めやしないでしょ?」
軽く言って、微笑んだ。
彼女の話を聞いて初めて、『シノは結婚したほうが幸せだ』という考えが、どれほど押しつけがましいものだったかに気づいた。けれど……。
「でも、おれは……怖いんです。今の関係が壊れるのが。おれには何もできなくて、いつもあいつに頼ってばかりで。あいつのことを幸せにしてやれる自信がない……」
「彼が何を幸せだと思うかは、彼だけが決めること。あなたの義務じゃないわ」
「でも……もし。この先、おれを選んだことをあいつが後悔したら……?」
そうだ。
おれはシノの幸せだなんだと、御託を並べていたけれど。
結局、おれが本当にシノと向き合うのが怖い理由は、これだ。
「『やっぱり普通に結婚して、普通に家庭を作っていれば良かった』……なんて言われたら、……おれは……」
それが、何よりも怖い。
「それはあなたが悩むことじゃないわ」
「でも……っ」
「それに、あなたはシノちゃんがそんな人じゃないってこと、もうわかっているんでしょ?」
彼女の口から突然、飛び出してきた名前に、おれは息を詰まらせた。
「…な……何で…っ⁈ …シノのこと……?」
おれがよほど情けない声を出していたからか、おばあさんは『しまった』と言いたげに、ぺろりと舌をだした。
「あらら、ごめんなさいね。余計なこと言っちゃって。さっき、あなたがレピシアだって聞いてからずっと、もしかして……って思ってたの」
「シノと……仲がいいんですか?」
「仲いいってほどじゃないけど。私もよく教会に行くのよ。そのとき、会うと必ず声をかけてくれるわ。空いている席を教えてくれたりね」
おばあさんは続けた。
「あなたからは、シノちゃんと似た匂いがしたの。私、他の人より鼻が効くから。家の匂いとか、食べてるものの香りとか。家族って、匂いが似てくるものなのよ」
「……家族………?」
その単語に、喉が鳴った。
「それにね。シノちゃんがなんであんなに教会で熱心に活動してるのか、妙に納得しちゃって」
その言葉に首を傾げる。シノが教会で読み書きを教えているのは知っていた。だが、それと自分に、なんの関係があるというのか。
「あら、知らなかった? 子供や字を知らない人に文字を教える時ね、シノちゃんが特に力を入れている題材があるのよ」
「……題材?」
「『異種と人間との奇跡』。つまり、『愛』についての一説」
そう言って、おばあさんは誦じてくれた。
他者の異なる姿を嘲るとき、
汝の魂は少しづつ削れていく。
愛を拒むことは、神の業を拒むことなり。
心を閉ざし、耳を塞ぎ、
己を正しき者とせんとするとき、
神は静かにその背を向けられる。
その低く静かな響きが、胸に深く染み入ってくるような気がした。
「……自分と違うだけの人を、恐れて迫害する人の姿が、どれほど醜く愚かしいか説いているの。堅苦しい話だけど……、ほら、彼ってすっごく素敵な声でしょ? シノちゃんが話すようになってから、教会に通う人がぐんと増えたらしいわ。おかげで、教会も彼に協力的みたい」
そう言って、彼女は笑った。
「去年の年末には、子供たちが『奇跡の子』を題材にした劇を上演したの。その準備にもシノちゃんが関わっていたそうよ。劇で歌われた歌がとっても素晴らしくてね。観た人なら誰でも、彼が誰かに心を寄せてるんだって感じたはずよ」
「心を……」
心の奥で、ざわりと何かが揺れた。
(あいつ……おれの知らないところで、そんなことを……)
「彼の活動を通して、知らないから、自分とは違うから…って理由で、拒否したり虐たりすることが愚かだって意識が、この島の人たちの中に確かに息づいている。……私はそう思う」
「…………」
「こんなこと、私の口から言っても良いのか分からないけど……。あなたは『彼は何も言わない』って言ってたけど。これが、彼なりの愛情表現なんじゃないかしら?」
彼女は、にこっと笑った。
「あら、雨が上がったみたいね」
そう言って、壁に掛けてあったランタンを取った。
「昔、私が使ってたものだけど、壊れてないかしら?……大丈夫そうね、良かった。帰り道、これを貸してあげるから、持っていって」
「いえ、そんな……」
「いいのよ。どうせ私は使わないから。それに、このランタンを返すって口実で、また来てちょうだい。私とおしゃべりしましょう」
うふふ、と彼女は楽しそうに笑った。
「私は今のままでも十分幸せだけど、楽しいことが増えるのは、いつでも大歓迎なの」
長い石段を登り切った先にある、高い塀に囲まれた家。鍵を開けて中にはいると、まだ灯りがついてなかった。
シノはまだ、戻ってきていないようだ。
何を話そう……と意気込んでいた分、肩透かしを食らった気分だった。まだ、教会だろうか?
薬草を保存庫にしまうと、自分の部屋に向かうため長椅子のそばを通り抜けた時、台の上の黒板に気がついた。ランタンの明かりを近づける。読み終わる前に、体は外へと走り出していた。
床に落ちた黒板には、白墨でシノの字が残されていた。
「山の入り口まで見てくる。
入れ違いになったら、家で待ってて。すぐ戻る」
***
暗闇の中、地面がぼうっと青白く光っている。光茸が一斉に胞子を飛ばしているのだ。
幻想的な風景の中、地面の一部で線を引いたように光がかき消されている。何かが通った跡だ。見つけた瞬間、顔から血の気が引くのを感じた。
光茸には貴重な薬効がある。だが、その胞子の採取は困難で、限られた者にしか成し得ないと言われていた。光に引き寄せられて昆虫が多くあつまり、それを食べるために小型の動物が集まり、……さらに、その小動物を餌とする、肉食の異種の縄張りである危険性が高かったから。
「シノ──!」
満遍なく光る地面に、まるで何かを追いかけた後のように、複数の黒い筋が森の奥へと続いている。痕跡をたどって、走った。
沢を越え、石だらけの斜面を登る。いくらも行かないうち、巨大な木の根元に行き着いた。樹齢がどれくらいか予想がつかないほど立派な木の根元には、大きな洞があいていた。肩で息をしながら、おれは巨木に駆け寄った。
「……シノ……ッ」
シノは、そこに居た。意識がないのか、ぐったりと横たわっている。時折、苦しげに顔を歪め、手を動かすのが見えた。
(生きてる……!)
ほっと息を吐く。直後、彼の体に細長い何かが絡みついていることに気付いた。淡い光茸の輝きを頼りに、目をこらす。
それは蛇だった。大人の腕ほどの太さの蛇が、何匹も絡み合い、シノの体を締め付けている。それだけではない。洞の中は大小の蛇でいっぱいだった。無数の蛇が、まるで球のように絡み合っている。おぞましさに、普段ならば逃げ出したくなるような光景だった。
だが、いま頭の中にある感情はただ一つ。真っ白に燃え上がり、すべてを焼き払うほどの激しい怒りだった。
ひときわ大きな蛇が、シノの首筋に噛みついている。長い体でシノの胴体を締め上げ、彼に苦痛の呻きを上げさせていた。
「く……っぁ……」
シノの掠れた声に、大蛇の真っ赤な目が爛々と輝いた──気がした。
その瞬間、ふつふつと体の中が沸き上がるのを感じた。鱗のある部分が、燃えるように熱くなる。全身の血が煮えたぎるような熱を感じながら、洞の縁を強く握りしめた。
「おい」
呼びかける。ようやくこちらに気付いた蛇が、一斉に鎌首をもたげた。数百を超える蛇たちが威嚇してくる。『邪魔をするな』、と言わんばかりに。
おれは鼻で笑った。──途端、小さな蛇がびくりと身を縮める。
「おまえら……そこで何してる?」
おれが洞に一歩入った、刹那。枯葉の音を立て、蛇たちは散り散りに逃げ出した。地面を埋め尽くしていた大量の蛇が、あっという間にいなくなる。唯一、シノに噛みついていた大蛇だけが取り残されていた。なおもシノを離そうとせず、牙をむいてくる。
「それは、おれのだ」
怒りにまかせ、乱暴に手を伸ばす。おれの指先が触れる寸前、大蛇は素早く身を翻し、逃げ出した。
洞の中には、静寂と二人だけが取り残された。
(今の感覚は、何だ……?)
思い返す暇もなく、おれはシノのそばに膝をついた。青白い首筋には蛇の歯形が残され、傷口から黒々とした液体が伝い落ちていた。
(毒……!)
すぐに傷口に吸い付く。ぢゅっ…と力一杯吸い出し、口に溜まった血と毒を吐き捨てた。
「シノ……シノッ」
呼びかけに、シノのまぶたが震えた。長い睫が揺れて、黒曜石のような瞳が現れる。
「ハ……ルキ……」
「この……馬鹿っ。なんで夜の山になんて近づいたんだ……!」
そんな場合じゃないと頭ではわかっていたが、おれはシノを責めた。そうでもしなければ、泣いてしまいそうだった。
やっと、シノとの関係に一歩踏み出そうと勇気がわいたのに。このまま、彼を失ってしまうかもしれない……。そう思うと、怖くてたまらなかった。
「ハルキ……ごめん……」
シノは朦朧としている様子で、そう繰り返した。
「ハルキ…ごめん…本当に…ごめん……」
「もう、いいよ……。おれのこと、心配して探しに来てくれたんだろ? おれのほうこそ……」
「そうじゃない…そのことじゃなくて……」
シノはおれの言葉を遮った。そして、
「ハルキを無理やり抱いたこと……」
そう言った目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
「ひどいことをして──本当に、ごめん……」
うわごとのように、力無く囁く。
「聞いて……。この島に……エランテに来る前、俺がハルキに一緒に来て欲しいって頼んだあの日。あの夜な……」
シノの声は震えていた。
「俺、初めてお酒を飲んだんだ。父さんと母さんと一緒に。『大人になったお祝いだよ』って言われて。甘くて美味しかったから、飲みすぎた俺はすぐに酔っ払って寝落ちした。でも……夜中に目が覚めた。真っ暗な中で、誰かが……俺の体の上に、乗ってた」
衝撃的な告白に、喉の奥がきゅっと詰まる。声が出なかった。
「俺は、怖くて……感触で、相手が裸だってわかったから。俺はやめてって言った。そしたら……そいつ、『大人になったお祝いだよ』って言って、……俺の……ッ」
こらえきれず、息を飲む音が漏れた。
彼の口からもたらされる言葉が、鋭い刃のように胸を抉る。ただ聞いていることしかできない自分が、歯がゆかった。
「俺は……俺はっ、無理やり行為を強いられることが、どんなに嫌か、知ってた。それなのに……!」
「シノ……」
「俺だけは、絶対に、ハルキにあんなことしたら、だめだったのに……っ!」
シノはボロボロと涙を流していた。
「ごめん……ハルキ、本当に……」
涙に濡れた顔がすぐそばにある。嗚咽交じりの声が、洞の奥に吸い込まれていった。
「シノ……」
どうしていいのかわからず、ただ名前を呼んだ。
(そんな……。シノに、そんなことがあったなんて……)
シノはお酒を好まなかった。ものすごくモテるのに、熱視線を静かに受け流し、浮いた噂一つ聞かなかった。
──それが全部、過去の出来事につながっていたなんて。
嗚咽が途切れ、洞の中に静寂が落ちた。
「ハルキ……お願いがあるんだ…」
シノの声が空気を震わせた。
ふと、その顔に苦痛の色が滲んでいることに気がついた。額には汗が滲んでいる。
押し殺したような荒い息を吐きながら、シノが体をよじった。
「先に……家に帰っててくれないか……?」
「……何言ってるんだよ?」
耳を疑うようなセリフに、思わず声が裏返る。
「おれがいなくなったら、さっきの奴らがまた戻ってくるんだぞ?」
シノは唇を噛みしめ、目を閉じる。
「……それでも。その方がマシだ……」
「シノ……ッ⁈」
腕を掴もうとした手を、乱暴に払い落とされた。
「頼むからッ……俺に近づかないでくれっ!」
叫ぶ声が洞を震わせた。宙に手を浮かせたまま、呆然とシノを見つめる。
おれの目の前で、シノは自らの胸元をかきむしり、苦悶に顔を歪めた。
「おれから離れてくれ。……いますぐ……っ」
両手で顔を覆い、シノが喘ぐ。その首筋が、耳が、微かに色を変えていることに気がついた。
「シノ……具合が悪いのか? 顔色が変だ……」
のぞき込もうとした肩を、痛いほどの力で掴まれる。
シノの目は血走り、爛々と輝いていた。何かを必死でこらえるように歯を食いしばり、眉間に深いしわを寄せている。
「頼む……。俺に…俺を殺させないでくれ……」
「殺す……? なんだよ、それ……」
「これ以上、ハルキを傷つけたら……俺は、自分を許せない」
肩に指が食い込む。ブルブルと震える体が、シノが何かと戦っていることを表していた。顔色が悪い。目つきがおかしい……。
ふと、首筋の赤く腫れた傷跡が目に入った。
──あの異種は、シノを食べようとした。
そう思っていたけれど……。
(まさか)
もう一つの可能性が頭をよぎった。目の前の男が、異種すらも魅了してしまう体質だったことを、この時ようやく思い出した。
(意識を失わせる毒じゃない? これは、まさか……発情させるための──?)
気付いた瞬間、血の気が引いた。
だとしたら恐ろしいほどの精神力だ。ただの人間が、異種の毒に抗い、意識を保ち続けているなんて。
唖然としている間に、突き飛ばされてよろめいた。遠ざけることに必死で、優しく振る舞う余裕など無いことが窺えた。
「今の俺は、正気じゃない……このままじゃ、またハルキに酷いこと、するかも……っ」
獣のような荒々しい息を吐きながら、背中を向けてうずくまった。
「早く、俺が追いかけるまえに……逃げてくれ……っ」
「……シノ……」
上空を流れる風が、雨雲を追いやる。丸い月が、静かに姿を現した。降り注ぐ銀色の光が、小さく丸まった背中を照らし出す。
入り口に立ち尽くしたままのおれの体の奥で、ドクン、と何かが大きく脈打った。
静かで清浄な光が、異種の血を狂わせる──
一歩、一歩。迷いを振り払うように近づいた。震える背中に手を伸ばし、そのまま強く抱きしめた。シノの体がビクッと大きく震える。
「ハル……ッ」
「今まで……、言えなかったことがあるんだ」
服越しに感じるシノの肌は、異常なほど熱かった。
鼻孔をくすぐる、甘く爽やかな香り。シノの香りを肺いっぱいに吸い込むと、下腹部がズキッと疼いた。
「おれ、シノにあんなことされてから……ずっと、おかしいんだ……」
耳元に唇を寄せ、囁く。
「シノ……こっち向いて……」
苦しげに息を詰まらせながらも、シノがよろよろと体を反転させた。幹に寄りかかる彼の瞳は、迷いと痛みを湛えて揺れている。
手を伸ばし、再び彼の体にしがみつく。耳元で、ごくりと唾を呑む音が聞こえた。
「……責任とって。おれを変にした責任……とって」
震える指が、確かめるようにゆっくりとおれの背中を撫でる。
「……っ……」
服越しに背筋を伝う指の感触に、噛み殺しきれなかった声が漏れた。
「ハ、ルキ……ハルキ…ッ……」
骨が軋むほどの力で抱きしめられる。
そのまま、ゆっくりと体を後ろへと倒された。泣きそうな顔が見下ろしてくる。
おれは静かに目を閉じ、彼の口付けを受け入れた。
シノの腕の中で、彼の熱を感じながら
。腹の奥底で熾火のように渦巻いていた欲求不満が、溶けて消えていくのを感じていた。




