第1話『灰の王冠、まだ幼く』
冷たい雨が降っていた。
夜の帳が降り、石畳を打つ雨音だけが、世界のすべてを塗り潰していく。
その影は、濡れた外套のフードを深くかぶり、両腕に包む小さな命を、胸元にぎゅっと抱きしめていた。
フードの下からは、丁寧に編まれた長い銀髪が雨に濡れ、胸元へと静かに垂れている。
その子は、まだほんの赤子。泣きもせず、眠るように女の胸に寄り添っている。
彼女の瞳は、こらえきれぬ涙で濡れていた。
「……あなたに、名前をつけてあげたかった。……小さな指を、もっと触れていたかった……」
その声は、幼子に語りかけるように、ひとつひとつを噛みしめるようだった。
それは別れの言葉ではなく、愛の名残だった。
「……本当は、抱きしめて、あなたの成長を見届けて……そう願ってた……」
震える唇が、額にそっとキスを落とした。
雨が女の頬を伝うのか、涙が雨に流されているのか、もう分からなかった。
「あたしが弱いせいで、この子に…こんな……」
女はそっと膝をつき、古びた木扉の前に小さな包みを置いた。
毛布にくるまれた赤子の胸元に、翠緑を白銀で彩ったペンダントがひとつ滑り落ちる。
その中心には、霧のように揺れる不思議な光が灯っていた……。
「……神様…そんなのが本当にいるなら…。お願い……この子を……この子だけは、どうか……」
祈るように手を組むその指は、強く、強く食い込み、手の甲から血が滲んでいた。
そして、震えながらも一度だけ振り返り——そっと微笑んだ。
「——あなたに逢えた。それだけで、わたしの人生は光に溢れてた…」
それが、彼女が娘に残した、最後の言葉だった。
彼女は立ち上がり、闇の中へと駆け出す。
その直後——
ぎらり、と。
黒い影が、濡れた路地に忍び寄る。
仮面をつけた刺客が、月光を刃に映しながら姿を現す。
女は振り返らなかった。ただ、剣の気配に気づいて立ち止まり、ゆっくりと短剣を引き抜いた。
雨風にあおられフードがはためく。その横顔から、長く尖った耳が露わになる。
それは、彼女が“この国の者ではない”ことの証……。
「やっぱり……来た」
その声に、もう恐れはなかった。
あるのはただ、ひとつの決意。赤子を遠ざけるための、命の時間稼ぎ。
足音が遠ざかる。剣が振るわれる。闇が、血を吸う。
——それでも、彼女は微笑んでいた。彼女がこの世に産まれた意味、生きた証を、守れた気がして……。
その命が消えたとき、扉が軋む音がした。
老いたシスターが、赤子の泣き声に気づき、扉を開ける。
——こうして、“その子”は、ひとつの名もなく捨てられた。
「まぁ……また、わたくしのケリが欲しいだなんて。ほんとうに、変わったご趣味をお持ちですこと」
乾いた音とともに、男の子が地面に転がる。
その頭には、見事な踵落としの跡。
「いったぁああっ!?な、なにすんだよエルザ!耳が長いとか緑の髪とか、ほんとのこと言っただけだろーが!」
「ふふっ、そういうの……一番キライなんですもの」
「もう一発、欲しくてたまらないのかしら?……差し上げましょうか?」
少女の踵が、またもや宙を舞う。
重たい修道衣もなんのその。
その長く細い脚が、高々と挙げられる。
「や、やめろォォッ! この暴力エルフ!!」
それを見ていた子どもたちが、どっと笑い声を上げた。
「またエルザに、ちょっかい出してる」「あれ絶対好きだよね〜」「子供っぽ〜い」
「ち、ちがっ!違うからな!?そんなんじゃねぇって!!」
頬を真っ赤にした少年が逃げていくのを見て、少女——エルザはため息をついた。
「ふう。幼稚な男子って本当に……扱いが面倒っ!」
だが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
かつては、忌まわしく思っていた、その髪も、その耳も、今ではもう彼女にとって“隠すもの”ではなかった。
「……エルザ」
シスター・ルフィナが、掃除道具を持ちながら声をかけてきた。
「また暴力沙汰は感心しませんよ。あなたたちは将来、神にお仕えする、敬虔なる修道女になるんですよ?」
「ええ、もちろん。わたくし、深く反省しておりますわ、シスター」
きちんと両手を重ね、背筋を正して、お手本のようなお辞儀。
——完璧な謝罪ポーズだ。
だがその足元では、つま先がパタパタと音を立てていた。
(……次、はもっと目立たないようにやろっと)
「口だけでなく、態度でも示してもらいましょう。……床掃除、増やしておきますね?」
シスターはエルザに、モップと桶を差し出す。
「うぇええ!?」
ブツブツと文句を言いながら、エルザはモップを手に取る。
その姿を、窓の外から見つめる影は、誰にも気づかれることはなかった……。
陽だまりのような、孤児院の午後。
笑い声、騒がしさ、温もり。
そして、何も知らぬ少女の横顔。
だが——この場所には、戦の火が近づいている。
この平和な日々が、永遠に続くことはない。
やがてこの少女は、自らの宿命と対峙する。
そして、歴史は彼女の名をいずれこう記す。
——《灰冠の妖精女王》と。
「モンスター美少女たちのパパになったら、全員俺を殺しにくるんだが!?」のスピンオフ(?)
よろしければ、そちらの本編もお読み頂けると嬉しいです。